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哲学いろいろ

#2

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第二章 自然人と社会人と

《自然》の定義は それほど難しいものではない。すでに出て来ている。そして ただし 出てきている限りでは 《なぞ》の部分 もしくは《夢想》の部分が――さらにもしくは その夢想 rêveries のみなもとになった《幻 vision 》の部分とさえいうべきものが―― 正当にも からんできているから そのぶん 厄介である。
じっさい ルウソ自身 きちんとした定義をあたえているものではない。あるいは あたえた結果どうなるかが きちんとしたわけではない。《順序なく ほとんど脈絡もなく 反省したこと 観察したことをまとめたこの書物》(エミール〈上〉 (岩波文庫)p.17)とその序で かれ自身 自己評価するように 《人間の教育》を中軸にしつつも 経験科学の理論としてよりは むしろ思想として 思想としてよりはいっそう夢想として 《自然の教育》のなぞを つねに 見うしなわないように 自由に(あるいは それこそ 自然に)思索をはこんでいっている。
ただし そういう自然は わたしたちの力でどうすることも出来ないのだからというように その議論は きわめて批判的な調子を帯びている。人間の教育が中軸であるとする限りで いまおこなわれているところの人間の教育のやり方を つねに批判するという行き方である。

一般の関心をこの方面にむけることが必要だと考えるからであり かりにわたしの考えがまちがっているとしても ほかの人のよい考えを生む機縁になるなら わたしはまったく時間をむだにしたことになるまい と考えるからである。
(序 p.17)

エミール〈上〉 (岩波文庫)

エミール〈上〉 (岩波文庫)

というものである。この点 くりかえし強調しておこうとおもえば 《順序なく ほとんど脈絡もなく まとめた》この行き方が 自然の教育を 最先行する中軸に据えるという《証明ずみ》の目標にちかづくための むしろ――意図してなのかどうかを別として――方法となっているかのごとくである。方法とは そこにルウソの心あるいは人格があるということである。と前もって考えられる。

ただ注意しておきたいのは すでに遠い昔から人は口をひらけば既成の方法(la pratique établie )を非難しているが だれもまだもっとよい方法を提案しようとはしなかったことだ。わたしたちの時代の文学と学問は 建設的であるよりもはるかに破壊的である。

  • 《乗馬のように調教し 庭木みたいに 好きなようにねじまげ》ようとしているからであるらしい。 

人は大家の口調で批判するが なにか提案するにはそれとはちがう態度をとらなければならない。
(序 p.18)

という《提案の態度》が ここでのルウソの方法であり 教育の《既成の方法》と訳されているものは 方式・作法・手法・制度のことであるようだ。だから

実行できることを提案せよ と人はたえずわたしにくりかえす。それは みんながしていることを提案せよ あるいは とにかく現在ある悪いことと両立するなんらかのよいことを提案せよ と言っているようなものだ。しかし そういう計画は ある種の問題においては わたしの計画よりもはるかに空想的だ。そういう混ぜ合わせの計画では よいものはそこなわれ 悪いものは改められないからだ。よい方法(方式)を中途半端に採用するよりは いままでの方法にそのまま従っていたほうがよい。人間にはそれだけ矛盾が少なくなる。人間は同時に反対の目標にむかって進むことはできないのだ。
(序 p.20)

だから 《父親たち そして母親たちよ 実行できることはあなたがたが実行したいと思うことだ》(p.20)と言って 方策については つきはなしている。すなわち くどいようにわたしたちが初めに確認させられることは

体系的な部分と呼んでいいもの ここではそれは自然の歩み( la marche de la nature )にほかならないが この点がなによりも読者をまごつかせるだろう。
(序 p.19)

という点にあるらしい。
このルウソとつきあうためには われわれは 読書の中で まごつかせられたなら その箇所に かれの提案( propose )・計画( projet )あるいは《人間をつくる技術 l'art de former des hommes 》が秘められていると考えなければならないようである。そして どうも このことが すでに――すなわち 《自然》の定義に入る前に―― その《自然》というかれのいう目標のことであるらしい。
だから エミルという一人の子どもを生徒にして ある一人の教師が教育をおこなうという設定 これは その幼年から青年までの展開過程が 《順序立てて 脈絡をもって》書き進められているのだが この設定のなかでの方策が かれの提案すべき計画ではないということであるらしい。あらかじめ述べるなら ルウソは 提案の態度を 提案しているらしい。

そこでわたしたちの見方を一般化しなければならない。そしてわたしたちの生徒のうちに 抽象的な人間( l'homme abstrait ) 人生のあらゆる事件にさらされた人間を考察しなければならない。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.32)

という 一見して矛盾する《一般化した見方》を提出することも 一方で 《父親たち母親たちが 実行したいと思うことがら》として 経験的・具体的な方策をふくませながら 他方で なぞをもった・かつ証明ずみの《自然の目標》のことに 触れているという恰好であるようだ。
ということは すでに エミルが登場してくる前の段落 つまり序および本文第一編のはじめの部分で かれはひととおりの主張を語り終えているとさえ 考えられてくる。たしかに

一言でいえば 自然人( l'homme naturel )を知ら( connaître )なければならない。
(p.30)

というのが ルウソの 《自然》の定義であるらしいし その主張のすべては これにこめられていると言えるようなのである。

人は子どもというものを知らない。子どもについてまちがった観念をもっているので 議論を進めるほど迷路にはいりこむ。
(p.18)

といって 子どもをもちだすのは 大人よりも子どものほうが 自然人であることをより多く残しているからなのかと考えさせられ その結果ひとつ思い浮かんだことは 考えるに エミルという一人の子どもに対する教育論が 必ずしもここでの主張なのではないとさえ思われるということである。
《わたしたちの能力と器官の内部的な発展》が 自然の教育であってみれば 《器官 nos organes 》は 肉体・身体として 事物(対象)であり――そこにすでに 事物の教育がふくまれており―― 《能力 nos facultés 》とは この身体器官を基体とする精神の行為能力(能力行為)のことであるだろうから ほとんど 《自然の教育と人間の教育との一体化したもの》である。自然の教育とは わたしたち人間が自分の力ではどうすることも出来ないものであったから それと 人間の教育とのあいだに 明確な区別があって しかも 《わたしたちの能力》を 自然の教育の中にふくめて言っていることによって 両者は ほとんど一体化しうるものであると見るべきだとも 考えられてくる。《一体化》とここで言うのは

自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり 絶対的な整数であって 自分にたいして あるいは自分と同等のものにたいして関係をもつだけである。
(p.27)

というとき 可能となるものだと考えられ われわれが 成長するにつれて この自然人のままではいないとき 《ほとんど》である。よって 次の定義があたえられるのだと。

わたしたちは感官をもって生まれている。そして生まれたときから 周囲のあるものによっていろんなふうに刺激される。自分の感覚をいわば意識するようになると 感覚を生み出すものをもとめたり さけたりするようになる。はじめは それが快い感覚であるか不快な感覚であるかによって つぎにはそれがわたしたちに適当であるか 不適当であるかをみとめることによって 最後には理性があたえる幸福あるいは完全性の観念にもとづいてくだす判断によって それをもとめたり さけたりする。この傾向は 感覚がいっそう鋭敏になり いっそう分別がついてくると その範囲がひろがり 固定してくる。しかし それはわたしたちの習性にさまたげられ わたしたちの臆見によって多かれ少なかれ変質する。この変化が起こるまえの傾向が わたしたちの自然とわたしが呼ぶものだ。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.26)

よって 《自然の教育と人間の教育とのあいだの 一方で明確な区別と 他方で 〈わたしたちの能力と器官〉をとおしての 目標としての一体化》とは わざと簡略化するなら なにも ひとり子どもに限られないのであって 一般に 《自然人と社会人( l'homme civil )》とのあいだの――人間の教育を通して 自然の教育にのっとろうとするところの―― 調和あるいは闘い》のことだと かんがえられる。
これは――わざと 通念に合うように言ったからであるが―― 一般に通用している考え方である。その限りで 自然の教育と人間の教育との一致は 自然人と社会人との一致のことだといっても なぞもないくらいである。

社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。その価値は社会という全体との関連において決まる。りっぱな社会制度

  • ここに 教育の方式・方策がふくまれる。

とは 人間をこのうえなく不自然なものにし その絶対的存在(=整数たる存在)をうばいさって 相対的な存在をあたえ 《自我 le moi 》を共通の統一体のなかに移すような制度である。
(p.27)

ルウソは――まず ちなみに この《りっぱな社会制度》を 肯定したわけではないと言わなければならず しかも―― 《わたしたち人間は中途半端にされることを望まない》とわざわざ言い出しており それによって 《自然人と社会人との単なる折衷による調和》をきらうし そんなことはできない相談だと はじめに みづからに対しても 規定しており なおかつ 調和あるいは闘い または 両者の一体化という証明ずみの目標を かかげたかっこうとなっている。そしてこれは 人間の教育つまりは自己教育としてであると考えられる。ルウソとしては かれ一人の自己教育としてでも そうであるように思われる。
たしかにこのことは 教育の具体的な方策の問題ではなく しかも ひとつの例として 子どもに対するばあいなどには 父親あるいは母親が 実際に実行したいことがらであると言うことによって 経験的なことである。つまりこの後者は 一つの具体である。
言いかえるなら たしかにここまでくれば わたしたち人間の力ではどうすることも出来ない自然の教育の領域を言っており なおかつ すでに社会人となっている人間のその教育行為のこととして 言いたかったというわけである。
つまり 経験科学的である。つまり 自然の教育を最先行させる一般に人間の教育は すでに社会人である人間が 自然人を知って この自然人にその自分の社会人であることを一致させるという内容(行為内容)をもっていると ルウソは言い出しているが これが 《抽象的な人間》をとりあげつつも 具体経験であり 経験可能だと言いはじめていることになっている。もちろん どういうふうに経験実践的であるかが つぎに問題となる。
(つづく→2005-11-30 - caguirofie051130)