caguirofie

哲学いろいろ

#22

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第二十四章 表現の自由

主観真実の表現の諸形式を 民族言語という次元と観点からとらえて 前章では 二つの類型に分けた。おおまかに言って 主観真実の主体 その人格の全体にかかわる出発点の生活態度 これを 交通のなかで ことばによる表現をおこなうときにも 保とうとする行き方 逆にいうと 具体的な個々の事実関連にかんする客観認識とそれへの判断である一つひとつの主観 これは ある意味で 全体としての主観真実のほうに包まれ 含まれることをむねとするのであるから 必ずしも的確に表現しないでもよいとする行き方 これを α類型とした。
反対に 主観真実の全体たる生活態度を保つことは 当然であるのだから これをすでに暗黙の了解事項としその前提に立って 事実客観や具体主観を それとして 文章に明確に表わしていこうととする行き方 したがって 交通事実の認識やそれにかんする主観真実そのものを 明確に表現し伝え合うためには 或る意味で その文章表現じたいの中に 主体(関係存在)と客体(事実関連)との連絡が 一つには 主語と述語ないし目的語などとの規則的な構成をとっていることを不可欠とする生き方 これを β類型とした。
ちなみに ギリシャ語やラテン語あるいは現代のロシア語やドイツ語等々のように 主語と述語部との連絡が 主語=主格 目的語=目的格 あるいは 主語の性・数(ほかに時制などなど)に対応して変化する述語動詞の或る種の言い方でやはり格をもって ことばとしても表現される場合 これは 話し手の主観態度の全体にとうぜんからんでいて α類型と重なる要素をもつのだが 大きく《主語x述語部》の表現類型・つまりそういう文法を持つにいたっているという点で β類型と 大雑把には考えておく。
いま少し 導入の議論として それぞれの表現類型の特徴 それらのあいだでの性格の対比をとりあげて 見ておきたい。
まず β類型において それが文法規則をもつというとき 上に言ったように 主体(つまり人間)だけが主語になり 客体(行為・事実ないしその他の生物・事物)がつねに述語にあると決まったわけではない。むしろこの類型の文法においては 文章表現の中で 客体も おおいに主語となる。ちなみに これらの抽象類型をいう限りでは α類型において 客体は文の主語にならない(もしくは ならなかった)というのではなく 主体も いまいう主述の論理連絡を基軸とする文法どおりの主語となるのではなかったということである。
このことについては 少し詳しい議論が必要である。おそらくわたしは β類型よりもα類型のほうが 旧いかたちでないかと考えているが その当否は別として 主語をきちんと立てるβ類型において この主語には 人間主体だけではなく客体事象もなることができるというとき これを論じる上で 複雑な問題を示すことになると思われるのは 必ずしも任g年主体でもまた客体要素でもないところの・早くいえば《神》が さらにそれとして表現の中に主語として立てられる。話題(主題)として提示されるだけではなく 文法連絡上の主語=主体として立てられる。天候の表現のときなど 第三人称――人称?!位格!――の代名詞が主語となる。この点を考慮に入れると アルファ類型にとってもβ類型にとっても いわゆる《万物をつくる者( l'Auteur )》もしくはそれこそ《自然のみなもと》が 文法上の主語の以前にも・そして主題をうんぬんする以前にも 原主語というか原主題というかするような原主体として 表現上 立てられていた時期があったのではないか。複雑といっても ここまでのことであるが もしそうだとしたら 仮りにこのような原初的な表現形式を ω(オーメガ)類型とよんでおく。

表現類型として
3. ω 類型 : 原主体 x その客題

  • 客題①: 主題 + 論述  : α 類型
  • 客題②: 主語 x 述語部 : β 類型

すなわち α類型もβ類型も ともにこのω類型に あるいはさかのぼるものであるかも知れないという一つの想定である。また その後の段階では α・βの両類型が 実際にはそれぞれの表現形式の中に むしろω類型を 発展的に 組み入れたと考えられるのではあるまいか。
この点にかかわるβ類型の例を ルウソの文章に見ておくなら――

Elle (=la Providence) ne veut point le mal que fait l'homme, en abusant de la liberté qu'elle lui donne;
神は 人間があたえられている自由を濫用して悪いことをするのを欲してはいない。
エミール〈中〉 (岩波文庫) 今野訳pp.151−152)

もちろんこの文章も 例のサヴワの助任司祭がこう語ったと 作者ルウソが書いているところなのであるから そのような人間の主観真実の問題なのであり 仮りにいうω類型のことば(あるいは思い)を βないしαの類型でそれぞれ表現しているのである。ω類型のことばとか思いといったそのものも たしかに人間の主観真実なのであり しかも αないしβの類型での主観真実とのあいだに 違いがあるとしたなら それは ω類型そのものでの主観が もしそうならばその自己を 原主体にとっての客題ないし客観のその中に 包まれるものと 思っていたか それとも 自覚せずにそう思っていたかに あるだろう。もちろん α・β以上にω類型も 作業仮説である。
ω類型について 問題がおこってくるならばその箇所でまた触れなければならないかも知れないが これの例示・論証は あまり必要ないであろう。そしてとにかく その後の段階でω類型が問題となってくる場合にも β類型は もう しっかりと文法構制をつくっており この上の例の場合にはその主語に 形式として代名詞( Elle ) 内容として《摂理 Providence 》が立てられうる。α類型は 《神は・・・欲してはいない》《人間が・・・する》といった主語と述語との連絡形式をとると見うるが そのとき 文例上の大きな主題を別にすれば この文で 《神は》が第一主題 それがどうかというと《人間が》が第二主題 そしてそのあと それらがどうなのかの論述部が来ると見うる。あるいは 《欲して‐は いない》とうハ格に注目するならば 実際 このことが別の観点からとしてのように第一主題(副次的な第一主題・強調主題)であると見うる。副次的な主題のばあいは どう考えても 主語と述語との連絡をとるための形式ではないだろう。また 《かのじょが( Elle ) 彼に( lui ) あたえる( donne )〔自由〕》というところを 日本文が 《人間が与えられている〔自由〕》と言い変えても この場合は 形式上 主語と述語との連絡方式に見合っている。それと同時にこの《人間が》が 《あたえられている》と《自由を濫用して悪いことをする》との両方の述語に連絡しているというとき このようにガ格で承けたその《人間》は 第二主題の提示だとも見られうる。α類型にとっては ω類型を想定するかしないかは さほど――表現の問題に限れば―― 影響しないようである。
β類型の文章の中で 人間主体だけが 主語となるのではないというもう一例。

Cette éducation nous vient de la nature, ou des hommes ou des choses.
この教育は 自然か人間か事物によってあたえられる。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.24)

《この教育( Cette éducation )〔は〕 われわれ〔に〕( nous ) やって来る( vient )》といって 明らかに《主語 x 述語》の文法形式で表現される。《自然から 人間から または 事物(事実関連)から 来る》といえば――そう訳しても―― それは ほぼ普通の日本文のように考えられるが 無理にでも抽象的なα類型において捉えようとおもえば そういう文法構文の連絡方式は 自由にとりうるけれども とらないことも自由である。この《連絡方式‐は とる / とらない》という表現形式も 主題と論述との連絡類型だと思われる。
そしてまた 仏文が――つまりこれをβ類型として考えてもよいように―― この場合の主語は 《この教育( Cette éducation )》なのであって 文の最初に来ているから あるいは主題提示であると見うるかも知れないと同時に しかしながら 述語動詞の《来る( vient )》と 文法的につながりあって 確かに主語である。構文上 そういう――言うとすれば――主題提示 かつ その展開(論述)を 全体として おこなうところの 語句のつながり具合いとしては明らかに 主語x述語のβ類型をとっている。日本文で 《事物によって あたえられる》というなら それは 《事物があたえる》とも言ったことになるから その限りで 日本文でも 客体事象が そういう背後事情のもとで 主語となると言うべきかも知れない。《何がかのじょをそうさせたか》といった類いの表現形式である。
β類型は 文法的であり α類型は 文法自由である。

C'est à toi que je m'adresse, tendre et prévoyante mère,...
やさしく 先見の明ある母よ  わたしはあなたにうったえる。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.23)

仏文では 《あまた( toi )》と《母( tendre et prévoyante mère )》とが 同格とされる。そういう文法上の約束である。日本文は この文法から自由である。主観真実を その全体の生活態度として 文章を語るときにも 保とうとする。β類型では 保たないではない。また それをないがしろにするのではなく 個々の主観真実を明確に伝えることをむねとする。そのためには 文法規則をつくったし これにのっとらなければならない。
別の見方からいけば 《わたしがうったえるのは あなたにだ( C'est à toi que je m'adresse )》という部分を これが 主題提示のやり方を持っているということなのかも知れない。そうならば 日本文としては たとえば《わたしは やさしく先見の明ある母親方に呼びかける。いま訴えようとしているのは あなたがたにだからだ》といった主題提示および論述のやり方で とらえるべきかにも思われる。
あるいはそうではなく これは強調の表現形式なのだとすれば むしろこの仏文の最初の部分を 日本文では 訳文のように 最期に持って来るのがよいはずだ。そのぶん 文法構造の成立したところの全体で β類型は 話者である交通者の存在を示す行き方なのであるから それに対して α類型では 同じ意味内容を伝えるのに 文章がより長くなるかもわからない。《これはあなたにだ わたしは訴える やさしく先見の明ある母 大きな道路から遠ざかって 生まれたばかりの若木を人々の意見の攻撃からまもることをこころえた》と言っても 通じない。もっとも このとき β類型の仏文では 関係代名詞あるいは同格の規則が あるわけだ。そして その文法構文の行き方があるから 文章が比較的にじかくて済むだけではなく 意味内容も 比較的に一定し それとして明確なものになる。
日本文が ないしβ類型が 文章じたいの意味内容を 全然 明確にできないわけではなく しかも 上の例文でなら 必ずしも仏文のような呼びかけの手法もとらないかも知れない。《お母さま方が お子さまにやさしくなさることは当然でありまして 子の将来を思うのも まことに 意義あること かつ 誰よりも熱心であります。ひとつ わたしはここで提案させていただきたいのですが・・・》と 確かに 文章表現がより一層長くなるし このことは 例の出し方があまりよくないと思うのだけれども それでも 一例としてこのように語るとするとき それは 反面で 主観真実の 個々に一定したものをではなく その全体の出発点を とにかく保とうという姿勢の一つであるとも 考えられる。これを抽象して α類型とよべると思う。
そして たとい長くなっても α類型でも 個別的な主観を明確に表現し伝えることができるはずだが 反面で α類型の α類型そのものとしての表現形式ないし枠組みが高じてくると そこでは 相手の顔をうかがうようにもなる。文法自由によって それができるようになっている。この告発調をつづけるなら そこでは なかなか肝心の用件に進まないし 進んでもその内容が一体全体なにを言おうとしたのか わからないというようなことにもなる。だが 同じくこの点で β類型がβ類型そのものとして高じてくると 明確にしかも何か理想をかたるような文章表現の作成に 腐心することになるかもわからない。そのとき 文章表現とその主体 個々の主観表現とその全体の主観真実 これらそれぞれの両者が 互いにかけ離れてくるというよりも 一般の交通形式じたいも 約束事にのっとり文法的であるとするなら そのように作成された一定の文章表現(たしかに主観である)は 全体の主観真実に対して 規則を及ぼすようになる。文章(行為)が 自己(主体)を規制する。この規制も 約束事に含まれるともいえるから その限りで 当然のことであって 何らいけないものではなく 結局 規制に耐えられずに ことばとおこないとが ちぐはぐなものになったなら それは 主観発言と主観真実とがかけ離れることである あるのだけれども 問題は このようにかけ離れたウソに対して 文法規則(交通のなら法律)が修正していくか それとも 主観真実の自己修正の動態でいくかによって それら二つの行き方のあいだで 少しく起こるものと思われる。
文法自由のα類型では 社会行為一般の交通についても 文法(法律)自由である。あたかもそのようである。とするなら 主観真実の自己修正の動態(自己が自己に自首する)の行き方が 中軸である、だから いい意味でも悪い意味でもそこで人は 寛容であるが β類型の社会における 文法規則による・つまりは回りまわって他者一般(一般意志?)による誰かれの主観真実の修正ということが それとして高じてくると 寛容でなくなるのではなく 寛容――なぜなら そのような寛容交通の実現(出発点の保持)のために 約束事を取り決めた――が 主観真実をころすことになる。だからルウソは エミルとソフィとの教師たる作者つまり自分の 表現したとおりに その教育を 母親たちに おこなえと言ったのではないと その序文で ことわった。《父親たち そして母親たちよ 実行できることとはあなたがたが実行したいと思うことだ。わたしはあなたがたの意志(主観真実)にまで責任をもたなければならないのだろうか》(エミール〈上〉 (岩波文庫) p.20)と。
そして

自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり 絶対的な整数であって 自分にたいして あるいは自分と同等のものにたいして《関係》をもつだけである。社会人は分母によって価値が起案ル分子にすぎない。その価値は社会という全体との《関連》において決まる。
L'homme naturel est tout pour lui; il est l'unité numérique, l'entier absolu, qui n'a de rapport qu'à lui-même ou à son semblable. L'homme civil n'est qu'une unité fractionnaire qui tient au dénominateur, et dont la valeur est dans son rapport avec l'entier, qui est le corps social.
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.27)

というのは これだけを独立させて取り上げれば むしろ表現内容として β類型の文法規則的である。意味内容としても 文法規則的なものをもっている。だから それに対しては 文章のなかで個々の主語となったものなどが 作者ルウソの・あるいは読者の 主観真実そのものではないと言うべきようなのである。主語のたとえば《自然人》や《社会人》が わたしの主観真実(主体)そのものだとして読むと わたしは 分裂してしまうか それとも きわめてβ類型的な考え方で 分母も分子も一であるなら わたしは 整数の自然人であり同時に整数の社会人だと答えるといった通路をつくっていかなければならない。α類型では 主観真実を総体的にとらえて 一文ごとに 主題の提示とその論述を展開していくが β類型では 提示し展開する主題のあつかい方を前もってことわったり あるいは 主観真実を総体的にとらえるという出発点を すでに約束事として暗黙の前提としており 一文ごとにの主題提示と論述といった体裁はこれを 省略する。あるいは 上の引用文を例にとると 《自然人》が主観真実の総体だとすると 《社会人》はそれに含まれる恰好である。そういう主題と論述との 連絡と展開。


前章からここまでに見たことは 次である。

(1) Cette éducation nous vient de la nature, ou des hommes ou des choses.
この教育は自然か人間か事物によってあたえられる。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.25)
(2) Le développement interne de nos facultés et de nos organes est l'éducation de la nature.
わたしたちの能力と器官の内部的発展は自然の教育である。
(同上 p.24)
(3) Or, de ces trois éducations différents, celle de la nature ne dépend point de nous;
ところで この三とおりの教育のなかで 自然の教育はわたしたちの力でどうすることもできない。(同上 p.25)
(4)Puisque le concours des trois éducations est nécessaire à leur perfection, c'est sur celle à laquelle nous ne pouvons rien qu'il faut diriger des deux autres.
完全な教育には三つの教育の一致が必要なのだから わたしたちの力でどうすることもできないものにほかの二つを一致させなければならない。
(同上 p.25)
(5) Or, n'y a-t-il pas des gens qui oublient et perdent leur éducation, d'autres qui la gardent?
ところで教育されたことを忘れたり 失ったりする人があり またそれをもちつづけている人もあるのではないか。
(同上 p .26)

これらの仏文のうち イタリック体で示した《éducation (教育)》という語に着目してみれば (1)では《教育が来る》 (2)では《内部的発展が教育である》 (3)では《三とおりの教育のうちで》 (4)では《三つの教育の一致》 (5)では《教育を忘れる》というふうに それぞれ用いられており (1)の用い方は主語 (4)のは主語句のなかの単なる修飾語 (2)のは主語に対する補語 (3)のは述語部のなかの修飾語句のうちの単なる修飾語 (5)のは目的語である。そういう文法の取り決めにもとづく表現形式は β類型のものである。ただし その目をもって見ようとおもえば (1)のは主題提示として (3)のは《これら三とおりの教育のうちでは》という主題提示のなかの一構成語として (2)のは論述内容として (4)のは《三つの教育の一致がそれら全体としての教育の実現のためには必要なのだから》という条件句としての論述を構成するものとして (5)のも(4)のと同じような要素として それぞれ用いられている。この場合は 個々の文章表現そのものから ちょうど一歩引き下がって 主観真実全体の出発点から見ようとしたものである。すなわち だとしうれば そこで α類型を完全に消滅させたものなのではない。
日本文においても あたかも同じように それぞれの文章について αおよびβの両類型が取り出されるであろう。そしてただし 上の訳文が (4)では 原文の述語部( nécessaire à leur perfection )のなかの修飾語句( à leur perfection )を 主題提示として訳していたり (5)では 《教育されたこと‐を》という 原文では述語部のなかでの目的語であるものを 語順として最初に訳して言うことによって これも一つの主題提示(《教育されたこと‐は これ‐を》)であったりしてみれば こういった点かんがみても 一般に日本文は 抽象されうる表現形式として α類型のものであるだろう。だから こういった一つの色眼鏡でみれば 仏文は一般に β類型のものであるだろう。
およそ単純に こういう点を見た。つまりまずは 表現類型という作業仮説の提示。
そうして 両類型において同じように 一方のα類型が 主体(人の存在)をさえ必ずしも主語に立てるというのではなくて しかも主題の提示には当然のごとく客体(事実関連)をも持ってくるのに対して 他方のβ類型が 主体を主語に持ち出すだけではなく 客体をも主語に立ててくるというとき そのように 主題としてにしろ主語としてにしろ 主体と客体との双方を どちらの類型でも 持ち出しうるのは それらの表現形式が 原主体とその客題とを認識しそのように表現するというω類型に さいしょは 発していたからではないか このことに いくらか触れようとした。あたりまえのことであって こんなω類型を想定しなくともよいのだが もしαとβとの二つの表現類型に分けるのなら その分けるときにも両者の共通性を いちおう 見るためのものでもある。想定のうえでは ω類型における 原主体にとっての客題――つまり世界の全体 だから 《原主体とその客題》という総体を 全体主題といってもいい――にかんして つねに出発点の全体(すなわち 一個の人格)としての主観真実を 表現の上でも とおすようにしておこなう形式が 《主題+論述》のα類型であり さらにここから進んで 主題(個別の)を言い表わすにせよ論述を展開するにせよ すでに 具体的な交通進行や個別的な事実関連を 一つひとつ ことばでとらえ とらえたあと 文章として表わすにあたって それらの言葉の間の配置および連絡を 規則的に取り決めあっていった形式を 《主語x述語部》のβ類型とした。
β類型は」 それとして完結させようとすることが高じると 進みすぎになり α類型は α類型としてその表現形式が整っているのなら それ自身の中に このβ類型を つつむようにして 推し進めていることが 肝要ではないかと。
上の例文の中の(5)の仏文で《・・・人びとがいるのではないあか( n'y a-t-il pas des gens...? )》というのは 《かれが( il )そこに( y )人びとを( des gens )持つ( a )のではないか( n'...pas )》と表現しているのであるから こうしてω類型の原主体ないしその客題をとらえて言おうとする形式を残しているとも見られ あるいはその形式もすでに 《主語x述語部》のβ類型の文法にのっとっているとともに しかしながら意味内容としては この《 n'y a-t-il pas des gens 》のひとまとまりとして 《人びとは》とか《人びとの中には》という意味あいをもって 一つの主題提示のやり方になっている。
《人びと‐は( n'y a-t-il pas des gens )〔第一主題〕 誰‐が( qui )〔第二主題〕 〔以下 論述〕 教育されたことを忘れたり失ったりするか。誰‐が それをもちつづけているか》。ただし 《 qui 》は 明らかに関係代名詞であり β類型の文法規則も きちんとしている。
いまは 世界を解釈し表現したものを解釈しているのである。または ことばによる表現形式をいろいろ吟味して その限りで世界の解釈のしかたを 解釈しておこうとしている。つまりは 表現形式にあらわれる生活態度=出発点の問題として。ここに立っての出発進行すなわち交通は 自由――原点自然人のものであるから――なのであり それゆえいづれの表現類型においても 世界を変革すること・もしくは世界を生きることになっている。  


é é é