caguirofie

哲学いろいろ

#10

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第十章 だから 文学(=生活)

《二重の人間》とは ルウソにとって まったく単純で明らかに 《自然人と社会人》との二重である。もっと単純にいえば 既存の社会制度(慣習)からと 自己自身の習性・習慣からとの 人為的な行為や事柄がつきまとう 以前と以後とである。この前と後とは かならずしも時間的でなくともよい。同一時点で 考え方として 社会性の以前と以後とである。

  • もちろんこれは 単純化しすぎている。

哲学者たちが 《自我》をいうのは とうぜんこれを《理性》といってもいいように 人間の《自然本性》にそなわる能力またはその主体をいうのであるから それは 《自然人》を 社会の中にある人間の人為的な知解(理解)によって とらえたものである。このとき 一つの哲学的な概念であるのだが 《自我》とか《理性》という場合には すでにこの哲学的な概念の次元とか世界とかに――いいかえると 《人間の教育》の領域のみに――閉じこもりがちである。というよりも そのはじめに 哲学者たちは 自然の教育・その歩みといったことを もはやみとめなくなっている(あるいは少なくとも 触れなくなっている)その結果が こういった《自我》をいうときに現われてくるというものである。
近代人が 理論上――ルウソやスミスの線で―― 自然人ないし同感人ということばで 自己認識し しかも認識だけではなくすでに自己到来して 事実そのように生活上の経験行為をおこなっているというとき デカルトの《我れ》および合理思考も手つだってのように その生活基礎をそのまま生活基礎とする。つまり 経済活動を経済活動として 相互に独立した人間が 自然にそして同感しあって 自由で合理必然的な関係をともなって いとなみはじめた。このような独立人が――または 家も土地も何もかも奪われ自由になった人が―― それまでにも築かれていた社会の分業形態を まずは受け止め 自分たちの生活態度で新たに発展的に継承していくということは それぞれの職業としての 分業の中の位置をかれが担うというそのことが すでに協業を 約束している。分業を承認していくかぎりで 自然人がこれに同意し 分業者である互いを 信頼した・信用したということである。
信用をすぐれて与えうる人びとが同感しあえるそのものは 具体的に徳性である。一般的な徳性は 勤勉――正義・誠実などなど義務の感覚の持続――である。
こうして 再出発した近代人の分業関係のなかで 人びとの労働(経済行為)に二重性が生じてきているとマルクスは見た。
分業者は 信用関係のもとに 自分の生産した品物あるいは費消する能力を 商品として売るのであるとき 労働が 分業信用の関係に立ったその勤勉と 商品として売るための勤勉とに どこかで分離しはじめたのだと。この労働の二重性は ルウソのいう単純な《自然人と社会人との二重の人間》である要素をもっている とともに おそらく 《社会人ないし経済人》とその中での二重性という要素を持つと考えられる。後者は いわゆる階級関係であって もっと具体的には 不払い労働の部分と 報酬を受けている労働の部分との二重構造のことだと考えられる。

  • 何が・あるいは誰が 不払いのままにしておくことが出来えているか また どこから 報酬を得ているかの違いによって この不払い労働と支払い労働との二重性は 今の資本主義制度とは別の生産様式=社会制度である場合をも含むことができる。

言いかえると 《自然人と社会人との分裂》は 自然の教育にのっとって・あるいはそれの同感人としての実践の中で 解消された。なぜなら この意味での《二重の人間》は すでに初めに(原理的に・つまり自然法主体の存在にのっとって) 解消されていることをかかげたゆえに 持ち出されたのであり またその解消の実践つまりは自然人の確立へ向けて 歩み出すことが 実践されはじめたゆえでもあるのだから。つまり 同感人=経済人は もうすでに《新しい》社会人なのである。そうでないと 近代人の再出発は つねに そういった出発へ向けての準備段階にとどまってのみ 努力しているようなことになる。完成へ前進しているとき まだ完全な人間ではないことと 完成・完全への出発を準備していることとは 別である。
つまり 分業信用――ないし勤勉関係――は すでに《二重の人間》を解消した自然人=同感人=そして経済人が これを形成しはじめているものである。その推進力が 自然本性の能力でもあるとき これにかかわる意味での《労働の二重性》は ないといったほうがただしいし そこから 一般に何らかの問題に対して 出発しているべきである。つまり こんどは 分業関係の狭義の・あるいは第二次の 労働の二重性に対して 近代人は 《〈わたし(人格一般かつ個人)〉の二重性》ではなく 《〈わたし〉の信用・徳性・勤勉の二重性》として 対処していく。階級関係は 教育方法のではなく制度方式の問題であり 勤勉関係もしくは勤勉方式の関係である。さらにつまりは すでに新しい社会人となった分業者たちのその社会習慣や制度上のみの問題である。
ここからは 道(考え方)が二つに分かれる。一つは 依然として 近代人を継承し つまりはルウソ・スミスの自然人=同感人の基本線にそって だからまた このような新しい社会人が織りなす分業形態は それが分業信用(ないし信用分業)に立脚するという点では 同じく基本的にみとめて 社会制度を再編成していくという行き方。
もう一つは ここで新たに ふたたび社会人分業(または分業社会人)を根こそぎ批判しなければならないとし 自然人にかえれと説いていく・つまりは 同感の理論をもつくりかえ もう一段あたらしい経済人を説くか・それとも別の人間形成をとらえようとするかの行き方。
わたしたちに考えられることは 前者の道すなわち 近代人の再確認・再確立が いづれにしても 再再出発点だということであるだろう。後者の道のなかで 自然人にかえれということが もしルウソのいう自然人よりもさらに何か根源的なことをいっているのではないとしたなら そうである。ルウソの自然人よりもさらに根源的な別の人間のことを 言っているのだとしたなら それを説く人びとは その点をはっきりと示さなければならないし それに対してわたしたちは 自由に協議していかなければならない。
ヴァレリは――もちろんかれが 現代人の代表だとも代理だとも言うのではないが―― 表現形式こそちがえ ルウソ=スミスの基本線を受け継いでいるとわたしたちは考えた。そして ただし ヴァレリの一例は それほど旧いとも考えられない。つまりもう一度いうと ルウソの自然人がまだ古びてはいないとみるその継承発展の行き方を 一つに ヴァレリは示したと考えるが そういったふうに おそらく もし仮りにさらにいっそう根源的な自然人を見ようとしている人びとも その《人間》を説明してくれることが望まれるだろう。
あるいはまた ヴァレリは デカルトの《我れ考えるゆえに我れあり。Je pense, donc je suis. 》に対して 近代的な主神ゼウスとなるような哲学者となることをきらうという意味では 

我れ 〈我れ〉を思う ゆえに我れあり。
Je ME pense, donc je suis.

をかかげる。つまり《わたしがわたしする》のルウソの自己到来である。

我れとは 他者である。
Je est un autre.

  • というのは 一方で 社会人の我れとは異なる自然人をいおうとしたとも 他方では 社会人(勤勉人)のあいだでの労働する我れの二重性をいおうとしたとも それら両様に 考えられる。
  • 前者なら スミス=ルウソ=またヴァレリの基本線の継承であるし 後者なら しかしそれでも 前者の基本線が 第一実践であり あとは 社会制度の改革のほうに――その意味でのマルクスの議論したところに―― 同感実践がある。
  • マルクスも これら両様をふくんだ全体観・かつその経済学理論を 持っていたし示したと おおまかに言えるとは思われる。
  • おおまかにと条件留保するのは 受け取られ方によっては ルウソ=スミスの自然人=同感人の線を あたかも とびこえよと言っているかに見えるからである。つまり 上でいった《後者》の道。

三つ目の道(考え方)があるだろうか。すなわち――少しすでに触れたように―― 社会制度を 政治革命をとおして 全面的に変革したのちに 相対的な同感実践の制度方式の面にまで及び そのように分業関係をあたらしくつくりなおし そしてむろんそれだけではなく 相対的では必ずしもないところの(互いにとってはむろん相対的であるが その)人間 この人間の新たな根源的な形成を はかっていくのだという方針の可能性は あるだろうか。
自然人の原点→同感人の出発点(これは全体的な・全人格的な生活態度でもある)→生活態度の形成を とくにその基礎の側面ではかっていくという形での 独立して自由な合理必然(その信用関係)を志向する経済人 こういった順序ではなく この順序の場合には いづれにしても 社会の制度的な人間関係は 分業を基礎の形態としていたから そうではなく 非分業人のいわば原点→社会制度の変革・計画管理という出発点→それらに対する同感・同意という生活態度→一方では新しく経済活動する人間 他方ではその根底にすばらしき人間原点 こういった順序で考えられる道が あるだろうか。
決定的な言い方では 答えることはできない。わたしたちは 未来のことはわからない。ただし――しかも―― 将来のことは たとえ未知であっても いままでの考え方にしたがえば 自然の教育にのっとる人間の義務の感覚のうえで すでに知っていること・すでに愛して(思って)いることとして 実践できるし してゆく。わたしには 第三の道は無謀だと思われるが 基本的には その無謀であること・つまりその根源的な人間が その道を推進する本人にとっても わからないということだから――未知のものとしても はっきりつかめないのだから―― わからないと言わなければならない。わからない限りでは 従うことができない。
第三の道は 第ニの道に似ているが 同じではない。第二の道は ルウソ=スミスの自然人に まずは 立脚するものである。ともかく第一の道から出ている。だから ヴァレリとはちがった行き方で これを継承しつつ 別の表現形式(生活態度)をさぐろうとするものである。だから 再再出発点としては われわれの第一の道と 同感しあうものであり それ以後の意見のちがいにかんしては 互いに自由に討議しあっていける。第三の道は この同感ないし自由な討議の場をこえているものとも考えられる。そういう宗教――そういう自然の教育――があるのかも知れない。
だが 近代人の出発点については 結局この近代人の出発点を いまの第三の道も 過去の事態としては同じく 前提しているものであるから そこのところを 説明してもらえるとありがたい。マルクス――あるいはマルクス主義の思想――には 第一から第三までの三つの考え方を含むようなところがあると考えられる。とくには 第ニの道である。われわれは 話しあわなければならない。われわれは すでに 自由の国に入って来ている。


こうして わたしたちは 同感実践の討議の問題として その補助資料・判断材料を提供するという意味で たて(歴史過程的)にも 横にも 自然人=同感人=そして経済人――つまりは 近代人――の歩みを 明らかにしなければならない。だが これは措いて もう一つ いまの主題のもとに 課題があるとしたなら それは 個々の人間を知るということである。
個人個人が 互いに 自然人という原点の関係だけではなく また同感人という出発点の共同性だけではなく かといって 出発点の中の・もしくはすでに出発進行の過程にある経済人を それとして 生活基礎の側面に正しく位置づけて 再確認しあうというだけではなく 特定のだれそれという人間として 具体的に個別的に 交通しあっていくことが 人間の教育という主題のもとで いまひとつ別の課題である。
これは 実際に 事実問題として 始まっていたことなのであるが あらためて 主題の一つとすることができる。
個人的な 理論を用いていく実践そのものだとも言えるが このことをさらに 実地におこなっていること つまりはふつうの日常生活での人びとのあいだの交わりである。重複する議論だと思われるかもしれないが 重複だとすると そういうふうに あらためて さいしょの事実問題から いままでの議論を 見なおすということであると言える。
社会科学の理論や実践を 措くとしても含めるとしても 人間の教育に その補助道具たる理論が提供されているかどうかは この生活日常でのおつきあいにおいて 待ったなしでもある。提供されていてもいなくとも 交通の特定の場と時とは 特定の人間にとって つねに一回きりである。先ごろは モラトリアム人間と言って 交通は 一回きりのとくていの事実関係としておこなわれていても その自分の判断行為は――つまり一定の問題に対して 同感するか否かは―― 猶予されていてよいと思われるようになった部分がある。
しかし 基本的には 待ったなしである。交通は――つまり とくに相対的な 同感実践の側面は―― むろん やりなおしがきかないということではなく 相対的で自由なゆえに たとえ理論補強をしていない場合でも それは それなりにすでに準備段階なのではなく つねに互いに主体的な 一つの完結した社会行為である。人間の教育のいわば最先端の場であり 同感実践がつねにこの最先端の日常生活をとおしてこそ おこなわれるという意味では すべての教育は ここに集中する。おどかそうとして言うのではなく それだからこそ 原点の自然人確立が それに伴なうべき理論の未知・既知を問わず 有効な原点となっていると考えられ わたしたちは この分野の課題を持たないことすら 自由であると考えていられる。ルウソはこの点を 《ジュリ または新しいエロイーズ》(新エロイーズ 全4冊 (岩波文庫))という小説作品に あらわそうとした。