caguirofie

哲学いろいろ

通俗的に言ってみると・・・

人には 他人の注目を浴びてこそ その能力を発揮するという性格の人がいます。


その昔 そういう性格の人とそうでない人との間に 出会い・協力・対立・確執などいろんな交通が繰り広げられました。


前者の性格の人は けっきょくのところ 実力もあり 謙虚にもなり 社会に有用な人なのですが 自分が ガキ大将や親分でなければ どうしようもなく 生きていけないといった一面を持っています。

やがて 一般の人びとは そういう実力者〔の種族〕をアマテラスと呼び 自分たちスサノヲとは 区別するようになり 確かに かれらアマテラス族を 敬いつつ遠ざけようとするようになりました。(スサノヲの子孫のオホクニヌシは アマテラス族に《国譲り》した。)


敬遠の結果は かれらを 神棚へ・また雲の上へ挙げ 敬いたてまつることでした。社会が 一般市民の生活の場としてのスサノヲ圏と そして指導層のアマテラス圏とに分かれ しかも二階建ての階層構造になったわけです。


ところが・・・

けれども悪いことに われらスサノヲは自分たちの自分たちによる自分たちのための共同自治を 放棄してしまいました。アマテラス族が やらせてくれ・全部まかせてくれと駄々をこねたからですが これ以後というものが いけません。


その後 歴史は移り スサノヲ主権という民主主義を社会が標榜するようになってからも みづからの自治能力も誇りも なにやかやも すべて失ってしまったままでいるからです。――というよりも アマテラス政府や官僚と組んで 共犯者となってさえいるのかも分かりません。


   * 一部の現実を全体であるかの如く表現しましたが 以上のように考えます。またこのような物語の趣旨から言って いま現在では われらスサノヲ市民の誇りが大切なのではないでしょうか。


   * もう今では えらい人であるか偉くないかは どうでもよいようになってもいます。二階にあがるかどうか 二階とコネを持つかどうかで 生活の快適さが決まってしまうかも知れません。