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哲学いろいろ

#9

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第九章 ルウソの一つの発展的な継承

自然法》をいいだすなら この十八ないし十七世紀の思想家たち はてはヨーロッパ思想史の全体に触れなければならないだろうし ほかにも例えば《二重の人間》を論じたのなら――それも 自然法の問題とからんでいるとともに―― マルクスのいう《労働の二重性》をうんぬんしなければならないだろうのに ここでは スミスを除いては きわめて恣意的に ルウソひとりに 議論をしぼっている。そのルウソ本人にかんする研究史――ぼう大な――にすら 言及しない。私的な覚え書きのまま あるいは何らかの新しい視点をみいだすことができるならとおもってのことである。
しかも 社会科学はおろか 経済人の側面にも まだ すすまない。人間の自己教育の主題にとどまることにしたい。
ここまで来れば じっさい この一つの主題のもとに 社会生活の基礎である経済行為の問題を含むべきであるかとも思う。たとえばスミスをとりあげるのなら 《自然人=同感人》の自己教育は 《経済人》の基礎側面と不可分である。いいかえるなら この基本実践たる《自然人=同感人》は 歴史的にいわゆる近代人が それとして出発したということであるし 現代から見ても そういう視野のもとに ルウソさえも把握していくべきである。それでも ここでは強引に ルウソの《単一の学問》(第六章)にとどまろうと思う。
その意味は 《往きの自然人確立=還りの同感人実践》という人間の――または近代人の――原点=出発点は 抽象的に考える限りで・つまり思弁的にということになるが それが基本形式であったとするなら 社会の習慣・制度の一環である経済行為に対して その経済行為が けっきょく社会制度――つまり歴史的には中世封建制からの社会制度――の制約に阻まれないで 自由におこなわれるようになること これを 予表していたと思われるからである。つまり 《経済人》という一つの基礎側面の実践をである。
分業が 問題である。たしかにそうなのであって たとえばルウソのいう《社会人》とは 新しい近代人としては 経済(生活基礎)=社会(社会組織・秩序規範)=政治(自治・社会組織の共同自治)といったかたちでの広義の社会における分業のなかにいる。そうして 経済活動が 分担されて 同じく協業する。いうところは ばくぜんと社会の分業=協業はそれまで中世社会にも・あるいは人間の社会の発生以来 おこなわれてきており しかるにこの自然人=同感人の・つまりは近代人の 再出発としては 社会生活・とくには経済生活の側面を 一人ひとりが独立して自由に おこなう方向をめざした。つまりは この一人ひとりが基本実践するところの自然人=同感人が 社会的な役割を分担することそのものが――まったく同じことで 人間の自己教育そのことが―― 経済=社会=政治的な習慣・制度を たしかに新しくつくりかえる進路をとった。
だから 分業から生じる――例えば階級関係といった――問題については 分業形態をよほどなくさない限り(なくすという新しい方向をとるのでない限り) 教育問題に対しては それ(分業問題)が 従属する位置にある。人間の教育の問題は 社会一般に基本的に確立されたので したがって 分業関係があらたに問題なのだというのでない限り――そういう場合は そういう前提に立つと はっきり宣言してから 事にあたるべきであり―― 近代人の出発点が きわめて抽象的にでも なお議論(再確認・再確立)される余地がある。
そして 分業関係の処理は そのあとだということであるが これは 時間的なあとではないのだから その処理にあたる社会科学とその教育は いまの人間の教育と あいたずさえて 進むことができる。そして ただし 個人的な道徳哲学・教育理論さえ 人間の自己教育にとってその補助手段であったように 社会科学の理論あるいは実践も どちらといえば・基本的に 従属的な役割をもつものだといっても いいすぎではないだろう。あるいは いわゆる政治革命ののちに あたらしい――それがどんなであるかは争われるべきだが―― 経済制度のもとで ふたたび人間の教育すなわち近代人の再確認・再確立をおこなっていくのだという場合にも 話は別であるだろうが。

  • 分業の問題について《マルクス葬送 または会議人カール 併せて同感経済人アダム》:2005-12-23 - caguirofie051223にて いくらか扱っている。

ここでは ルウソに焦点をしぼる。
ルウソに焦点をしぼることは いつまでもルウソ(少なくともその時代)にとどまることではない。《エミル》におけるルウソの主張を スミスの行き方とも違って 別のやり方で議論するような場合 この場合を例示的にとりあげたい。
ポール・ヴァレリは――とやはり恣意的にかれをとりあげるのだが―― 自然の教育にもとづく人間を 論じた。ルウソおよびスミスの《自然人(原点)=同感人(出発点)》の主張を継承し 歴史過程にそっては そういった近代人の再確認=再確立を 一連の《レオナルド・ダヴィンチ論》にあらわした。
自然人確立という基本形式の実践を ルウソやスミスやとは別に ヴァレリがどのような表現形式(だからまた文体)で主張したか。まずこれを見るまえに 《哲学者たち》に対する批判をふくむ同感実践の点で 三者がどのように同じであるかを 見てみたい。
ルウソの場合 すでに《哲学者》――懐疑論者・自然の歩みをみとめない無神論者――であることは その人間の教育方法が 自然の教育にもとづくものではないと 断定するようなかたちで きわめて直接に 同感実践する。つまり 批判する。ただし 《狂信的な不寛容の人びとにむかっては》 哲学的な人間教育の概念・理論で 話し合うのだということは 上の直接的な同感実践(還りの実践)とこれとを綜合するなら 全体としてみたスミスの行き方と同じものに帰結する。そしてスミスは 道徳哲学――ないし教育理論・理念――からみちびきだされた一般的な規則(規範)を 同感実践のとき活用するのだが それは 自由な・すなわちわかりやすくいえば流動的なものでなければならないと考える。なお簡単にいえば 《不寛容な哲学者》であってはならないということである。
一般的な規範――たとえば人間愛――をふりかざし さも人間愛という動機以外のなにものも持たないというようにその動機に満ちて 哲学者(アテネを観念の子に持つ主神ゼウス)が同感実践するような《極端な同感》をしりぞけている。たとえば福祉の理念・理論は 同感実践でそれを用いるものだが これは 相手と 互いに自然人であることにもとづき 具体的に手づくりで 同感しつつ おこなうのであって 福祉あるいは経済援助などなどという《還りの実践》は きわめて相対的で自由なものであると その点で ルウソに同感するはずである。
しかるにヴァレリがいうには

まことに 《他者》があるということは思索者の得々たる自尊心にとっては常に不安なものであります。さりとて他人の専断が振りかぶってくる大上段の謎かけにぶつからないでいるというわけにはまいりません。他人の感じること 考えること 為すことは ほとんどがいつも向こう勝手にみえるものであります。われわれがこちらのする事のほうを何にもまさるとみますのも こちらが仕手と思う必要からこれを守り固めるわけであります。でもやはり 《他者》はあるわけですし 謎かけは迫ってくるわけであります。

  • 同感人の同意から出発しておこなうものなのか すなわち 互いに自然人の原点に立って きみは同感実践しているのかと 心で=つまり同感人として 相手を試しつつ 謎をかけつつ 対話=交通=だから特には経済行為をおこなうはずだという。

それは 二つの形でわれわれを揺さぶります。その一つは 行状・性格の違い つまり 身体とその働きの維持にかかわるすべてにつけての決め方 態度の相異にあるもの もう一つは 趣味好尚 つまりは 感性の表現 考察の仕方に種々あることからあらわれてくるものがそれであります。

  • 還りの実践は こういった些細な事柄すらからんできて きわめて相対的・臨機応変すべきようなものであり またそれだから 自由である。つまり自由におこなうこともできる。いま或る制度方式にかなりの程度 依存しつつ それから自由でありうる つまり 方式を自由に処理すらしていけるという。


わが《哲学者》はこれらの事柄すべてを いちいちなんとか自分の世界に同化するか又はお手のものの可能性というものにしてこなさんものとその持ちまえの理知の光の内に吸収しないではおさまらないのであります。《哲学者》は《理解する》ことが望みなのであります。《理解》という言葉の精一杯の意味で《理解》しようというのであります。ですからこそ《哲学者》は行動の価値論 情動の表現または創作の価値論――《倫理学》と《美学》と――を造りあげようと考えこみにかかるのであります さもそれは 煩悩も行動も情動も人間の発明工夫も全能至上・抽象純一の《我れ》(――ゼウス――)をもってすれば擒(とら)えておけるつもりなのかこの双対の翼廊(=倫理学と美学)なくしてはわが《思考の宮殿》も未だ成らずと思ってのごとくであります。
およそ哲学者は 《神》を釈き 《自我》を片付け 《時間》《空間》《物質》 もろもろの《範疇》 もろもろの《本質》に決着をつけおわると 人間とその製作物のほうを振りかえってみるものであります。
(ヴァレリ:レオナルドと哲学者たち 《レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2)》pp.143−144)

ヴァレリにあっては 哲学者たちは ルウソの時代から比べて 進歩しているのを見る。ルウソやスミスの批判がきいたのか その哲学という持ち場の内にとどまるようになっている。だとしたら ここでヴァレリは とうぜん社会の中で 哲学者たちをそのいわば分業として割り当てられた仕事場から なおも外へ引っぱり出しつつ やはり 自然の教育=人間の教育の線で 一つの同感実践をおこなっている。これを見ることができる。
哲学者は 哲学を専門とする者として 近代人であることはできるが 近代人であったあと 哲学者である人間へともっぱら移行していってしまうことはできないというのである。これは ルウソやスミスと同じ実践――少なくとも系譜じょう――だと考えられる。
同感実践の一般――《自然人=同感人》確立の一般――についてのヴァレリの主張のしかたは べつの一例として とりあげることができる。これは 還りとしてよりも ルウソのように 往きのそれではあるのだが 時代のちがいも作用してのように いま一つの表現形式の特徴として 見ることができる。つまり 往きの表現実践が すでに還りのそれと 通底するかたちで あらわされた。この結論がただしければ その意味でも いまはまだ 抽象的・思弁的な議論そのもので 人間の自己教育に参加できる。
ヴァレリにとって じつは《自然》は 個人の主観がすでに捉えているもの しかもだから 人間的な主観的なものに なっている。《この〈自然〉という言葉は 経験のありとあらゆる可能性を含んでさも一般に共通なもののようにみえながら 人によって全く別々である》(レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2) 序説 p.3)などといったりする。だからというか しかしながらというか 《自然人=同感人》を 《普遍性 universalité 》とか《人間 / わたし》とかあるいは仮りに《レオナルド・ダ・ヴィンチ》と名づける。
先に この《普遍》――だから旧い言葉で《自然法主体》――への往きが すでに還りの実践と通底するかたちをとるという点を 次の文章の中に見る。

私はこの人間には森羅万象が測量標になっているところを思い浮かべる。この人が日常に想うのは万有 univers (――普遍性――)であり また厳密ということである。それは存在するものの錯雑する中に入りくるものの何一つ たとえ一木一草たりとも 忘れぬように出来ている人間である。この人は 万人のものたる物の奥底へと降りてゆき そこに遠く分け入り そして自分を視る。この人は 自然の習性 自然の構造に手を触れ これをあちらからもこちらからもいじくっているうちに ふとひとりになって組み立てたり 拾いあげたり 人を感動させたりという具合である。それは いくつもの教会堂を建て 城塞を築き また 優雅の趣 雄大の気あふれるあまたの飾りつけ 幾千の機械兵器 それに探求に探求を重ねた夥しい精密な作画を物する人間でもある。
レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2) 序説 pp.12−13)

この文章の欠陥は 時代にかかわる問題として旧いこと――たとえば平和志向ではない―― それと レオナルドの座右銘であった《厳密一徹 Hostinato rigore 》が 実践の一般規則となるかのような印象をあたえることがそれである。また 庶民が参加しないで ただ見るだけの演劇をきらったルウソにしてみれば 作為的な装飾をも嫌うかも知れない。そうして 言おうとするところは 自然人=同感人が 普遍性にもとづいて すでにそのまま 社会人ないし経済人であると捉える点である。この《人間》としての実践そのことはヴァレリによれば 一例として次のようである。そしてそれがなければ 上の《自然人=同感人》と《社会人》とが通底するという観点は あまりにも通念そのものに堕する。

レオナルドのことで こんなところまで迷いこんでしまって さて俄かにどうして我れにたちもどってよいものやら分からない・・・なあに! どの道からでもいけるだろう。これがこの我れというものの定義である。我れというものは絶対に無くなることはないものである。無くなるのは時間だけである。
それならもう少し精神の行方 精神の誘われる方へとたどってみよう 仕方がない 心置きなくたどってみよう それでも決して真底にまで達することはあるまい。われわれのいかに《深遠》な思考といえどもそれは抜き差しならぬ数々の制約の中にはめこまれているのだから およそ思考というものはいずれも《皮相》のものたるをまぬがれない。人はただ転換移項の森に分け入るか それとも 四面を鏡に囲まれた宮殿ででも 一檠(いっけい)の孤灯 鏡に胎(やど)るを 鏡がこれを無限に産みなすというわけである。
ヴァレリ:追記と余談 レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2) pp.107−108)

ルウソにとって ただ哲学者たちの《自我》にもなった《我れ(わたし) le moi 》が ヴァレリにあって こうして ルウソの《自然人》となっている。《われ》のであっても その《思考》とて 《皮相のもの》・つまり社会制度人のものにすぎないというのであるから。ヴァレリにとっての《わたし》は ルウソの《自然人》であり その出発点からの還りの・具体的な同感実践は とうぜん社会制度のうちに 相対的なものであることを言う。ただし――だから この同感実践を 理論的にも実際のものとしても あまり明らかにして示そうとはしなかったのではあるが―― このような《われ=人間》は すでに一例としては 都市の建築にすすんで従事しているという恰好である。

個人の最も真なるもの 最も《その人そのもの》なるものは その《可能性としてあるもの》である――これをその人間の歴史(《社会人》としての)から引き出さんとしてもそれは不確かなばかりである。
その身に起こってくることでも自分でも知らないことは その人の歴史からは出て来ないわけである。
一度も叩いたことのない鐘は その鐘のもつ本音は出さぬわけである。
(同上:追記と余談 pp.88−89(欄外自註))

ルウソにとっての《人間》 そしてほかならぬ《自己》は――自然の教育にもとづいた義務の感覚の自由な把握および実践として―― こういう表現形式でも 自己教育(自己到来・自己の動態)していくことができるわけである。抽象的にして経験的な基本形式のもとに。

  • なお ヴァレリの同感実践は 一つの理論として 《精神の政治学自治およびその共同)》にある。つまり スミスの同感行為のことである――とくに《わたし》のその社会的な動態過程のことである――。スミスではさらに 経済人へ ルウソではある意味で 社会契約人へ それぞれすすむ。
  • ヴァレリの精神の政治学については 《文体》:2004-12-17 - caguirofie041217を参照。