caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第六章 子どもの問題とともに

つぎに 子どもの問題である。
子どもは 習慣に染まっていない。一般に より少なく染まっている。この意味で 自然人の確立が はやい。そして 自然人の確立がはやくできることと すでに自然人であることとは 別である。
したがって――つまり 子どもは あるいは人間は 自然人を確立し得た模範として生まれてくるのではないから―― かれらをわたしたちは 必ずしも保護してやらなければならないという事情と考え方とは 出て来ない。消極的に子どもを社会人の意見の攻撃からまもるのではなく 積極的に子どもに対して 大人であるわたしたち自身に対してと同じく――まったく同じく―― 自然の教育にのっとった人間の教育をほどこすのである。
ほどこすというのは 自分自身に対してと同じように――つまり考え方として まったく同じように――であり しかもこれは基本的に 人間の意見をつたえる(ここまでは 自由意志を尊重しており 尊重しているがゆえに まだ内政干渉やあるいは支配ではない)ことによって おこなうのである。社会生活にかんする知識を伝達することそれじたいは わたしたちはこれを排除しないが いまの主題とはいちおう別である。

  • 社会生活のもろもろの知恵や知識を知ることも 自然の教育への道程である。

したがって すでに結論づけるなら 子どもの問題は それとして特別に 教育の問題にはならない。と同時に 教育じょう――自己による自己自身の教育の過程(つまり生活)のなかで 他者に対して 自分の考えをのべあうその教育上―― 子どもに対しては 大人とちがって 相手が子どもであるものとしての方式が 特殊に存在すると考えられる。
すなわちルウソの説いたように自然人の教育は わたしたちが大人に対して 子どもになれというかたちで 話をかわすのではないのと同じく 子どもに対しても 大人になれとか大人になるためにとかを前提して 対話をおこなうのではないということになる。子どもの問題は つきつめれば これが結論だと考える。

  • 大人になるために必要だからという理由が 捨てがたいという向きには 人間になるためという考え方に代えればよいかも知れない。ただし 自然の教育にあっては 子どもであっても その存在(本質)としては すでに人間であるという大前提のほうがよい。

すなわち この意味では――この結論を経過したあとでは―― 子どもの教育が 方法として・基本形式の実践として とくべつ変わったものがあるのではないと言っていい。
基本形式の実践の一般理論は 人間の自由意志(また知恵・知識・文化行為)によって社会人のあいだに築かれたものごとを わたしたちがのりこえて行き しかもここに帰ってきて そのときには かえってそのものごとに対するわたしたちの意志による自由な選択が立てられていくという歴史的(過程的)な考え方である。
相手が子どもであろうと大人であろうと あるいは身分・人種・信条また性のちがい等々にかかわらず この一般理論で実践するのであり その同じ過程で時に相手と情況におうじて 意見をのべあう方式(さらには 制度じょうの方式)が それぞれの場合 特殊に考えられおこなわれていく。子どもであること そして男女両性のちがい これら二つは その情況に応じる実践方式が 実際問題として とくに異なってくるかも知れない。
男女両性のちがいに応じた方式の変化というのは どちらの性にしても 相手が大人であるなら もう 生じないかも知れない。これは とうぜん 自然人あるいは人間の自然本性の中にある自然法主体ということが 性のちがいによって 相違しないからである。言いかえると 女がやがて男になるとかまたはその反対であるとかではないのだから 実践方式を異にする必要はうすれる。ない。人種のばあいも そうである。子どもの場合は かれらがやがて大人になるというのは 事実であるから 対話の方式が 情況と相手とに応じる。身分・信条のちがいの場合も いくらか 事実として そうであるのかもわからない。
子どもの場合に 教育方式の点で それとして特殊なものが生じるのは かれらがやがて大人になることが そのいま大人であることをとうぜん意味しないからである。意味しない内容をもとにして 一つの《普遍的な》形式かつ方式で 子どもに相い向かい合うことはできない。子どもは 身体的に成長過程にあるし 精神的には 自然人確立の過程が成長する段階にあるからである。大人は一般に この成長の過程や段階を終えている。青年は 成長過程をおえつつある。
したがって 子どもの教育は それじたいとして一つの段階と場とをなす。ということは 身体的にも精神的にも成長の過程にある子どもに対して わたしたちは この成長の過程あるいは段階と場を それゆえに それはそれで独立したものと見なすべきである。つまり 子どもを子どもである人間として 捉えなければいけない。成長しつつある子どもを 成長しつつある子どもとして みなさなくてはいけない。子どもは ほかのどんな存在でもないであろう。子どもという存在がすべてである。
これは 女あるいは男という存在が 両者のあいだで いくらかちがうから 時によっては 対話の基本形式が 特殊な副次的な方式をもつことがありうるかも知れないというのと まったく別である。性のちがいの場合には 男あるいは女という存在が それぞれそのかたちで すべてだということには どう考えてもならない。子どもの場合には なる。成長したあとの大人という段階へとびこえていくことは ありえない。ありうると言い張るのは 大人が 子どもと同じように成長の段階にあるという場合だけである。その場合には――どういうわけか その錯覚の場合が生じたなら―― とびこえが起きる つまり無理に橋渡しがおこなわれている。子どもには いい迷惑である。その大人は迷走している。
男は 男と女とを 女も 男に対しても女に対しても 同じ人間とあつかっていいわけである。子どもは大人を 大人は子どもを それぞれ大人としてあるいは子どもとして あつかうだろう。身体的にも精神的にも 自然人確立の成長過程にあるなら その段階と場とは それじしんの主体性を主張するだろう。男と女との関係には この方式は適用されない。子どもの教育で 教育一般(あるいはルウソのいう三つの教育)が終わったというのなら それは 表現上の問題であって 基本目標である自然人確立の成長過程がおえられるということを意味する。生徒教育は 方式として特殊であって 方法として特殊ではない。そして 生徒教育が教育のすべてではない。生徒教育ですべてをおこなおうという意図と考え方は 一つの志向としてありうるかも知れない。
この前提で 生徒エミルの教育を読み始めることができる。
ところが

エミールはみなし子である。父と母があっても同じことだ。父母の義務をひきうけるわたしは父母の権利のすべてをうけつぐのだ。エミールは両親をうやまわなければならないが わたしにだけ服従しなければならない。それがわたしの第一の というより ただ一つの条件である。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.53)

というこの話の設定は どう見ても 話としての設定であって すべては 考え方の表明につきる。エミルの教育という場の特定じたいさえも 教育の一般的な議論のための話の運び方の問題にすぎないとすら 考えられる。子どもの教育という点で それにかかわる特殊な方式が解明されようとはしているが それと一般の方法とのどちらに 重心がおかれるかと問うなら 後者のほうだと見ていいのではないか。例の《大人になって必要となるものは すべて〔この〕教育によってあたえられる》(第五章)という一文は そういう意味に 逆に とっていいのではないかとさえ考えられるのだし また

子どもに教える学問は一つしかない。それは 人間の義務を教えることだ。この学問は単一の学問だ。
(p.51)

から。すなわち エミルを生徒にして教育することが だから そこでは ほかでもなく子どもを《教えることよりも導くこと》(p.51)の特殊な方式が語られているとはいえ それが 実地に行なわれているとかいうことに 重心がおかれたのではなく したがって また この実地の方式をみならえということに 必ずしも おかれているのでもなく すべては そういう話なのである。
そうだとしても 子どもの尊重という一つの骨子は 生きると考えられる。そしてこの話は けっきょく人間の・その意味での大人の教育の問題である。だとすると 一つに 自己到来した自然人が 社会に戻ってきておこなう実践も こういうかたちで――つまり 子どもに相い対するというかたちで―― 一般に のべられているとも考えられるし もう一つに これらの限りで わたしたちの読書は ここですでに基本的に終わった(新たな出発の地点に立った)とさえ考えるのである。

そこでわたしは 一人の架空の生徒を自分にあたえ・・・その生徒を 生まれたときから 一人まえの人間になって自分自身のほかに指導する者を必要としなくなるまで導くことにした。
(p.49)

こうして導かれ 自然人確立の成長過程を終えたあと わたしたちとしては かれが社会の中でどう生活していくかの議論に興味があるが それは ルウソにとっては 自然の教育のみ・または《自分自身のほかに指導する者を必要としなくなる一人まえの人間》の段階だという言い方で説いて 必ずしも触れられていないということであったが こう考えてきて 大筋ですでに ルウソのこの《提案 計画》については わたしたちは読み終えたとも 考えるのである。
ソフィという伴侶を得て新しく社会へ旅立つエミルに対して 《気持ちよくつきあって かれら(同国人)と友情をむすぶがいい。かれらに恩恵を施し かれらのお手本になるがいい。・・・》(第五編エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 )p.259)というふうにも語っている。
さらに故意にルウソの揚げ足取りを一つしておこうとおもえば 次のような文章には やはり いきっぱなしの教育論であると思わせられるのである。

子どもを生ませ養っている父親は それだけでは自分のつとめの三分の一をはたしているにすぎない。かれは人類には人間をあたえなければならない。社会には社会的人間をあたえなければならない。国家には市民(国家の要請に従うところの)をあたえなければならない。この三重の義務をはたす能力がありながら それをはたしていない人間はすべて罪人であり 半分しかはたさないばあいはおそらくいっそう重大な罪人である。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.46)

《自然人と社会人との 二重の人間( des hommes doubles )》の状態を批判し(第四章) 社会制度や慣習も その《自然の義務に関係しない楽しみにたいする趣味 の部分は やがて忘れるようになるだろう》と言っていた(第五章)――ただし これは前後錯綜するが――ではないか。これは もしそうだとすると――つまり 直前の引用文が 全体の議論と 両立しうるのだとすると―― 《社会に戻ってきたあとの教育(教育成果の実践)》にかんするルウソの見解というものは 《自然の教育にすべてをゆだねつつ 経験現実的には 既存の現行の制度にともかく従い仕え そうして息長く 自然の歩みに期待して前進する》という点にあることを意味する。あるいはそうなのかも知れないし あるいはすべては単に表現上のあやなのかも知れない。
こうしてたしかにルウソは 《自然にかえれ》という一つの主張を明らかにした。矛盾をふくんでいたほうが 現実的であるかも知れない。こういった側面の限りでかれは 自分の計画の《約束》をはたした。エミルの成長記録は 書物じしんにゆづるべきである。