《超人》批判
§ 8 続々とニーチェ批判
▲ (ツァラトゥストラ 三つの変化について) 〜〜〜
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第十章 超人
25.三変化と運命愛
わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせよう。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になる次第を。
内に畏敬を宿す精神、強くて、重荷に耐える精神にとっては、多くの重いものがある。この精神の強さは、重いものを、最も重いものを欲しがるのだ。何が重いか? 重荷に耐える精神はそう尋ねて、ラクダのように、ひざまずき、そして、たっぷりと荷を負わされることを欲する。わたしがわが身に負うて、わたしの強さを享楽すべき、最も重いものは何か、きみら英雄たちよ? 重荷に耐える精神はそう尋ねる。
…《中略》…
重荷に耐える精神は、これら最も重いもののすべてをわが身に負う。こうして彼は、荷を負わされて砂漠へと急ぐラクダのように、自分の砂漠へと急ぐのだ。
だが、この最も寂寥たる砂漠において、第二の変化が起こる。
ここで精神はシシになるのだ。
彼はみずからの自由をかちとろうとし、自分自身の砂漠において主であろうとするのだ。
彼はここで自分にとっての最後の主を捜し求める。彼は最後の主、自分の最後の神に、敵対しようとするのだ。彼は大きな竜と勝利を争おうとするのだ。
精神がもはや主とか神とか呼ぶことを欲しない大きな竜とは、どのようなものか?
この大きな竜は、「なんじ、なすべし」と呼ばれる。
だが、シシの精神は「われ欲す」と言う。
「なんじ、なすべし」が、この精神の行く道のかたわらに、金色にきらめきながら、横たわっている。それは一匹の有鱗動物であって、そのうろこの一枚一枚に、「なんじ、なすべし!」が金色に輝いている。これらのうろこには、千年の諸価値が輝いている。そして、あらゆる竜のなかで最も強大な竜は、次のように語る。「諸事物のあらゆる価値──それがわが身に輝いている。」「あらゆる価値はすでに創造された。そして、あらゆる創造された価値──わたしがそれである。まことに、もはや〈われ欲す〉が存在しなくてはならない!」 竜はこのように語る。
わたしの兄弟たちよ、なんのために精神のうちなるシシが必要であるのか? 断念し、畏敬の念に充ちた、重荷を負いうる動物では、なぜ充分ではないのか?
新しい諸価値を創造すること──それはシシもいまだなしえない。だが、新しい創造のための自由を獲得すること──それはシシの権力のなしうることだ。自由を獲得し、義務に対しても或る神聖な否認を行うこと、そのために、わたしの兄弟たちよ、シシが必要なのだ。
新しい諸価値への権利を取得すること──それは、重荷に耐え、畏敬の念に充ちた精神にとって、最も恐ろしい取得である。まことに、このような精神にとって、それは強奪であり、猛獣のしわざである。
この精神はかつて「なんじ、なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま彼は、自分の愛からの自由を強奪するために、最も神聖なもののうちにすらも、妄想と恣意とを見出さなくてはならない。この強奪のために、シシが必要なのだ。
だが、言え、わたしたちの兄弟たちよ、シシもなしえなかった何ごとを、子供はさらになしうるのか? なぜ、強奪するシシは、さらにまた子供にならなくてはならぬのか?
子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わたしたちの兄弟たちよ、一つの神聖な肯定が必要なのだ。いまや精神は自分の意志を意欲する。世界を失った精神は自分の世界をかちえるのだ。
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☆ たしかに初めに何ごとにもみづからかかわって行く姿勢においてその情況の課する重荷をすべて自分で負おうとする精神は ある。
そしてもしそれだとしても その精神はやがてほかの人びとの存在に気づきそれらの人びとと協力しようと思うし あるいは逆に中には対立する精神も存在すると発見するのであり それらのことは 当然のごとく分かって来る。
だから 一般に《重荷に耐える精神》が 気高い精神であるとは限らない。《もっとも重い重荷を背負う精神》がえらいとは限らない。
だから《なんぢ 為すべし》という至上命令を負う行き方にあった駱駝は けっして《われ欲す》なる獅子によって対抗的にみづからと向き合うものとなるものではない。《なんぢ成すべし》の中にさえ《われら欲す》あるいは《おのおのわれ欲す》の群れがいることをすでに知っているからである。
あるいはさらにすでに 社会は《する》と《なる》との合作であると知ることになる。ふたつの側面を合わせて大きく《自然史過程》なのだと知るようになる。
その《自然》とは あたかも《幼児》の心なのである。
▲ 一つの神聖な肯定
☆ ではない。そう言うなら それはなお獅子の行き方としての《われ欲す》に属する。のではないだろうか?
そうではなく すでに駱駝の頃にじゅうぶんに《幼児》の言うならば《聖なる甘え》が そなわっており芽生えていた。それが《自然史過程》の発見につながる。
このように駱駝と獅子と幼児とは 同時に全体として捉えて見るようにしなければならない。
ニーチェは 一つひとつの要素要因をそれぞれ極論しているきらいがある。
極論するから
▲ 世界を失った精神は自分の世界をかちえるのだ。
☆ と言わざるを得なくなる。そうではなく すでに初めから全体観に立って世界とわれとの仲良し関係を知っていたし 遅かれ早かれそのことに気づくのだ。
みづからの孤高であることによって世界から見放されたと気づく精神は 《自分〔独自〕の世界をかちえる》のではなく そうではなく 世界とのそしておのれとの和解を得る。すでに初めに和解は成っていたと知る。のだ。
駱駝も獅子も ただの比喩である。幼児から成長したおとなの人間であるというその姿にみづから気づく。という過程であるに過ぎない。これを複雑にしている。かまたは 要素要因をそれぞれ単独に分立させてそれらのつながりについての話をつくっている。
これらのことが分かるのは まだ人生と哲学の入り口である。問題は その《さとり》のあと 何をするか? ここにある。