caguirofie

哲学いろいろ

#17

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第十八章 教育物語としての社会契約論

しかし この宗教(市民の宗教)は迷妄と虚偽に基づいているので 人々を欺き 彼らを軽信的 迷信的にして 神への真の信仰を空虚な儀式のなかに埋没させてしまう点では 悪しき宗教である。
社会契約論 (岩波文庫) 4・8)

から その内容(つまり 市民として社会的になすべき信仰告白)を ほとんど 《人間の宗教》と同じものにルウソは 限定して言う。

市民の宗教の教義は 単純で〔項目の数が〕少なく 正確に表現されるべきであり 解釈や注釈をともなってはならない。全知全能で慈愛に満ち すべてを予見し配慮する神の存在 来世の存在 正しい者の幸福 悪しき者への懲罰 社会契約と法律の神聖性 これらが積極的教義である。消極的な教義については 私はそれをただ一つに限る。それは不寛容である。
(同上)

そうすると 《自然の教育》に属する項目をもう別とすると 最初の約束にやはり 帰結する。つまり 項目として《社会契約》。そしてこの約束にもとづくものだが その約束が自然に由来するのなら 《神聖》であるところの《法律》。これに 《正しい者の幸福 悪しき者への懲罰》を含められるであろう。また 約束の同感実践は この同感交通の領域では 同感人という基準があるにもかかわらず・もしくはそういう性質の基準であるゆえにこそ 人間の行為は 相対的なものであったから 《不寛容をいましめること》。
くどいようにこの引用文をかかげたのは したがって 前章の議論をむしかえすことになるかも知れないが ここで 《市民の宗教》のこれらいわば宣誓項目について しかしながらその《解釈や注釈を伴なってはならない》とルウソが言っていることに 注目してみたいからである。
だとすれば この市民の宗教は 文字通りだと何か宣誓の儀式をともなうもののようでもあるが にもかかわらず 基本的に個人のことに属する《人間の宗教》とやはり基本的にひとしいもののはずである。あるいはつまり要するに 人間の教育――その基本事項――のことにほかならない。《宗教》とかかんとか言っても 《不寛容》を消極的な(否定すべき)教義とするのなら 社会的に――しかもまだ ほとんど制度的にではなく――実現させようというルウソの意図 という尾ひれがついただけのように考えられるのである。
また もう一つの蒸し返しであるが 《キリスト教徒の祖国は現世のものではない》から そういう《人間の宗教》(あるいは内容として 自然の宗教)だけではなく そこから由来する《約束がどんなものであるか》というと 《社会契約・一般意志・市民の宗教》をその点で さらに必要とするという一つの論理に対して――。これにかかわるものとして とうぜんのごとく 教師のルウソは 生徒エミルにこう語っていた。

しかし・・・祖国をもたない者にも(いいかえると 現世のものではない祖国を持つ者にも) とにかく 国はあるからだ。やっぱり政府があり 見せかけでも法律があって そのもとで人は平穏に暮らしてきたのだ。社会契約が守られたことはないとしても 一般意志がそうすべきだったように 個別的な利害がその人を保護してきたとしたら 公共の暴力が個人の暴力からかれを護ってきたとしたら・・・それでもけっこうではないか。ああ エミル 自分の国に負い目を感じない有徳な人間がどこにいるだろうか。・・・
エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) pp.257−258 cf.§14)

だから――こういうのだから――すでに 市民の宗教は要らないし 人間の宗教いや人間の教育の中の 社会交通のはじめの約束 これだけで じゅうぶんではないだろうか。これを 社会契約と
言ったり この約束の履行つまり同感実践を その個人ごとの個別的な意志のなかにあって何らか働いた要素として 分析してみるなら 一般意志とも言ったりすることができる。これだけでよいのではないか。もし 《解釈も注釈mともなってはならない》市民の宗教を――つまり現在の段階で言って 国民の宗教(約束事あるいはその自覚といったもの)を――もってくるのならば ただ 社会人としての出発の地点に或る種の仕方で 成人式といったことをおこなうことだけで 済むようなものなのではないか ルウソの言っているのは。
《社会契約論》は このエミルの成人式での一つの講話であると 言ってもよいのではないか。すなわち 《市民の宗教》は その物語のなかで 譬えとして 出てくるものなのでは。――のちの著作 《コルシカ憲法草案 (社会科学ゼミナール 65)》や《ポーランド統治論》(ルソーの政治思想―『社会契約論』から『ポーランド統治考』を読む)を 或る意味でわざと 別にして言っていることになるのだが。
逆に わざわざこう言うことは ルウソの著作に解釈や注釈をほどこすことになったかも知れない。またただし 一つの見解としては 読者の権利――つまりルウソとの同感実践=対話――であるかも知れない。
この著作の〈第一編〉では 次のように書き出されている。

人間をあるがままに現実の姿でとらえ 法律をありうる可能の姿でとらえた場合に 社会の秩序のなかで 正当にして確実な《国家の設立や国法》( administration・統治)の基準があるかどうか これを私は研究したい。私はこの研究の中で法律の認めるものと利益の命じるものをtらえず結合することに努め 正義と効用が分離しないようにするだろう。
社会契約論 (中公文庫 D 9-2) 1)

《人間の一般的な日常生活の姿》 そして いまの場合は 国家という社会形態の段階においてであるから そこに《法律》も持っている そうして この社会人の交通関係が《秩序》をもっていとなまれるというとき そのひとまとまりの社会形態としての一般に共同自治 これの《基準》はどうか。だから これはすでに見た範囲内でとしても 単純に《最初の約束》(cf.§16)―ーすなわち同感人であること またはもっと単純に 人が交通しあうということ(《社交性の感情》)――であってよいと考える。そしてこの基準を 《社会契約》と言いなおし 《一般意志》の概念をひきだし導入するのは たしかに《法律の認めるものと利益の命ずるものをたえず結合することに努め 正義と効用が分離しないようにする》一つの意図に属している。
しかしながら くどいように問題とするべきは これまでの議論の経緯からして 《自然人》が大前提であり 自然の教育が 第一の基本実践であった。これは 《往き》の実践なのだから 《還り》も必要となるだろうとわたしたちが言ったとき そのときにも この基本の実践形式は 抽象的にして経験的なものであるとは 論じてきた。経験的ということは 還りの実践を含んでいるということであった。だから ルウソにあっては 還りの新しい社会人の実践が まずは当然なものとして・必然的な帰結として言われており そしてただし その同感実践の理論も あるいは経済人の実践形式(生活態度)も明示されてはいないということだったが 明示されなかっただけで これらの領域へ 必然的に無理なくつながるものであるとも言わなければならなかった。ということは ここで《社会契約論》は それではどういう位置を占めるかということだが 一つに 同感実践の 政治的な方面にかんする何らかの理論ではある。もう一つに しかしながら わたしたちは これを スミスを援用して 同感実践だというけれども おそらくルウソにあっては 《自然人の原点》とこの《同感人の出発点》とは 明確に区別されていないのだとも考えられる。
したがって これら二つの点をあわせて考えるなら 《政治にかんする同感の理論》は 必ずしも《新しい社会人が同感人という出発点そのものとして 交通す生活する》という明確な観点からは 説かれていないのではないか。逆にいうと とうぜんのごとく この明確にわざわざした観点としうのは わたしたちの仮説の地点にほかならない。
そうして 仮説の限りではわたしたちが この新しい出発の地点に固執するとならば そしてもしルウソが 必ずしもこの地点を明確にまだ言い出していなかったのだとするならば しかもそのことは 必ずしもルウソ当時のフランスの経済的な社会発展の事情によるのだといった制約条件の観点を持ち出さず むしろ故意にその制約条件を離れて見るとするならば
ルウソが《社会契約論》を書いたのは――つまりは特に 社会契約・一般意志・市民(国民)の宗教などを言い出したのは――そういう物語(教育物語)としてなのではないか。だから 上の制約条件を離れない場合でも そうだと思うのである。
ただし この物語としての社会契約論 だからつまりは 個人を個人として知る文学人どうしの出発点でもある同感実践の一つ(そのように確かに 意図せずして なっている議論) このほうが 自然人の原点から 明確にそれとして自覚されて出てくる出発点としての同感人や そしてまた生活基礎の観点からやはり明確にそれとしてみちびかれてくる経済人(そのような進行の地点)を はじめの自然人という基本形式のもとに 綜合していることができた。つねにそういうふうにして全体観に立っているという積極的な 理論提出の視点を ともかく 結果的にあらわすことができた。あるいは 怪我の功名なのかも知れない。結果的にみて それは単なる教育講話の一つだが 同時に 《自然人=同感人=そして経済人》という《人間かつ市民》の立ち場をあらわすことができた。スミスもそうなのだが いくらか それら原点と出発点と進行地点とのあいだに 分離があるという批評をも生んだ。つまりルウソの場合 《正義と効用が分離しないように 法律の認めるものと利益の命じるものwたえず結合することに努め》たのは 非経験的な議論だといわないとしても いい意味でも悪い意味でも 一つの文学論であったと考えられるのである。

  • もちろん いくらか・あるいはかなり 主観的な価値判断を容れて あたかもルウソに直談判しているようであるが。

ここでは 同じ池のまわりをぐるぐる廻っているみたいであるが これによって 《ジュリまたは新エロイーズ》を包含したところの《エミルまたは教育について》を しかるべきように顕揚することができるであろう。そして 一つの教育物語として じゅうぶんに《社会契約論または国法の原則》を読んでいくことができるという捉え方をもつ。
これによって 物語であることのいい意味・積極的な意義をも つかんでいくことができる。政治学や経済学でさえ つまりそのような一般意志をあつかうかのような経験科学も 究極的に――長期的な視点に立って―― 文学人たる一個人の個別意志ないし同感交通つまり日常生活の問題におさまるという観点と方向。わざと超越的な観点をもちだすならば 自然の歩み。
そして ルウソの場合 いくらか意地悪くみるならば この自然の歩み(個別意志としては自然の宗教にのっとるような意味でのキリスト教徒)と 社会人の領域とを こんどは――この点にかんしては―― あたかも来世と現世とに分けてのように 分離する見方がないでもなかった(前章)。逆にいうと 自然人と社会人とは たしかに 分離しているのである。そして それゆえに 人間の教育が 自然に由来する最初の約束・またこれにもとづく社会の秩序の中で それらを原則的な内容として おこなわれうる。そういうものとして 《法律の認めるものと利益の命じるものをたえず結合することに努め》うる。《一般意志の最高の指揮のもとに身をおく》のではなく たえず個別意志の 同感→異感・偽感・背感→再同感→・・・という交通関係の過程的な実践そのものとして。つまりは むしろ《正義(一個人の主観・意見として)と効用とは 分離している》。正義といってもこれも 効用に対して 相対的にしか見ることができない点で 相対的であり どちらも可変的であるというときに。
スミスは このとき 同感人たる自己への関心のもとに 利己心をみとめ それの積極的なはたらきを言い ルウソは 必ずしも博愛新としてではなく 最初の約束への意識的な・そして自己強制的な一般意志 はては市民(国民)の宗教への帰属をもちだした。自然の歩みをいうばあいでも それは 一個人が そのまま完全に体現できるものではないのだから 二人とも こうしてそれぞれ具体的な同感理論を提出した。スミスのは そのまま生活態度の問題であることをあらわし ルウソのは ただし《たとえばの話》・一つの教育物語の中でであるのではないか。
これに対しては 一つの折衷志向で両者をとらえてもよいのでは?つまり ルウソの意をくんで スミスの方式でという志向。ルウソの意は スミスの意でもあるはずだが 同感人=経済人の生活態度にかんして ルウソの教育という視点(実践)を 折衷させるというやり方で。――あまりにも図式的であるのかも知れない。