caguirofie

哲学いろいろ

#1

ルウソ――または教育について――
もくじ
第 一 章 自然の教育と人間の教育:本日
第 二 章 自然人と社会人と:2005-11-29 - caguirofie051129
第 三 章 自然の目標の実践形式:2005-11-30 - caguirofie051130
第 四 章 自然人の自己到来:2005-12-01 - caguirofie051201
第 五 章 自己到来のあとの自然人:2005-12-02 - caguirofie051202
第 六 章 子どもの問題とともに:2005-12-03 - caguirofie051203
第 七 章 ルウソへの物言いの補論:2005-12-04 - caguirofie051204
第 八 章 物言いをこえて:2005-12-05 - caguirofie051205
第 九 章 ルウソの一つの発展的な継承:2005-12-06 - caguirofie051206
第 十 章 だから 文学(=生活):2005-12-07 - caguirofie051207
第 十一章 《ジュリ または新エロイーズ(?)》:2005-12-08 - caguirofie051208
第 十二章 サン-プルー=新エロイーズ(?):同上
第 十三章 ルウソの女性論への批判:2005-12-09 - caguirofie051209
第 十四章 新しい社会人エミルとソフィ:2005-12-10 - caguirofie051210
第 十五章 つづいて同じく新しい出発の地点(あるいは進行の場):2005-12-11 - caguirofie051211
第 十六章 エミル 社会契約について学ぶ:2005-12-12 - caguirofie051212
第 十七章 社会契約論への異議:2005-12-13 - caguirofie051213
第 十八章 教育物語としての社会契約論:2005-12-14 - caguirofie051214
第 十九章 社会 社会 社会:2005-12-15 - caguirofie051215
第 二十章 交通 交通 交通:2005-12-16 - caguirofie051216
第二十一章 ひとつの結び:2005-12-16 - caguirofie051216

〔以下 余禄――ことばの問題をとおして――〕
第二十二章 用語の整理:2005-12-17 - caguirofie051217
第二十三章 表現類型:2005-12-18 - caguirofie051218
第二十四章 表現の自由2005-12-19 - caguirofie051219
第二十五章 表現行為とその出発点:2005-12-20 - caguirofie051220
第二十六章 表現形式にかんする一般文法:2005-12-20 - caguirofie051220
第二十七章 もうひとつの結び:2005-12-21 - caguirofie051221 

第一章 自然の教育と人間の教育

ジャン・ジャック・ルウソ(Jean-Jacques Rousseau 1712 - 1778)が《教育について》考え さいしょに書き出した文章は つぎのような思索の成果であった。

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。
Tout est bien sortant des mains de l'Auteur des choses, tout dégénère entre les mains de l'homme.
(《エミール または教育について》第一編 

エミール〈上〉 (岩波文庫)

エミール〈上〉 (岩波文庫)

あるいは何のことかとも あるいは感嘆を込めて ええっとも思うのだが つづいて読んでいくと この一つの文章には 結論のすべてが語られているとも わたしは考えるようになった。
ルウソは 人間の社会的な所有を非難していても その歴史的ないとなみを――どういうかたちでかを別として――擁護していると 一般に 受け止められているように ここでも 人間の手に移って悪くなっている《すべて》のことについて 肯定の立ち場(方向)で 語っているのだと まず思われた。よく考えてみると このことは 当然であった。なぜなら 教育も おおむね人間の手に移っていることがらであるのだから 当然うえのような立ち場からでなければ この教育論を書くことも 意味をなさないであろう。
ルウソは 教育の中に 人間の教育・事物の教育とならんで 自然の教育をふくめており この自然の教育( l'éducation de la nature )は 《わたしたちの能力と器官の内部的発展》(エミール〈上〉 (岩波文庫) p.24)のことであって 《わたしたちの力ではどうすることもできない》(p.25)というものの そしてだから 《この発展をいかに利用すべきかを教えるのは人間の教育である》(p.24)といって 一方では両者を分けて考えているものの 他方では 自然の教育の利用( l'usage )は 人間のおこなうことだというのであるから この《教育〈論〉》は 三つに分類されたもののうち 人間の教育( l'éducation des hommes )が 中軸となっている。
すなわち 《わたしたちを刺激する事物( les objets )についてわたしたち自身の経験が獲得するのは 事物の教育( l'éducation des choses )である》(p.24)というのも 大きくは 人間の教育だと 捉えてよいと考えられるから。つまり 性急なまとめではあるが 《わたしたちの能力と器官》も 自然的な事物であると考えられるから。

  • 能力や器官が《わたし》自身でなく わたしの所有し用いるものだと 考える方向において。

《人間の手にうつるとすべてが悪くなる》というとき 《〔人間は〕なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ》(p.24)というかたちで 説明しているのだから まずルウソが 《万物をつくる者の手をはなれるとき》というのは この《自然》のことだと捉えられる。
この自然は わたしたちの力ではどうすることも出来ないものであり しかも わたしたち人間は この自然という先生による教育を 利用していく。この 人間の教育のことを 《エミル》の教育論は 事物の教育をふくめたものとして その限りで 人間の手にうつったことがらとして(または その出発点から) 考えるのである。くりかえそう。自然的および社会的な事物の教育をふくめて 人間の教育について ルウソは 議論あるいは《夢想》(〈序〉 p.19)しており それに対して肯定の観点をもって臨んでいると捉えたうえで さいしょに掲げた冒頭の一文で おおよそすべてのことを語っているものと考える。
《人は教育論を読んでいるのではなく ひとりの幻想家の教育についての夢想を読んでいるような気がするだろう》(p.19)と著者じしんが言うのだから あるいはその観点が《肯定》の立ち場だと決め付けるのは 難しいと判断する人がいるかも知れない。
これに対しては 著者であるルウソその人にかんしては たとえ人類のなかのただひとりであったとしても やはり肯定的(楽天的)だと言わなければならないだろうとして こたえておくことになる。逆にいいかえると 人間の教育が この議論で 中軸になっていると考えたことは もしすべてが幻想家の夢想であると文字通り取らなければならないときには 《人間の手にうつってすべてが悪くなる》その領域をこえることはないとも 考えなければならないかも知れない。
《しかし そういうこと(つまり 自然がつくったままにしておかず すべてを悪くすること)がなければ すべてはもっと悪くなる》(p.23)というのであるから 事はみな 次善の策としての領域におさまるものでしかないかも知れない。逆にいいかえた点をくりかえすなら この教育論は 人間がなしうる事柄としての人間の教育が 中軸となっていると一方では考えられても 同じことが 他方では 人間の力ではどうすることも出来ない自然の教育が それ以上の中軸となっていると言わなければならないのかも。
つまりは こうして まだ 冒頭の一文の前に われわれは立っている。自然(万物をつくる者の手をはなれるとき)と人間の手にうつるときとの 関係ぐあいが 問題であるとも言える。そして もういちど これに対してわたしたちは 次善の策としてでも 肯定の観点からルウソは 議論しているとして 話をすすめよう。

なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに 好きなようにねじまげなければならない。
しかし そういうことがなければ すべてはもっと悪くなるのであって わたしたち人間は中途半端にされることを望まない。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.23)

と語るとき さいごの一文の中の 《わたしたち人間は中途半端にされることを望まない》というのは 相当 厳しい言葉である。すなわち 《もっと悪くなる》状態の手前におちつくものではあるが 《好きなように(すなわち 人間の手にうつったあと その人間的なあるいは社会的な流儀で――その限りで 完全に――) ねじまげ》られるか それとも 《自然がつくったままにしておく》かであって その中途半端を望まないだろうと ルウソは言うのであるから。これを聞いてわたしたちは かなりおだやかでなくなるが だからルウソの観点が 肯定なのか悲観なのかをもはや問うことのないほど とまどわざるを得ないようにもさせられるが これまた 最初の一文の思索内容にかかわっているものと考えられる。

  1. 《万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる》。
  2. 《人間はなにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ》。すなわち――
  3. 《わたしたち人間は中途半端にされることを望まない》とき
  4. その一方の極であるところの 自然のままにとどまることができない(第二点)のだから 
  5. 《人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに 好きなようにねじまげなければならない》。という他方の極に従わざるを得ないようになる。

とルウソは語ったかのようにみえる。
これらに対して まず一つの結論は ルウソが次のように語るものが それであるように思われる。

だから 教育はひとつの技術であるとしても その成功はほとんど望みないと言っていい。そのために必要な協力はだれの自由にもならないからだ。慎重に考えてやってみてようやくできることは いくらかでも目標に近づくことだ。目標に到達するには幸運に恵まれなければならない。
この目標とはなにか。それは自然の目標そのものだ。これはすでに証明ずみのことだ。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.25)

どうも 《すでに証明ずみのこと》が 最初の一文の思索内容それじたいの中に あったようである。人騒がせなルウソ。しかし 正当にもと言うべきなのか。《目標に到達するには幸運に恵まれなければならない》という表現で――わたしが考えるには―― 最初の一文のなかの《自然と人間の手との関係ぐあい》を――微妙に―― いおうとしていると考えられるから。しかし やはり 人騒がせである、上の引用文につづいて述べることは

完全な教育には三つの一致が必要なのだから わたしたちの力でどうすることもできないもの(つまりむろん自然の教育)にほかの二つを一致させなければならない。
(同上・承前)

であるから 一方で 自然の教育が 中軸となることによって その限りで 議論であるよりも幻想家の夢想を読まされている気がせざるを得ないということになっており――なぜなら 《幸運に恵まれるかどうか》あるいはそのことを議論することは 夢想に近いことなのだから―― それにもかかわらず 他方で この中軸たる《自然の教育に ほかの二つを一致させなければならない》という《目標》を語ることは とりもなおさず 人間の手にうつっている領域での人間の教育が指し示されているということだから。
それであってみれば 人騒がせなルウソである。この限りで はじめから 人間の教育が 中軸であると言ってもいい。目標をみることは それじたいにおいて 肯定的・楽観的なことである。また 目標への努力(あるいは実践)の過程の一つの区切りとして この《エミル》という書物のさいごで だめだった 絶望したとは 言っていないのだから。
《自然の教育が――だから最先行の――中軸となっている》という視点をすてることは出来ないだろうし それは そのことじたいとして 人間の力ではどうすることも出来ない領域を言っているのであるから あの最初の一文が――《万物をつくる者の手をはなれるとき》という言い方で―― 全体として なぞを持っていると見ることができるし 見なければならないと考えられる。
言いかえると 人間の教育が中軸となるその領域とは とうぜん経験科学(あるいは思想 また当然にその実践)のことであろうし そのとき ルウソにあっては さらにこれに先行するものとして 自然の教育が中軸となる領域が 人間の存在――なぜなら 生まれてくるのは 自然の教育における生徒としてである――にとってのなぞとなっていると 捉えられているようである。次のことばを聞いて 章を改めよう。

しかしおそらく この自然ということばの意味はあまりにも漠然としている。ここでそれをはっきりさせる必要がある。
(《エミール〈上〉 (岩波文庫) p.25)

(つづく→2005-11-29 - caguirofie051129