caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第四章 自然人の自己到来

前章で 実践の第一・基本形式とよんだものは ルウソに従えば 人間の教育と事物の教育とを 自然の教育に しかも人間の教育をとおして 一致させることであり 《自然人を知ること》あるいはさらに進んで 《すでに社会人となっている人間が 自然人であることに基づくこと》である。これをいいかえれば 《人間が 歴史する・生活する いや人間する いやいやわたしが人間する あるいはさらに わたしがわたしする》ことだと考えられる。
この自己教育の第一の実践形式をかたったものとして さらにいくつか文章を引用することができる。

わたしは他人の考えを書いているのではない。自分の考えを書いているのだ。・・・しかし ほかの人の目を自分にあたえたり ほかの人の考えを借りたりすることがわたしにできるだろうか。
エミール〈上〉 (岩波文庫) 序 p.19)
父親たち そして母親たちよ 実行できることとはあなたがたが実行したいと思うことだ。わたしはあなたがたの意志にまで責任をもたなければならないのだろうか。
(序 p.20)
自然の秩序のもとでは 人間はみな平等であって その共通の天職は人間であることだ。だから そのために十分に教育された人は 人間に関係のあることならできないはずはない。わたしの生徒を 将来 軍人にしようと 僧侶にしようと 法律家にしようと それはわたしにはどうでもよいことだ。両親の身分にふさわしいことをするまえに 人間としての生活をするように自然は命じている。生きること それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。
(第一編 p.31)

そして 最後に引用した一節は 基本の実践形式が 子どもの教育という一つの場(段階)を特定したかたちで 語られている。ただし ここでは まだ 第三の実践とよぶべきいま一つ別個の消極的な形式は 見られない。
第一の基本形式が 場としての第二形式たる子どもの教育を媒介として 別個の第三形式へうつる場合というのは その同じことを 観点を変えて 捉えることができる。すなわち 上の引用文での《自然の秩序のもとでは》とそしてそれと対照的な《社会秩序のもとでは》(p.30)との関係ぐあい 言いかえると 《自然人と社会人との 一個の人間存在における つながりかた》という視点から 三つ(あるいは はじめには二つ)の実践形式のあいだの相互連絡を捉えようとすることである。
基本形式が 消極的な第三形式へ移ってしまうのかどうか。《自然人は・・・単位となる数であり 絶対的な整数であって・・・社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない》(第二章)とき 一つの類型において 社会人としての

個人のひとりひとりは自分を一個の人間とは考えず その〔社会制度である〕統一体の一部分と考え なにごとも全体においてしか考えない。
(p.27)

このあとルウソは 古典古代ギリシャ・ローマの《市民( le citoyen・la citoyenne=〈公民〉といったほうが理解しやすい)》の例をあげている。だから

社会状態にあって自然の感情の優越性をもちつづけようとする人は なにを望んでいいかわからない。たえず矛盾した気持ちをいだいて いつも自分の好みと義務とのあいだを動揺して けっして人間(または市民)にも市民(または公民)にもなれない。自分にとってもほかの人にとっても役にたつ人間になれない。それが現代の人間 フランス人 イギリス人 ブルジョワだ。そんなものはなににもなれない。
(p.28)

社会人であるときの 分母が一で分子も一であるなら そのとき人間は 絶対的な整数たる自然人でもあると 茶化していうことはできるが ことはルウソにとって あまりおだやかではないらしい。そうして このとき 自然人の目標という基本形式(むしろイデアでもある)は 消極的な次善の策を追究する第三の形式にうつっていってしまうのかどうか。
このあたりは いちいちルウソの語るところを読みおさえていかなければならないだろう。直前の引用文につづけて

なにものかになるためには 自分自身になるためには そしてつねに一個の人間であるためには(――これは 第一の実践形式であった――) 語ることと行なうことを一致させなければなならない。その人は人間(自然人=市民)か 市民(公民)か あるいは人間であるとともに市民であろうとしてどんなふうに行動するかを知るために そういうすばらしい人間をだれか示してくれるのをわたしは待っている。
(pp.28−29承前)

これは 必ずしも消極的になったわけではないだろう。自然の目標への人間の教育を 言いかえているだけである。ここでは仮りに青少年教育という場を特定したとしても 別個の第三形式へも あるいは基本的には第二形式へも移らずに 第一の実践形式をおしだそうというものである。次に つづけて

必然的に対立する二つの目的(公民への人間教育か 自然人=市民への人間教育か)から 相反する二つの教育形態が出てくる。一つは一般的な公共教育 もう一つは個別的な家庭教育である。
(p.29承前)

という二つの教育形態が設定されるところから すこしあやしくなる。必ずしも わるくなって間違いにおちいるのではなく 幻想家の夢想の部分が 顔を出す。ところが この二つのうち ルウソは

公共教育はもう存在しないし 存在することもできない。
(p.29)

と言う。これは なんのことか。《社会人・市民( citoyen )》がいるのなら つまり《軍人や僧侶や法律家》が ルウソとしては生徒がそれらのどれになろうとかまわないとしても 存在するのだから それとしての教育すなわち公共教育は まだ存在するのではないか。ルウソが《一般的な公共教育》といったものは どうやら 先ほどギリシャ人・ローマ人の例を出して 市民(ないし公民)を考えていたように 《軍人や僧侶や法律家やのすべての人びとが その〈自我またはわたし〉を共通の統一体のなかに移すような社会制度》のためのそれであるらしい。国家( cité )のためのそれであるらしい。
言いかえると 職業ごとの分業において その特定の職業をになうことによって 社会的に協業するという意味での・ただそれだけの公共教育のことではないらしい。
《一般意志 volonté générale 》がここで顔をだしているのかも知れない。だが そうとしても それは 国家主義には必ずしも行かないのであって――ここでは もしくは 全体として考えるに そこまでは行かないのであって―― むしろ 幻想家が教育について語る夢想の部分だと言ったほうがよいように思われる。一般意志の定義は別としても そしてあるいは 《人々の心を浄化しただけだ》というプラトンの《国家篇(国家〈上〉 (岩波文庫))》を読んで公共教育の観念を得よ(p.29)というところも別とするならば なぜなら

〔すでに祖国はなく〕祖国のないところには 市民(そういう意味での市民)はありえないからだ。《祖国 patrie 》と《市民 citoyen 》という二つのことばは近代語から抹殺されるべきだ。
(p.29)

とルウソは 考え 言うから。つまり それでも このような近代社会の世界において 一般意志をなお押し出そうとしたとするなら 第一の基本実践のやはりなんらかのかたちでの応用としての 第三のないし第四の形式が そこに語られようとしたのかも知れない。一般意志は 《一般的な公共教育》と少なからず関連をもつものだが――つまり というのは すでに古典古代の市民の祖国の存在しなくなった段階で しかも なんらかの 人びとに共通の統一性( l'unité commune)たる社会制度をつくりあげ その中で 自然人の目標を追究するという教育あるいは《生きること》の実現のためには この一般意志(または社会契約 contrat social )ということが 必要だとルウソは 言ったとして 捉えられるのだが―― この一般意志は 個人の意志に帰着すると考えられる。自然人としての自己到来という基本形式が その大前提であると考えられる。少なくとも今は こうだとして 話を進めたい。
祖国と市民との二つのことばが近代語から抹殺されるべきだという点にかんして

わたしはその理由をよく知っているが それを言いたくない。それはわたしの主張に関係ないことだ。
(p.29)

などとルウソがいうのは いったい どういうことか。考えるに その理由は 《自然人(万物をつくる者の手を離れるとき)と社会人(人間の手にうつったばあい)との 分離とか調和とかの関係》にあるだろうから または 《社会人の段階と場とにおいて 社会経済的に 分業する個人が その分業の位置を占めることによって 協業し その意味で・そしてその意味でのみ 社会制度が 共通の統一体をなすようになった近代人の社会の出現》ということにあるだろうから この点 ルウソにしたがって この《主題に関係ないことだ》としておく。つまり この部分で わたしたち読者は《まごつかせられる》から 著者ルウソはその主張の《体系的な部分(一貫したもの)》である《自然の歩み》を 幻想家の夢想において 語ったとも考えられる。諸般の事情をこえて 自然の歩みは存在するのだし 諸般の事情をのりこえて この自然の目標にちかづくことのみを 反省し観察するのだという自分の姿勢をルウソは 語ろうとしているのだと。だから この点では 一般意志や社会契約さえ どうでもよいことだと言ったかのように。
これは 第一形式の基本実践である。《順序なく ほとんど脈絡もなく》まとめられているようなのである。
基本形式がいわば第三の消極的な実践形式に移行するかどうか これを 自然人と社会人との関係ぐあいの観点から さぐろうとしている。これまでのところ 基本にとどまり 別個の形式に転化していない。《相反する二つの教育形態が出てくる》ところで あやしくなったが それは ただ波の高まりにしかすぎなかったとも言える。つまり結局

世間の教育は二つの相反する目的を追求して どちらの目的にも達することができないのだと。それは いつも他人のことを考えているように見せかけながら 自分のことのほかにはけっして考えない二重の人間をつくるほかに能がない。ところが そういう見せかけは すべての人に共通のものだから だれもだまされない。すべてはむだな心づかいということになる。
(p.29)

というように 《自然人と社会人との 二重の人間》の状態が ひとつの一般であるというまでである。これは いってみれば もともとの出発点である。議論の・主題としての出発点であったものである。ただ この引用文の直前で

学院( collèges )と呼ばれる笑うべき施設をわたしは公共教育の機関とはみなさない。世間の教育( l'éducation du monde )も考慮にいれない。
(p.29)

とはっきり宣言することは 教育形態(施設あるいは やはり制度。そこでの方策)を論じないということであり そうしてあやしくなった波の高まりをしのいでいるのだが それは とりもなおさず 幻想家の夢想でのりきったということでもある。いうところは 基軸としては 第一の基本実践(その ここでは表現)であり しかも それが 夢想次元での 自然の歩みの把握(幻想的な認識)によっていることが 学院や世間の教育のいづれの場においても 自然の教育にもとづく人間の教育 この目標を互いに実践しようと むしろ語ったことでもあると つきつめては 考えられるようである。そういう言い方をしている。もしこれから逃げるなら 消極的な第三形式へうつるであろう。
そして このような表現形式は 依然として 基本形式にもとづいており なおかつ まぼろしのうちに逃れるようなかたちとしては いくらか 消極的な第三の形式に足を踏み入れないでもないと考えられる。すなわち のりこえた高波の狂乱(《二重の人間》)は残っているかのように いう。

この矛盾から たえずわたしたちが心のなかに感じている矛盾が生まれる。自然と人間とによって相反する道にひきずられ その相異なる衝動にひきさかれて わたしたちはどちらの目標にもつれていかない中途半端な道をたどる。そうして一生のあいだ こづきまわされ ふらふらしているわたしたちは 一貫した意志をもつことができず 自分にとっても他人にとってもなんの役にもたたなかった人間として 人生を終えることになる。
エミール〈上〉 (岩波文庫) pp.29−30)

《中途半端にされることを望まな》かったではないか。それは 望むか望まないかの問題だったから じっさいには 中途半端に・二重の人間に されることはありうるということなのか。けれどもルウソは これにも答えている(答えようとしている)のであるから その点どうしても 次につづく一まとまりの文章をさらに 引用してみなければならない。

そこで あとに残るのは家庭教育あるいは自然の教育だが もっぱら自分のために教育された人は ほかの人にとってどういう者になるか。もし 人がめざす二重の目的が一つにむすびつけられるなら 人間の矛盾をとりのぞくことによって その幸福の大きな障害をとりのぞくことになる。そういう人間を知るためには すっかりできあがったその人間を見ることが必要だろう。その人の傾向を観察し 進歩をながめ その道程をたどっておくことが必要だろう。一言でいえば 自然人を知らなければならない。この書物を読めば その研究においていくらか前進したことになるだろうとわたしは信じている。
(p.30)

したがって ひとまずの結論として こう考える。第一は これまでわたしたちも 前後いりみだれての順序で ルウソの考え方(表現行為としてすでに実践)をたどってきて 基本形式(自然人経験)が どこまでも 基本である。別個の消極的な形式への傾斜はあるが たおれず しずまない。第二に 《その人間を見よ》というのであるから そしてそのときルウソは必ずしも自分がその模範であると言っているのでもないのだから 一面ではつねに まぼろしであり夢想である。
第三に 基本形式が 抽象的にして経験的であったように しかしながら 幻想家の語る夢想は 《二重の人間》のままの人びとが 学校や世間の教育において 経験的ではあるとしても 波に浮いたり沈んだりするところの空想的(すなわち 自然人をただ空想するのみ)であるよりは はるかに実践的である。つまりこれは 第一の基本形式の実践である。
第四に ルウソは自身が模範ではないから その人間を見ることが必要だと言い また 自身は この人間を 議論しつつ夢想する 夢想しつつ議論する しかも 《この書物をよめば いくらか前進したことになる》と言うのだから これは 人間のおこなう人間の教育であるという主張である。《人間をかたちづくる》というのである。《万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる》というのであるから 上にいう自然の目標に近づくというのであろう。したがって こんどは ここで わたしたちは お手並み拝見といって ルウソとおつきあいするのが 適当な読み方である。そして 読み終わったあとは なるほどよく言ったというか なんのこのインチキというか いづれか一方であることが 礼儀にかなったものなのである。

  • 基本形式の応用として 消極的な・後退するような別個の実践形式に流されているかどうか これは 保留したわけである。