caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第五章 自己到来のあとの自然人

すなわちすでにルウソの 表現行為としての実践は 自然人を知らなければならない目標に向かって 一例として 次である。

わたしたちの知恵と称するものはすべて卑屈な偏見にすぎない。
わたしたちの習慣というものはすべて屈従と拘束にすぎない。社会人は奴隷状態のうちに生まれ 生き 死んでいく。生まれると産衣にくるまれる。死ぬと棺桶にいれられる。人間の形をしているあいだは 社会制度にしばられている。
エミール〈上〉 (岩波文庫) 第一編 p.33)

こうして この文章の読者は 基本目標へと 《いくらか前進したことになるだろうとわたしは信じている》(第四章)とかれのいう話のなかにある。
極論だと驚いてはいけない。この一例は ルウソの実践形式として 主要なものであると考えられる。《自然人を知る》ために 《社会人の 知恵 習慣 社会制度》を 考え方のうえで 根こそぎ 引っこ抜く。人間でありなさい 自分自身でありなさいというわけである。ここには 第一の基本形式があり その実際として主要なものとなっているものがあるととらえなければいけない。
そしてちょうどこのあと 子どもの教育にも例示的に触れて いまの実践形式の応用がある。

多くの産婆はうまれたばかりの子どもの頭をなでまわして もっといい形にしてやるのだとなどと言ってるそうだが 人はそんなことを黙認しているのだ。わたしたちの頭は わたしたちに存在をあたえてくれた者がつくったままではぐあいが悪い 外側は産婆がなおし 内部は哲学者がなおさなければならない というわけだ。
(同上 p.33承前)

わたしたちの検討事項の焦点は これら二つの引用文をひとまとまりとして見て 結局 あの最初の一文・《万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる》の内容に沿った実践を そのうちの後者つまり《人間の手にうつって悪くなっているところの知恵・習慣・社会制度》への このように 考え方の上での批判によって おこなうという形式にある。
ここには――この応用形式には―― 自然の教育という基本形式が最先行する中軸としてすえられており これが 子どもの教育を主題とすることをとおして あるいはまた 自然の教育そのものではないところの人間としての・つまりは社会人としての広義の教育を その根元から 批判することをとおして すくなくとも表現じょう 実践している。このとき 端的にいって 《自然人を知ること 自然人になること 自然人であること》は このように著者ルウソの主張においてその方向・志向また趣旨としては 明解であり したがってその限りで 読者であるわたしたちがこれを理解したあと ものごとが人間の手にうつっている社会人の領域に対して 保護すべきだ――自然人であることを保護すべきだ――というような調子で つまり形式で 説かれているかどうか 説かれているのならどうか これが 焦点である。
言いかえることができる。すなわち 《すべてが卑屈な偏見にすぎないわたしたちの知恵 / すべて屈従と拘束にすぎないわたしたちの習慣 / 頭の内部を哲学者がなおすというその知恵を含めて 社会人の習慣をなす社会制度》 これらに対して すでに自然人であることを回復した(またはその目標に近づいた)人は どう対処するというのか これが 焦点である。
ルウソの筋書きでは 基本形式の実践は その自然人の目標に到達することが そしてそれが子どもの教育として考察されることが かれの主要な任務なのであって それからあとのことは なにも触れないし またそのことは《あなたがたの意志にまで責任をもたなければならないのだろうか》(第四章)というのであるらしいから むしろ触れるべきではないということに なっているのだろうか。
とうぜん 自然の教育によって自然人であることを基本の実践形式すなわち生活態度として人も ちょうど青年となったエミルがそうするように 社会の中にいるし社会の中へ出てゆく。このとき しかもそれからあとは 一人ひとりの意志と判断とに まかせられていて その点にはなにひとつ触れないし 触れる必要はないと考えられているのだろうか。あるいは少なくとも この《エミル》という書物の考察範囲ではないというのだろうか。
推測のうえで――推測のうえで―― ここには わたしたちがおそらく同意するところの基本目標の実践にかんする ルウソ個人の応用形式が見られるし また すすんでは ここに焦点をあてることが ルウソとのおつきあいに関するわたしたちの結論すなわち新たな出発を形成するであろうと考える。
じっさい 人間の意志は 自然の教育によるものだけに限らず人間の教育においても 自由なのであって――つまりは 社会人として人間が 生まれてから死ぬまで 《奴隷状態のうちに》あっても たとえこの奴隷という社会人の状態であっても これを えらび取っているのは 人間の自由意志によるものであると言わなければならないのだから そしてそれ・すなわち自由意志の存在じたいは おそらく 自然の教育(自然本性・自然法主体)にもとづくことであると言わなければならないのだから―― 《実行したいと思うこと》はすべて個人にまかされているというのは 不適当ではない。
しかも 《実行したいと思うこと》は ルウソはルウソ個人としてこれを 持っているのでなければならないから ルウソひとりに限らず この思索や考え方を 発表することも自由である。すなわち 自然人に還帰したあと 社会の中で どう生きるか これは 触れるべきではないと同時に 自由に一人ひとりが触れることも 可能である。そして もしこの側面が――《エミル》に限ってでも――触れられていないとしたなら そのルウソの応用実践は そういう形で かれ個人の一定の形式をあらわしていることになるのであろう。

  • 拡大解釈の気があるとしても 一般論として そういう一定の形式が ルウソにまとわりついては いる。

すなわち 第一の基本実践が 別個の消極的な仮りに第三の形式(あるいはまた 子どもの教育という場を特定するところの第二の形式を含めて)へ 転化していっていないかというここでの焦点なのである。
《エミル》という書物に問題がのこるとするなら この一つの焦点(課題)にあるとわたしは考える。
社会人に対する根こそぎの批判――そしてその盾の反面として 子どもの教育に教育を特定するという考え方――は もしそれによって わたしたちが目指すところの目標に近づき到達することができたのなら その目標の人としてこんどは それまで全面的に批判していた社会人に対して どのようにふるまうか これを 自由(つまり自然の教育)という前提のもとに 考察することは 主題が別なのではない。同じ一つの主題でなければならない。

たとえば ある教育法はスイスで実行できるが フランスでは実行できない。また あるものはブルジョワの家庭にふさわしく あるものは貴族の家庭にふさわしいということになる。実行の難易はさまざまな状況に依存していて 方法

  • この方法は 《 la méthode 》である。ただし la méthode にも方策の意味はある。

をそれぞれの国 それぞれの身分に適用してみなければそれらの状況を規定することはできない。ところで それらの特殊の適用はすべてわたしの主題にとって本質的なものではないから わたしの計画にはふくまれない。それを望むなら ほかの人がそれぞれの国 あるいは身分を念頭において考えてみることができよう。
わたしとしては 人間が生まれるあらゆるところで わたしの提案することを人間にたいしてわたしが提案することをこころみ かれら自身にとってもほかの人にとっても 最善の結果が得られたということになれば それでいい。この約束をはたさなかったなら たしかにわたしはまちがっている。しかし それをはたしたなら それ以上のことをわたしにもとめるのもまたまちがいだろう。わたしはただそれだけを約束しているのだから。
(序のむすび pp.20−21)

ことは微妙だが 明確であるだろう。わたしたちが 主題が本質的に別ではないという今ひとつの側面は いくつかの条件に依存するところの 制度上の教育法( éducation practicable )のことではなかった。その点 ルウソと同意見である。意見が異なる点は ルウソが 《人間にたいしてわたしが提案すること(自然人教育)をこころみ》る実践の一側面で いわば行きっぱなしであることである。
《最善の結果が得られた》にしても ルウソは この《主題》において もう一面のほうへ 帰って来ないのである。そしてもちろん それが あとは一人ひとりの自由意志による判断と実行にまかされているという一つの理由について わたしたちも 同意するし しかもこの同意のうえで そのまかされた問題の領域において――まだ このときも 制度上の方式へは移らずに―― 一人ひとりが 自分の意見を発表することも自由であり可能であり むしろ同じこの主題の上に含まれていると言う。揚げ足取りをするつもりはないのだが 前に触れた一節・《大人になって必要となるものは すべて教育によってあたえられる》(第三章)といった一つの観点が ここでも からんできているかもわからない。大人になっても その社会人を 無理になにがなんでも 再教育せよといっているのではなく この社会人としての社会生活が――子どもを子どもとしてあつかうその教育と同じく―― 人間の教育の舞台である。
つまりこの場合 必ずしも生徒あつかいするのではなく 生徒を卒業した人びとのいわば晴れの舞台である。そこでは もう 自然人にかえれとは口に出さずに しかも自然人として社会の中で――さらに自己教育しつつ――生きる これは 制度方式の問題としてではなく 人間の教育の主題(その延長線)をなしている。
だから ルウソがここで《約束したこと その果たした約束》というのは はじめの基本的な実践目標 これが 抽象的にしてしかも経験行為なのだという一つの論証である。そのうったえである。人間が自然法主体であるということの論証である。あるいは 幻想家の語る夢想であったとしたら 感覚をとおしての説得である。この点は むろん 重要であり しかもかれは よく語っていると考えられる。そして言わなければならないとしたなら 行きっぱなしである。行ったあと――自然人に到達したあと――人は みなが皆 田舎にとじこもるというわけではあるまい。

都市は人間の堕落の淵だ。・・・それを新たによみがえらせる必要があるのだが よみがえりをもたらすのはいつも田舎だ。だから あなたがたの子どもを田舎へ送って いわば新しくよみがえらせるがいい。・・・そして 人類にとってはるかに自然な住家にあって 自然の義務に結びついた楽しみは それに関係のない楽しみにたいする趣味をやがて忘れさせることになる。
(p.66)

と語ることを聞くと ルウソは わたしたちが言うところの《戻ってきたあとの実践》を とどのつまり――すなわち まずは たしかに 同じ一つの主題のうちに把握していたということだし それが とどのつまり―― 自然人に身についた《自然》のちからによるもの(歴史)だと考えているし 言っているようである。
そうすると結局 わたしたちのルウソに対するこの物言いは 次のことに帰着する。かれは たしかに行きっぱなしではなく 行ったあと ここに戻ってきており ここで教育を実践する(その成果を実践する) そのとき この戻ってきたあとの実践は もう《自然の教育》のみであるのかという物言いである。かれは ここで――ここで――行きっぱなしなのである。
なぜなら 自然人に 自由意志(これは 個人の意志だから 人間の手にうつったものである)が ないのではない。《万物をつくる者の手をはなれるとき》と《はなれたあと 到達し回復しうる自然人》とは いちおう分けて考えることができるから 後者は わたしたち人間のちからでどうすることもできないものではない。《自然人》はどうすることもできないかも知れないが それの《回復・到達への前進》は 人間がおこなうことであるから。自然本性は 人間のものであり 自然法主体であることは 経験的・歴史的な存在であることだ。
すなわち 行って戻ってきたとき もちろん依然として 自然の教育が最先行する中軸であることに変わりはないが その段階ではもはや自然の教育のみだとは わたしたちは考えない。むしろ 戻ってきたなら 人間の意志による自由な選択は かえて確立されると考える( Augustinus )。人間の自己教育とそれの社会的な諸関係の総体が あらたにそこで 始まると考えている。《よみがえりをもたらすのは 田舎ではなく いつも ルウソにならっていうとすれば 自然の歩みである》。このようにわたしたちは考える。この意味で 《わたしたちの知恵と称するものはすべて卑屈な偏見にすぎず わたしたちの習慣というものはすべて屈従と拘束にすぎない》。
《習慣》は 自然本性(つまり とにかく人間であること)に従うものだが わたしたちがすでに社会人であることによって・そうであることをとおして かたちづくられる社会的(知恵的・知識的)な自然である。習慣・慣習は 知らなければならない自然人という意味での 自然ではない。つまり すでになんらかの不自然(知恵による文化行為でもある)が 反復行為とその慣性によって 慣性的となって自然のようにみえるものである。第二の自然 というような言い方もなされている。