caguirofie

哲学いろいろ

#24

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第二十六章 表現形式にかんする一般文法

社会行為は 交通行為である。交通行為は 意味内容の伝達という観点から見れば ことばを用いているのであるから 表現行為を伴なっている。交通の規則すなわち慣習にしろ法律にしろ ことばで表現される。なおかつ社会行為は 交通として 経済活動や政治活動をその内容とすると言える。経済活動も おおむね ことばを通じて話し合いながら――その意味で 政治=共同自治しながら――おこなう。社会行為を 活動内容から見ると それは交通行為であり その中からことばの問題をとりだすと 表現行為である。
互いにちがった言語を そしてそれぞれその社会を対照してみるとき それらを使用する人間は おそらく自然人原点を持ち出さなくとも 同じ存在であろうし 交通行為の内容も 一般に同類のものである。交通の形式にちがいを生じているのだが 文化とか文明・民俗の大きな問題としてではなく この交通形式の異同を 表現形式の異同の視点からとらえるということであった。作業仮説として αおよびβの二つの表現類型に抽象した。ここで もし人間に自然人原点を想定するように 表現類型にも原初的なものを想定するのだとしたら――言いかけて やめていたみたいだったから―― このω類型と α・β両類型とのつながりを考えてみることにする。

Elle( la nature ) y serait comme un arbrisseau que le hasard fait naître au milieu d'un chemin, et que les passants font bientôt périr, en le heurtant de toutes parts et le pliant dans tous les sens.
自然はたまたま道のまんなかに生えた小さな木のように 通行人に踏みつけられ あらゆる方向に折り曲げられて まもなく枯れてしまうだろう。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.23)

文脈の確認――すなわち《 Elle y serait...》の《 y (そこで)》の意味の確認――としては 直前の文章すなわち《偏見 権威 必然 実例 わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし そのかわりに なんにももたらさないことになるだろう》を承けたものである。
動詞《 faire (する・させる)→ fait; font 》に注目できる。かんたんに次のようにして言いかえた文例の中でとらえよう。

(a) Le hasard fait naître un arbrisseau.
偶然は させる←生まれ 一本の‐小さな木を

→《小さな木‐が たまたま 生える》

(b) Les passants font périr cet arbrisseau.
通行人が させる←滅び この‐木を

→《木‐は 通行人‐に 踏みつけられる。》

表現の文法形式から わざと離れてみるなら この《 faire ( fait; font )》という語が どうも 主題提示のしるし(格活用のハ格・ガ格にあたるような)ではないかと考える。
《偶然( Le hasard )‐は( fait )〔第一主題〕――なにをするかといえば―― 木( un arbrisseau )‐が〔第二主題〕 生まれること( naître )‐を〔第三以降の派生主題→論述部〕》あるいは《通行人( Les passants )‐は( font )〔第一主題〕――どうするかといえば――木( cet arbrisseau )‐が〔第二主題〕 滅びること( périr )‐を〔論述部→しかもむしろ別の主題提示でもあるような〕》という空想じょうの仮定。
そしてこうして α類型の観点で見るならば 《主題+論述》のこのα類型は 《第一ないし」第二の主題から始めて どこまでも主題を どんどん述べていく》表現形式ではないかと思われる。主題をつらねつつ それら第一から第nまでの主題のそれぞれの提示の仕方(いわゆる助詞によって表わす)が むしろ主観の表明したいと望んでいる論述になっているのではないかと。したがって β類型は このα類型の《主題論述の積み重ね》形式のそのなかに 《主語x述語部》の文法規則をかたちづくった。
主語と述語(動詞・目的語・補語)とのあいだに 連絡の規則をもち 一定の構造をかたちづくった。すなわち 論述における主観の表明つまりは各主題の提示のしかた(たとえば助詞など)を この文法構成が(つまりはほとんど助詞を用いないところの連絡規則が) になうようになった。
論述をつみかさねるようにして展開していくべき主題群は すべて――もし想定にもとづくなら―― ω類型での《原主体x客題》の中の客題のことである。(a)文例の第一主題でありまた主語である《偶然( Le hasard )》 そして(b)文例の同じそれらである《通行人( Les passants )》 これらは ω類型における客題の一つひとつである。その限りで 原主体に対するこれらの客題をとらえて これらを人間主体は 文章表現において一つひとつの主題とし また特に文法構文において主語なら主語とする。
もちろん ありうべき見方としては 《原主体にとっての客題》ないし《原主体x客題》そのものを 人間主体にとって 一定の客題と見ることもできるかも知れない。ただ一点 言語表現の歴史からいって ω類型が先に存在し そこからαないしβ類型が発展したという見方を とることもできるだろうということである。
主体存在たる人間にしろ客体たる行為関係およびその行為事実の関連にしろ それらの認識と表現とにおいて はじめは何らかの原主体にとっての客題であったということであろうと あるいは 人間主体にとっての客題となったということであろうと いまでは まず 主題となる。そして 文法認識において――こんどは むしろ――主語でもあれば述語等でもある。すなわち 文章表現における認識対象としての主題は 一つひとつの言葉として 名詞であったり動詞であったり助詞(前置詞・後置詞など)またその他の品詞であったりする。
いいかえると 動詞といわれる《 fait; font 》つまりその不定法(原形)として《 faire 》は α・β両類型を交錯させるようにみてみれば 主題提示のしるしであり 日本文の助詞(ハ格・ガ格)の果たす役目をになっているかのごとくである。いいかえると 日本文の助詞つまりは一般に主題論述のためのしるしとなる言葉は 主観真実の表明じょうの動詞(たとえば仮りに動態詞)である。
もっと逆に言えばβ類型の文法上の動態詞をになうかのごとくであって 同時に 《する・させる》の意味をもって そういう意味あいでの主題の一つを構成している。ということは そういう仮定の見方をしないならば――つまりは ほとんどどんな品詞の語でも 一つひとつそれじたいの主題とし提示されるという見方をとらないならば―― β類型では その論述を互いに連絡させるための潤滑油となるようなはたらきをするこの動態詞は もうほとんど用いないのである。それは おもに語どうしの位置関係としての文構造が つまり動態詞としてはゼロのかたちが になう。


こうして この章で いくらか試みたことは 表現類型にかんして そのちがいによりは 互いの基礎としての――ときにω類型としての――共通性について さぐろうということであった。自然人原点にまで遡らなくとも 生活態度の全体(その限りで一般に人格)として 出発点・その総体たる主観真実 これの普遍性を 表現類型の異なったそれぞれの言語のあいだにあっても 主張していくことが可能であるものと考えたかった恰好である。結論はまだ出ていない。
それでも 仮りにまとめをなすならば――。
交通を始めた人間の出発点における言語表現の初発の形式を いちおうα類型において とらえた。主題を一つひとつ表明しそれによって論述をも展開していくときの 各主題のあいだの連絡係・あるいは同じことでその論述のための動態詞 これが β類型へ移行するにあたって――と思われるのだが―― 基本的なかたちとして言えることには 動態詞が すでに 提示されるべき主題つまり一つひとつの語に くっついたのではないか。だから そのあとでは 提示された主題が 主語(主格の動態詞=接辞が ついたもの)となったり 目的語(目的格の接辞=動態詞がついたもの)となったり これらに対応して 動作・状態を示す主題提示の部分が 述語動詞となったりするのは 怪しむに足りない。そうしてさらに このあとは 格変化接辞(←動態詞)を落としていくならば 構文を形成する語どうしの位置関係のみで 動態詞の役割を おもに 果たせるようになった。前置詞などという助詞が わづかに 残った。また 動態詞(はじめは 一音節の語であっただろうか)が のちに 名詞や動詞となる語を形成していったというのは α類型の以前の・あるいはその成立につれての 言語表現の上での動きであったと思われる。
文例(a)において 語《 hasard / fait / naître / arbrisseau 》は α類型から見れば それぞれ主題として提示されているのである。それらの間の連絡係つまり論述の動態詞は すでに ない。あるいは 冠詞とよばれる《 Le / un 》が わづかに動態詞の役目をもっているとも考えられる。主観表明の前提として 主題の提示ないし主題の認識の仕方を あらわすから。そのほかにはなく 第一主題の《 hasard 》とそして語順からして第二主題の《 fait 》との位置関係としての連絡 その文法規則 これが 動態詞の役目をはたしている。あるいは 語順から第二の主題提示と考えられる《 fait 》が そのように論述(つまり第一主題=かつ主語に対する 述語動詞)をになうとともに 第一主題につけられたところの動態詞でもあるのではないかという考え方。これも いちおう 提出した。
( b )の文例についても同様であるが それらの文例の元の文章のなかで 《 comme un arbrisseau (小さな木のごとく)》の《 comme (のようなもの・として)》という語や あるいは 《 de toutes parts (あらゆる部分で)》の《 de (から・の)》もしくは《 dans tous les sens (あらゆる方向に)》の《 dans (において)》といった前置詞が α類型から見た動態詞の役目を果たしているかとも。
日本文で (a )の文例を

  • 偶然‐は 木‐が 生えることだ。
  • 偶然‐が 木‐を 生む。
  • 木‐は 偶然‐に 生える。
  • 偶然‐として / ‐から・・・
  • 偶然‐の 力‐で・・・

・・・

と言いかえるとき これらの助詞は つねに表現されて 動態詞である。いいかえると 動態詞は さまざまな主題格である。主題の格活用であり 活用格である。主語x述語部のβ類型では 動態詞は すでになく 主格・目的格(賓格のかずかず)などの文法規則によって さらには 述語動詞の法( mood )・態( voice )・時制( tense )などの活用変化(屈折)のそれによって 主語を提示する主観真実の視点を示す。つまり論述すべき具体主観の内容を表わす。
言えることは これだけのことであるとともに それによって いづれの表現類型においても 主観真実の出発点総体の保持ということが 帰結されるはずである。言語表現の一般としては むしろここに 文法というなら文法が 見出されるというのも あながち 小さなことではないように思われることである。
一つひとつの言葉は 動態詞と名辞(動態詞以前の語)とに分かれ 動態詞は それとして存在し表現に用いられる場合と すでに存在せず構文規則が代理する場合とに分かれると考えた。動態詞をそれとして用いる・用いないかで いちおうα類型とβ類型とに 表現形式の大きな分類ができると捉えた。これとしては こういう《一般文法》 すなわち いうところは 出発点総体の・主観真実の 言語における表現形式一般の問題。だから α・βのぶん類が問題なのではない。
そうして このことは ルウソが 社会交通の形式(あるいは交通に先行する存在主体の関係)として 自然人を提出するとき これをわれわれが 原点とよぶなら しかも 同じ内容を ありうべき議論のやり方として 必ずしも原点自然人のことで言わずに 出発点社会人の問題として――その生活態度・主観真実の動態のこととして――語っていけるような方向 これが 示唆されうると考えていた。
かんたんには 主観真実の自己修正していく動態が 問題なのだから 正負ふたつのかたちの表現上の動態詞に 留意し注意していくという交通のありかた。