caguirofie

哲学いろいろ

#18

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第十九章 社会 社会 社会

《社会契約論》をとらえるにあたって あまりにも図式的であり かつ 話題を強引に 教育の問題に引きもどしたことになった。しかし 弁明するよりは このままの線ですすんだほうが 議論は生産的であるかも知れない。
《社会契約論》について もう少し。――
ルウソが《最初の社会について》(1・2)考えるとき 家族をとりあげる。そして言う。

家族は いうなれば政治社会の最初の典型である。首長は父親 人民は子供たちをかたどっている。
社会契約論 (岩波文庫) 1・2)

これは うそである。《政治社会》も《家族》も 最初の約束――人びとが交通しあうという一点――にもとづくのである。家族のばあいでも

子供たちが父親に結びつけられているのは 自分たちを保存するのに父を必要とする間だけである。この必要がなくなるやいなや この自然の結びつきは解ける。・・・だから 家族そのものも約束によってのみ維持されている。
(同上)

のだから。もちろん いわゆる自然の感情を もちつづけてもよいのだが。だから 《家族は――この成人したあとの家族関係の意味で―― いうなれば政治社会の最初の典型である》かも知れないが 政治社会において 《首長は父親 人民は子供たちである》状態が 成り立つのではない。《首長は父親 人民は子供たちをかたどっている》といったあと 《すべてのものが平等で 自由に生まれたからである》(同上)とルウソは つづけているのだが 次のようにも言う。

そこで家族と国家との差異は次の点に尽きるのである。すなわち家族において 父親の子供たちへの愛情は 父親の与える養育の労を償うが 国家において 首長は人民にこのような愛情をいだかないので 支配の喜びが愛情にとって代わっているという点である。
社会契約論 (岩波文庫) 1・2)

これは さらにその後の議論から推しても 否定的なもの 皮肉ったものではある。また 全体が一編の教育物語――同感交通にかんするところの――であったとするならば 話をしまいまで聞かなければならないような状態にしておくことも まちがいである。
この《最初の社会について》の一章(第一編第二章)は 《あらゆる社会の中でもっとも古く またただ一つの自然なものは家族という社会である》という書き出しの一文につきるとは思うのだが それを 政治社会と対比するところでは あいまいな点がのこると思うのである。
上の直前の引用文は 争われるべきいろんな論点をふくんでいる。《家族は 子どもが成人したあとでは 親族としての自然の感情をなおも伴ないつつも 新しい社会人として交通しあうという約束によって維持される》というとき 子どもが子どもである段階もあるのだから その段階と 政治社会とを類型的に比べてみると 《首長が人民に対するのは 子どもに対する父親のごとくである》と見うる場合が生じているのかも知れない。首長は 一般に国家形態をとるようになったなら 最初の約束にのっとる同感交通人の象徴として これを一身に帯びるという観念的な事実形態も生じてくるであろうから。
ところが この場合でも 先の類比は成り立たない。同感人の模範たる首長を立てるのは じっさい 子どもとしてではなく 成人した社会人どうしとして 最初の約束を そのように――その限りで―― 応用・適用したのであるから。
したがって 首長と人民とから成る政治社会では 《首長は人民に 父が子にいだく愛情をいだく》かどうかは まったく 話題にならないのである。人民は子どもの段階にいるのではないから。《支配の喜びが愛情にとって代わっている》とか いないとかは 議論にのぼって来ないはずである。これは 政治社会を 家族との類比において とらえたはじめの見方の欠陥である。この欠陥にもとづいて議論したことがらは そのことによって 首長は だから欠陥をもつとか あるいは いや首長はやはりあたかも父親のごとくであって 一般意志の愛情にみちているのであるとか あげつらったとしても どちらの論理も 成り立たないのである。
つまり この一つの章(第一編第二章)では 《家族は 子どもが子どもである段階を含みつつ 総じて しかしながら 人びとが自由に平等に交通しあう最初の約束にもとづいた最初の社会である》ことを言い これにつけ加えるならば 政治社会も同じく そうなのだというその意味での類比を見るということに つきる。政治社会には 最初の約束の一つの応用形態が見られるというものである。そして この議論の展開としては 最初の約束にまったくもとづかない政治社会は いかなるものであれ 存在しないか または 社会として 無効であるといったことになる。
言いかえると たとえどんな悪らつな首長が出たとしても 最初の約束にもとづいた国家形態・社会制度であるなら その法律・社会秩序は 基本的に 《神聖なるもの》だし しかも むしろこの基本によって 悪徳にみちた同感(偽感・反感)交通に対しては これを指摘し これをあらためていくことができるというわけである。この意味で 《社会契約すら可変的なものである》(cf.§17)。
ルウソの議論は いくらか――または かなり――あいまいである。つまり 国家形態の一員としての社会人が 最初の約束を守ることを約束するところの社会契約(つまり市民の宗教の宣誓の儀式を経るところのそれ)は 可変的なものであり ただし 一般に普通に考えて 《最初の約束》は この地上でわれわれが社会生活をおこなう限り それほど可変的なものではない。

このように見ると(――つまりは 首長は父親 人民は子どもであると見ると――) 人類は多くの家畜群に分類され 各群はその首長をいただき 首長は各群をくいつくすためにその番をしていることになる。
社会契約論 (岩波文庫) 1・2)

つまり ルウソの言わんとするところは わかるわけである。《人間は生まれながらにして自由であるが しかしいたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが 事実は彼ら以上に奴隷である》(1・1)などなど。論理 あるいは理論は まだ出来上がっていない。とエミルなら 先生の非を指摘するはずである。先生は たとえばつづく〈第五章〉で これを補う(cf.§16)。そして 《父親と子どもとの関係にある段階の家族》へは もはや政治社会をたとえないとすると ルウソにとって いまひとつの問題は 奴隷と主人との交通関係は はたして 最初の約束にもとづくものかどうかにある。これのほうが 言いたい点である。《人民は家畜群で 首長はその牧者である》というのは 約束の正当な運用ではないと結論づける。

奴隷権は それが正当でないというだけではなく 不合理で なんの意味もないという理由からしても 無効である。この《奴隷》と《権利》ということばは矛盾し 互いに両立しない。ある人間が他の人間に向かって言うにせよ ある人間がある人民に向かって言うにせよ 《私は すべておまえの負担になるよう またすべてが私の利益になるように ここにおまえと一つの約束を結ぶ。私はすきなあいだこれを守り おまえは私のすきなあいだこれを守る》ということばは 相変わらず不条理なものであろう。
社会契約論 (岩波文庫) 1・4)

  • 大日本帝国憲法から日本国憲法へ変わったとき あたかも この無効の約束の下にわたしたちはあったかに思われる。だから 誰にも敗戦の責任がないということなのかも知れない。そうでなければ 誰かきちんと責任をとるはずである。

この一つの補論によってルウソは ここまででは ある首長が立った国家形態において それが有効な最初の約束にもとづいているのなら 可変的だけれども一つの社会形態としての人びとの同感実践はそこに見られるということが 一点 そしてもう一点は その最初の約束にもとづくというとき たしかに互いの自由意志をみとめあい それによって同意したもので(約束の一適用形態で)あっても 奴隷と主人との――家畜群と牧畜との――同感関係を結ぶという社会契約は 正当ではなく無効だということ これらの点が 協議されたことになる。
これらは たしかに 家族を最初の社会とみることによって 一つには 成り立つものと考えられる。親子のあいだで その子が成人していようがいまいが たとい奴隷契約をむすんだとしても そして 二人のあいだでは 《同感》されていたとしても それは 趣味の問題・私的なあそびの問題であって 社会的に通用するものではないと考えられるから。同感交通しあわないと同感交通することは 成り立たない。
そうして このような議論は 教育物語だと思うのである。教育勅語も 君に忠を除いて ある一つのかたちの同感交通をあらわす教育物語である。君に忠は 国王が主権者だとした場合で考えても 主権者(その法律)に忠誠であることと 君に対する私的な趣味の問題としての 一種の奴隷契約であることとの両方を 含み持っている。前者は 一つの歴史段階としても 有効な 同感交通をあらわしていたかも知れない。後者は 最初の約束にもとづかず 無効である。ルウソの議論が 一つの教育物語であるというのは 言いかえると いい意味でもわるい意味でも 一つの《たとえばの話》である。
悪い意味というのは 《たとえば》の内容が 直接 経験事実として存在する社会的なことがらとつなげられ 不寛容にならないとしても 悪い首長ならその悪い首長に 直接 意見するというかたちをとりがちである。また 意見すればそれでよいかのごとく――批判すれば 義務を果たすかもごとく――とられがちである。《人間は生まれながらにして自由であるが しかしいたるところで鉄鎖につながれている》ということばが そのあとるウソは 《ある者は他人の主人であると信じているが 事実は彼ら以上に奴隷である》とつなげているのだが だから じっさいの同感行為としては これら主人と奴隷との交通関係は向こうなのだから 《つねに最初の約束にさかのぼ》って 有効な社会交通をきづくということになるはずなのだが さいしょのたとえが 一人歩きしがちである。もしくは 一人歩きしないとしたら この物語をよめば それで事は済んだと とられがちである。
いい意味というのは この人間の教育が もはやたしかに社会人としての問題あつかっており しかも これが 平面的には 社会=政治=経済的な社会主体の観点 垂直的には 自然人=同感人=経済人〔等々〕のやはり全体の観点をとらえており――物語であることによって 文学的にこういった人格の全体の観点をとらえており―― また 同感交通の理論にかんしては ただちにそこで この利rんを用いて 表現行為として実践するという行き方をとっているからである。
つまり 社会契約物語は 両刃の剣だということだが けれども 物語とか文学とかの視点・行き方が ただちにそうだということにもならないであろう。それは このルウソの物語のなかの ある種の理論が 《原則》として《最初の約束としての社会契約》という概念に 一段ひきあげてのように たとえられていったことに 起因すると思われる。つまりは 《たとえばの話》が さらに一般意志を固く保持せよとか 市民の宗教を制度化せよということではないと思われるのである。つまり そう言ったとしても それらは 最初の約束の自由な実現のためだという見方を ルウソも しているところがある。