caguirofie

哲学いろいろ

#27

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

付録の補論――あたらしい会議論へ向けて――

§36(あらためてスミスとルウソ)

近代市民(近代という時代に生きた一人ひとりの人間という意味だが)としての《自由な労働者》――不自由な生活者でもあった――にとっての むしろ独立自由な存在ゆえに・人間のそのような先行するものとしての存在をとおして 人間の後行する経験行為として集まってすでに協議する必要のないほどに おのづからその場に列席したところの《会議 synod 》。この会議は 基本的に人間学のことであるが この先行するものは 後行する経験領域に対して 時間的な先後の関係でもあるいは支配的な優越性として立つ関係でもなかったから 一般に経験的な人間学をもっている。道徳哲学(人間の交通信用の理論)とか政治学(社会の共同自治の理論)とかである。ところが 近代市民の会議は とりわけ会議の成立ゆえに 生活のうえで 食べることとか そのために額に汗してはたらくこととか そういった非貴族的なと見られがちな経済活動を 自立して自由におこなっていくことに 劣等感をいだかなかったばかりではなく これをとおして生活を維持し それをとおして 会議の歴史的な進展を めざすことをえらびとった。芸術はどこにいったのかと訊かれるなら 経済行為じたい・あるいはそれをとおしての社会活動一般 これこそがわれらの芸術であるとさえ答えるのをおさえがたいほどのものとして。
一つの認識としていえば この経済活動のなかに 基本人間学の理念をあらわしていこうということである。経世済民とかオイコノミア(家の法)とか言うのだから。この限りで この会議の出発が実現されていく限りで  基本の人間学には変わりはないが そのように先行するものの領域における命題である会議人というものは もはや哲学的に道徳家であることや 心理学的に政治家であることを 後行領域での具体的な命題とする必要のないほど この意味で 経済人であればよかった。経済人は 会議人に先行しはしないけれども この経済人であることが 交通道徳としての自由や平等 政治道徳(また法律)としての自由や平等が 自由に組み込まれることが 可能であったし その実現へ向けて 出発した。
アダム・スミスの《国富論 (1) (中公文庫)》が このことを表現のうえで確認した。また ただ確認(現実の模写)だけではないとしても――とうぜん ないのだが―― そのような理論整理を可能にするほどに すでにそのいわゆる市民社会は 会議の社会として 現実的となってきていた。会議人=経済人が 合理必然的な資本志向を 生活態度として持ったとするなら そこでは たしかに 合理必然性なる理念のゆえに 経済人=会議人が成立するという倒錯した見かた すなわち 資本志向主義としての経済人の思想 これがそのまま会議の(人間の)実現だという理念崇拝の生活態度をも どこかに産み落とした 産み落としたのだけれども この市民社会をとおしての基本の会議は いまにまで有効である。
ゆえに この会議ということを さらに歴史的に検証していこうと思えば 国富論のスミスを前提として出発し 一般に思想の問題として その後の思想の中に 点検していくことができるだろうと考えた。
そして だが ここでは そこへは進まずに 付録の議論としては スミスとルウソとという一つの問題を立て これをさらに掘り下げていくことを 課題にしたいとおもう。十八世紀にとどまり この課題の意味する内容としては 《会議人=経済人》という想定の吟味を おこなっていきたいと考える。スミスについては あらためて いわゆる道徳感情論と国富論とのひとまとまりを 把握するということであり ルウソについては かれは国富論をものしなかったが 基本人間学の会議人という点で さらに論議を深めなければならないところがあると考えるからである。
それぞれそういった両者の内容を 対比することができればと考える。そういう研究はすでに多いから やはりいちおうわたしたちの観点からということでもある。さらには これらの課題にからめて いわゆる社会契約について――それは この時期に多くの人びとが 論じていたことだし われわれの想定する会議ということと《重複》すると見られなくもないのだから その点を――明らかにすることができればというものである。
これらの課題について ここでは 同じ一つの主題をとおして 迫っていきたい。少なくとも 問題のありかが判明するようなかたちで このただ一つの主題を追求していきたい。それは 会議からの無効の跳躍 これである。
ルウソにおいては かれがいかに 人間の社会的な堕落のもとだという自尊心を攻撃していても それは 先行するものである自己愛のもとに 摂取され同時に 経験行為のなかで利用(活用)されるかたちで 棄てられる。なぜなら 自己愛も自尊心も 愛( amour )にちがいはなく 愛は 二者をつなぐものであるから 基本の関係あるいは経験的な交通を言っており 人は この二つの愛――しかも 自尊心(自我愛でもよい)のほうは ただ偶有的に 心と体とに 出たり入ったり 入っては出 入っては出 するだけのものであるから やはり存在するのは 一つの愛――をもった おのおの一個の主観動態として 生きる以外にないことを あらわしている。会議の観点から見て そうである。自我愛が主観の内に取り込まれたまま そして 棄てられることなく 人間が会議人であることが疑われる またルウソは 一個の会議人であることを疑われつづけた その疑いの密会に終始 悩まされつづけた すなわち 無効の跳躍による二重会議 これが ルウソに特有の主要な問題であった。
スミスはどうかというと 同感人としての会議人は けっして理念的に博愛心にうったえるのではなく 自我愛の利己心にこそ訴える しかもこの利己心は 基本の同感行為のもとにあり その中に摂取されても つねに 棄てられ出てゆくものである。だから同じく 利己心が いくら会議人は経済人であるからといっても 主観動態の内に居坐るのではない しかも居坐るのではないのに 後生大事に抱かれ温められるならば 同感への疑いという異感が 経済人の同感行為の背後で やはり跳躍しながら それ独自の密会を持つ すなわち二重会議がやはり起こる これをスミスは 経済行為の問題として 重商主義(あるいは 経済人の商人主義への転化)となって現われているととらえた。
これはスミスに特有で しかも市民社会(商業社会でもある)にとって一般的の 主要な問題であったと考えられるからだ。重商主義が じっさい ガリ勉の資本主義志向であって スミス個人としても一般に会議人=経済人としても社会的に 悩まされる二重会議の暗躍なのであると。
このように ルウソとスミスとは 関係しあい交通しており 会議人として 言論を展開した。《社会契約》の問題は それは 決して二重会議なのではなく 基本の会議を それとして 説明しようとしたものなのであり しかも 時にしばしば 時代的にまだ先駆的なものであることによって スミスの 会議人=経済人という主観動態の 社会経験的な実現を見ておらずこれを認識しがたかった点において そしてもう一点としては ルウソのように個人的な そこでひととおり完結しうる一個の主観動態の問題としてではなく 社会総体一般をあつかうことを先行させようとしかねなかった点において 社会契約は 説明概念であるだけではなく 一個の理念となり 理念が念観され 念観の心理が 自尊心とあいまって なにか一定の社会推進力であるとされていくならば これは 会議からの跳躍ではないとしても それからの飛翔をかたちづくっていく 飛翔はしばしば 空回りする 急進的な《実践》をおこなうほどに空回りする こういう問題である。
言いかえると 《社会契約》の主義志向は ルウソが悩まされた疑いの密約 スミスが闘った疑いの密会といった二重会議の公然とした暗躍に対して 理念志向主義で 抵抗し闘争するという傾向をもつ。社会契約の一人の論者であったルウソも 《一般意志》をかかげて この理念主義志向に おちいりかけているように見えるが かれの場合 一個の主観動態の出発点(そういう《主権》)を どこまでも保持したとも考えられる。
ところが わたしたちは 跳躍して密会する二重会議は そもそも 無効であるととらえた。それに 例外はないし どこまでも そう捉える基本の主観動態で 無効の会議にのぞみ すすんでいくと わかった。ということは 経済行為ないし経済学が すでに先行する基本会議の展開を 代理しうるほどであってよいし 基本の主観動態ですすめばすすむほど その代理の方向へ向うとも考えられた。そしてもし そこに無効の跳躍が実効性をもって有力となったものがあって これを認識するという場合には 経済学に摂取されたようなやはり人間学が はたらいてもよいのだと。跳躍する密会は 経済行為の上に立つ非経済的な方面での理性の(人間の)動きでもあるのだからと。この間の事情を ルウソとスミスとを中心とし 十八世紀ないし十七世紀のあたりにとどまって さぐっていこうというのが ここでの主旨である。論点を拡散させないで できるだけ現代とのつながりをも考慮しながら。ということは ただ付録の補論だいうことでもある。
ルウソは かれの会議人であることを 密会して(そしてしばしば公然と)疑い迫害する二重会議派に対して 《告白 上 (岩波文庫 青 622-8)Les Confessions》《孤独な散歩者の夢想 (岩波文庫) Les Rêveries d'un promeneur solitaire》《ルソー・ジャン・ジャックを 上 (古典文庫) les Dialogues ou Rousseau juge de Jean-Jacques》などを書いていき 弁明するというかたちながらも かれらの良心のために かれらとのおつきあいを断ち切らなかった。《ルソー・ジャン・ジャックを 上 (古典文庫)――対話》では

ここで私は 人々に理解されないのだから異邦人なのだ。
   オウィディウス《哀詩(トリスティア悲しみの歌・黒海からの手紙 (西洋古典叢書):title》

というエピグラフをかかげ その本文のはじめには 《ルウソ》という一人の対話者のことばとして

なんとも信じがたいことをうかがったものだ!あきれた話だ あいた口がふさがらない。いやはやなんと忌まわしい男だ!
なんともひどいめに会ったものだ!これからはどんなにかこの男を憎むことでしょうよ!
ルソー・ジャン・ジャックを 上 (古典文庫) 1)

と 自分(ジャン‐ジャック)のことを 語ってみせた。この論点は スミスを経て あるいは G.W.F.ヘーゲル(1770−1831)を経て K.H.マルクス(1818−1883)が 《疎外》あるいは《人格の物象化》として 語ったものである。マルクスの表現は どちらかといえば 解剖学にかたむき 会議人=経済人の基本命題は すでに著作の以前に前提されていて 主観動態の出発点は かならずしも明らかではないか それとも 初期の著作では すでに主観動態のその動態としての思索過程 思索内容としての動態過程のかたちで 表現されているかであるから スミスとルウソとを さかのぼってとり上げる価値はあると考えられる。
言いかえると こうである。すなわち マルクスも 資本主義志向の二重会議派に対して おこなうべき認識をおこない すでに一個の主観動態として これに対処していくその思索過程じたいを あらわしている。そして その思索内容は 時代の進展とともに スミスやルウソよりも あたらしく有益なものである。しかも この思索また実践していくときの主観動態の出発点は そこでは なかなか読み取りがたくぃか また同じことで すでに大前提とされているかであって 前の時代のスミスやルウソのほうでこそ この点は われわれが よく把握しうるものとなっている。と考える。
疎外の問題にしても それは ルウソに対する二重会議派が さかのぼれば 跳躍の意図において のぞんでそうなっている事態なのであるが ルウソは あたかも自分のこととして 対話のボールを投げ合っている そういうふうにして 対処している。マルクスのは ボールを投げあう対話だとしても この対話の情況を レントゲン写真で 明らかにしようというその学の性格がある。階級関係――つまり それならば 同感人=会議人=経済人が もう一段 階級人という規定をもったことになる――で切っていくとき それは 顕著である。仮りに階級陣としての社会経済行為という概念で 解剖学の知識をもったとしても この階級差別のゆえにではなく 会議人であることへの同感行為ゆえに わたしたちは経済学するのである。疎外ゆえに そのような外から入ってくる経験心理ゆえに わたしたちは行動するのではない。ルウソが――ルウソが―― 会議人=同感人の主観動態を生きようとした。
スミスのいってみれば――主観動態の一つの動きに入ってくるものとしての――敵は 重商主義であった。商業あるいは生産を支配する商業ないし商人としての帝国主義といってもよいのであり その点で マルクスの解剖学も スミスの経済学と 同じ一つの系譜のもとにある。解剖学の生まれる家庭 解剖学による認識をどうわれわれが使っていくか その出発点 これは 重商主義――つまり一般に 帝国主義志向をふくめた二重会議派――を批判するスミスに どちらかというと よりよく捉えられるのではないか。
そして これらのことは すでに会議が歴史的に成立し その出発点に立ち そのゆえに 会議人は たとい《人びとに理解されない》としても すでに《異邦人なの》ではないというところから 互いに経験的に対話し協議しあっていくおのおのの主観動態である。、マルクスは この点を大前提としながらも 照れたのか はっきり示していない。その解剖学的な分析は この大前提を抜きにして 絵に描いた餅であり 時に 社会という画布に 実際にかきあげようとする心理的な起動力としての あらためての契約理念・理念契約におちいることもありうる。――あたらしい課題の序論として このようである。