caguirofie

哲学いろいろ

#14

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第十五章 つづいて同じく新しい出発の地点(あるいは進行の場)

ここで わたしたちの出発の地点は 新たなものになっていることを 確認しておきたい。
自然人の原点にもとづいて 同感人の生活態度が 一般にわたしたちの出発点である。ルウソにしたがって わたしたちはかつて旧い一個の社会人であったとき 自然人確立という基本形式の実践をもった。その還りの実践としては スミスに倣って 同感人たる新しい社会人としての自立というふうに捉え これを広く 人間の教育――人間をつくる――の一般的な内容とした。ここで 新たな議論の出発の地点は 人間の自己教育たる同感実践において 個人を個人として知るというものである。これを 以前には 《教育の理論(道徳哲学ないし倫理学)を補助道具として用いる人間の自己教育》というふうに呼んでいた。新しくは 同感人は一人ひとりが 文学者(文学人・文学主体=生活者)であるという地点である。
しかも 大前提は ことを《教育》にしぼっているから ルウソにしたがって 自然の教育である。
個人を個人として知り交通しあうという文学人(発話者 意見を表明しあう対話者)としての同感人は 一方で 哲学理論を その同感実践の補助道具とするのも 自然の教育にもとづこうとするゆえであり――いいかえると いくら《還り》の実践であるからといっても その人間の教育を それじたいで絶対的に独立させることなく 決定的な一般規範を説きそれに従属させるものではなかった ということであり―― 他方で この《補助道具たる哲学理論》が さらに《個人を個人として知るその文学交通》をあつかうということでなければならない。もともと そうなのだが ここで 《社会(その制度)》の総体にかかわるものでなければならない。《個人と個人として知る》ゆえにこそむしろ 社会の全体と 少なくとも無論 観点として かかわったものでなければならない。また 必然的にそうなるはずである。
単位主体たる個人を知るゆえに その交通の社会的なひとまとまりである一定の全体の範囲にまで 必然的に普通に かかわると考えられる。経済的な分業のなかに 生活(文学)しているのなら 交通理論の同感実践は その主体たる個人のゆえに 全体にかかわる。
いいたいことは ルウソの《社会契約について または国法の諸原則 Du contrat social ou principes du droit politique 》(社会契約論 (角川文庫―名著コレクション))が 上にいうような位置にあるということになる。この視点に固執しようとも思わないが ここでのわれわれの議論は この一視点のもとにある。すなわち ルウソの社会契約論は 自然の教育にもとづく人間の教育(同感実践)の一環であり しかも新しい出発の地点として 《個人を個人として知る文学人たちの交通の理論》におさまるものであると見るということ。その意味は したがって 《政治的な権利 droit politique の諸原則》を明らかにしようとするこの社会契約の理論は 人間の自己教育だということにある。同感実践が それはとうぜん新しい社会人としてなのだから ここでは――経済行為にではなく――共同自治行為の側面で 理論的に明らかにされようとするし また同時にその理論を そこですでに文学人たる個人個人が 用いあっていくという性格内容のものである。
《エミルが統治の問題 統治者の行動 かれらのいろんな格率(原則のあとの行動方式)のすべてに精通して帰ってくる》(エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) pp.226−227)必要がある。またそうなるはずである。同感実践する新しい社会人として。ルウソは

国制法〔国家基本法〕学( droit politique )はこれから生まれなければならないのだが それはけっして生まれることはあるまいと考えられる。
エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) p.227)

などと言いつつなのだが 次のようにも言う。

この重大な しかも無用な学問をつくりだす能力のあったただ一人の近代人は高名なモンテスキューだったにちがいない。しかしかれは国制法の原理を論じようとはしなかった。かれは既成の統治体の実定法( droit positif )を論じるだけで満足した。ところで この二つの研究以上に〔互いに〕ちがうものは世の中にはないのだ。
(同上)

要するに 《実定法(つまり法律)》も すでに 同感人の活用すべき文学交通の理論に含まれるものだが この含まれるものだということを ルウソが強調する。文学人たちが同感実践で その交通理論ないし法律を 活用するためには 《国家》といった統治体あるいは一般に社会に総体が この実定法を持つにいたるときの前提になる同感理論つまり原則を 知ること もしくは 再確認・再同感しあうことが肝心であると言ったことになる。具体的には 憲法のことになってくるが 《自然の教育》という大前提が 《原理》であろうから ルウソ自身もここで《 principe 》ということばを用いているけれども 人間の教育としては 《原則》ということにしたい。《憲法》の基礎としての法の精神ということにもなる。

自然の歩み(自然の教育) =原理 =永久法
自然人 =原点 自然法
同感人 =出発点 自然法主体
同感実践の交通理論 =原則 =共同自治基本法憲法
社会人 =交通規則 =実定法(法律)

《エミルまたは教育について》では この《国法の諸原則》を 同感交通の理論として 知ることは 《重大な しかも無用な学問》だとルウソは言う。《これから生まれなければならないのだが それはけっして生まれることはあるまいとも考えられる》などと言って かれは 《社会契約論》を書いた。この点にかんしては ことばのあやとして そしてそれに何らかの意義があるとするなら 学問じたいが――つまり学問がそれじたいで―― エミルやソフィの主要な関心事となることはないということであろうとして 深く詮索しない。われわれは ルウソと同じく 目標をもっているし これを実行もする。国家基本法学は この自然の目標・その実践過程のもとに 相対的なものとして それなりにしかるべきかたちで つくり とらえていけばよい。

最善の統治形態についてはいつの時代にも盛んに論議されたが それぞれの形態はあるばあいには最善のものとなり 別のばあいには最悪のものとなるということは考慮されなかった。
エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) p.242)

という。ということは この文章だけに限るとすれば 《政治的権利の原則 国法の制定されるにいたった根拠》を知るなら 社会総体の共同自治にかんする同感交通の理論(その制度形態)は あくまで相対的なものだと言っているとも考えられる。ちなみに いい意味でもわるい意味でも これは ルウソの一つの結論でさえあるように考えられる。《社会契約論》を自分で人とは別に書いておきながら

習俗(生活交通)と〔その〕統治の必然的な関係は 《法の精神 (上) (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版)》という書物で十分に述べられているから その関係を研究するにはこの著作を参考にするのがいちばんいい。
エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) p.246)

とも言う。《国法の諸原則》→《いくつかの統治形態の互いの相対性》を知ったなら あとの実際の同感交通つまり その《習俗と統治との必然的な関係》は 自分の知ったことではないと 言えるようでもあり ただし 言えるようであるときその人は さらに 個人として特定の統治体の実際の情況のなかで 自分の知ったことを 文学することになるはずである。この点で 《いい意味でもわるい意味でも》である。
《国法の原則 つまりむしろ その成立の前提》は 社会契約であるはずだ。その《社会契約が守られたことはないとしても 統治と習俗との必然的な関係で 秩序が保たれたとしたら 秩序をとうとぶ同感者個人を成立せしめているとしたら それでもけっこうではないか》(cf.§14)と言ったり

かれ(人間)は法律からなんの利益も得ていないというのは正しくない。・・・法律はかれに自分を支配することを教えたのだ。
エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) p.258)

とも言ったりする。そうして これらの総合的な一つの結論として 《きみは 同国人のいるところへ行って暮らすがいい。気持ちよくつきあって かれらと友情をむすぶがいい。・・・かれらのお手本になるがいい》であった。
つまり わたしたちは新しい地点に立って 《社会契約論》をまなんで さらに出発しようとしているのだが それにあたって この理論の占める位置をとらえておこうということである。だが 少し弱音をはくと どうも はっきりしない。はっきりしていることは わたしたちの観点の問題だが 仮説としたところの新しい出発地点である。人間の教育の一環として 文学交通の同感理論の政治的な側面として それを位置づけるという点である。消極的に うしろを振り返ったかたちでは 上に一つの結論を見てみたように この仮説は 一つの観点としては 成り立つのではないかと思っている。だが その先へさらに進もうとすれば やはりはっきりしない。仮説がまちがっているのだろうか。国法・政治形態への同感理論――つまり社会契約論――はこれも 《無用なもの》であり《けっして生まれることもない》と考えるべきなのだろうか。
新しい出発地点は 仮説の限りで 固執することにしよう。そうすると どうか。上で引用した文章(エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) p.242)のあと つづけてこう言う。

わたしたちとしては さまざまな国家において 為政者の数は市民の数と逆にならなければならないとするなら 一般に〔為政者の数の多い〕民主政は〔市民の数の少ない〕小国に 〔為政者が一人の〕君主政は大国に適当であると結論しよう。
(ISBN:40062233:title p.242)

これは なんのことか。《為政者の数がふえるにつれて 政府が〔それを構成する為政者たちの互いの意見対立によって〕弱体になること また 人民の数が多ければ多いほど 政府の抑圧力は増大しなければならないことを知ったあとで》(同 p.240) 上のことは いったいなにか。国家ないし社会を構成する市民 あるいはその中から政府をになうにいたる為政者たる市民 これらの人びとは 自然人にのっとって新しい社会人となっている すでにそう前進しているのではなかったか。つまり 少なくとも その《お手本》になる人間が 一人あるいは三人いるではないか つまりその筆頭である教師ルウソがエミルを創造し これにソフィが加わったのではなかったか。新しい社会人たる人民が多かろうが 為政者の数がどれだけであろうが かれらの意見対立――つまり 一般意志と個別意志との対立――が なくなるというのではなく この矛盾対立に対して 同感実践を 過程的にまた社会(共同自治)的に すすめていくのが 教育の主題ではなかったか。――われわれは 新しい出発地点の仮説に固執して 言っている。
《政府が弱体になるかどうか その抑圧力が増大しなければならないのであるかどうか》 たとえそういう経験現実が起きようとも それは 相対的な問題なのではないのか。ゆえに 国法成立の原則として 自然人は同感人の出発点において 新しい社会人として 《社会契約》をむすんだと 仮定して 議論がすすめられているのではなかったか。そういう教育問題――だから いまこのように われわれの仮説によって見てみようとしていることがらは 未実現でもよい――ではなかっただろうか。
またまたルウソの揚げ足取りをおこなっているようであるが この場合は 内容の問題としては 揚げ足取りではないだろう。
理論上 考えられ得る最善の統治形態が 必ずしもそのまま〔習俗のともかく秩序問題として〕最善の同感実践を保証するとは限らないということは いづれにせよ 社会契約にのっとって・つまり新しい同感人として この共同自治の形態はこれを 人びとが自由にえらんだ結果としてあるものだし また自由にえらんでいけるということのはずである。社会契約が守られたことはないとしても そうである。つまり 国法の存在が――なぜなら その成立の根拠は 暗黙のうちに仮定的に 社会契約であるという見方に立って―― 消極的なかたちでとしても 社会秩序への同感者たる個人を成立せしめたとしたなら それでも けっこうではないかであるから。たとえこれが 循環論法で 堂々巡りにしかすぎないとしても それはむしろ 教育の目標の問題・その限りで未実現の部分を残しているところの実践に かかわっているゆえだけなのではないか。
つまりエミルは新しい社会人である。自然人への往きの実践が なお依然として 大前提であることと この統治の問題にぶつかって こんどは後退するようにふたたびその往きをとなえることとは 別である。エミルが 国法の原則すなわち 人間の出発点で人びとのあいだにむすばれた社会契約というものを まなぶということは 同感人として自立することである。たしかにそういった教育の一環である。同感実践の原則を問い求めて 文学交通が こういうふうにして――つまりここでは 経済人の側面を問わず 共同自治の側面で―― 〔自然人の原点から来る原則として〕考察されたことを エミルは学ぶはずである。あるいはすでに そこから出発進行していっているはずである。エミルは この相対的な同感行為の領域で なにか強きになる必要もないが 内気になる法もない。わたしたちは 強気になったみたいに強引に この視点をもって 社会契約論をよんでみたい。