caguirofie

哲学いろいろ

臂 の屈伸喩

岩井昌悟:あたかも力ある人が曲げた臂を伸ばし、伸ばした臂を曲げるように : 神變のイメージの變遷を追う

東洋学論叢 号 33 ページ 131-68 発行年 2008-03
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3265&item_no=1&page_id=13&block_id=17
file:///C:/Users/aquificaux/Downloads/toyogakuronso33_131-068.pdf

第 四 禅 を 得 た 者 は 、心 が 統 一 さ れ、清 浄 と な り、

純 白 と な り、汚 れ な く、付 隨 煩 悩 を 離 れ 、 柔 軟 に な り 、 行 動 に 適 し 、 確 固 不 動 の も の に な る と、順 次 、
 1 智 見 (nanadassana )、
 2 意所 成 身 を 化 作 す る こ と ( manomayamkayamabhinimmana)、
 3 種 々 の 神 変 (iddhividha )、
 4 天 耳 界 (dibba-sotadhatu)、
 5 他 心 智 (cetopariyafiana)、
 6 宿 住 隨 念 智 (pubbenivasanussati-iiana)、
 7 死 生 智 (cutupapatanana )、
 8 漏 尽 智 (asavana-khayanana )
に心を 傾 注 す る と さ れて い る 。( p.81 )

6. 臂 の屈伸喩の神變のイメージの變遷(仮説)

( p.72-71 )
本論で 明ら かになっ たの は以下 のようなこ とであ る。


1. 肘の屈伸喩の神變は、阿羅漢に限らず、禅定をおさめるものであ
れば誰でも発揮できる。
2. 佛 や佛弟子 が発揮 するにせ よ、神 々が発揮 する にせ よ、 人 間界⇔
色 界を限 界とし、 無色界 への行 き来はない。 色 界では梵 天界 に赴
く記 事が多 く、 浄居天は 例外的であ る。
3.地上 におけ る移動 では長 距離を 移動 しない。 た だしバ ッガ國 のス
ンスマー ラギラ を出發鮎 とする例外 的に長 距離が 想定さ れる 移動
があ る。
4.肘 の屈伸喩 の神 變は三昧 によって発 揮さ れ、 意所 成身を もって の
移動 と四大所 成 身を もっ ての自 ら行く移動 の両者 が イメージさ れ
てい る。後 者は 空中浮遊 を含意す る。


本論は 「あたか も力 あ る人が 曲げ た肘 を伸ばす か、伸 ばした肘 を 曲げ
る ように 」 とい う譬喩 を伴 う瞬 間移動 の神 變 の表 現に 着 目し て、 資料・
を集め、 ヴ アリェ ーシ ョンを整 理し、そ の上 で、こ の神變 に まつ わる イ
メージの變遷を明 らか にし よう とする展望 をもっ て開始 した ものである

精神のハタラキについて

 1. ヒトなる存在は 生まれつきそなわった自然本性としてあると見られます。自然本性は 身と心とです。

 2. 心が 精神であり これには一般に――社会が 司法(秩序性)・立法(秩序性の認識)および行政(その認識の実行)の三つのハタラキに分かれているように―― 記憶(自己組織なる秩序)・知解(記憶からの知識ならびにその再整序化)および意志(知解を実行し知解したことを実行する)の三つに分かれたハタラキがあります。

 3. ヒトたる我れは 目で手足を見知り体を見知り鏡でみづからの顔を見知る。顔をほかの誰かの顔とは思わないだろうから ある種の自己認識となる。それとして・つまり身として我れが我れを知る。

 4. それと同じように いまの《われ》とは何なのか? と問い始める。身を見知ったと言っている我れとは何か? つまり身とは別にも――身とともに――ハタラキがあるみたいだ。それは わが顔を見知ったと言っているその我れは 我れ自身を見知ろうとしている。この動きは 心ないしこの場合は意識とよぶハタラキである。

 5. 心における意識は 何を見知るか? 我が身やほかの人の身やそして周りの自然環界および社会情況といったこれら全体としての世界のほかに 《われのおのれ》である。つまり 我れは我れみづからを知る。

 6. この――心における意識としての――《われなる自己意識》が 心一般ないし精神の始まりである。

 7. 言いかえると 我れがおのれを知り我れみづからを覚えたとき 《精神が精神した》と捉えられる。これが みづからをみづからが治める精神のハタラキとして 記憶という行為能力である。自治であり それとしての秩序作用である。

 8. 記憶なる行為能力は すでに――われわれが意識せずとも意図せずとも――記憶なるハタラキ自体として はたらいている。内臓等々の身がおのづからはたらいているように。

 9. 記憶を特に意識するのは ものごとを覚えるという意志行為をおこなうときである。司法のハタラキは 問題が起きたときに 秩序作用としてのハタラキを始める。

 10. 社会における交通整理をするために立法府は 法律なる取り決めを司法のハタラキに合うようにおこなう。あたかもそれと同じように 知解という能力行為は 記憶における秩序にもとづきその知識や情報を記憶から得てくると同時に 世界にあってあらたに得る認識を あらたな知識や情報として記憶へと送る。

 11.知解行為をおこなおうと決めたのは じつはすでにおのれの意志行為である。立法府が法律を取り決めるときその初めから 行政府の問題としても捉えている。ゆえに法律として成った内容を行政は 実施する。ヒトの意志行為は 知解においてその知解を終えた情報や実行すべきこととして用意されたいくつかの選択肢について 意志行為は実行に移す。選択・判断は 意志がおこなう。

 12. 知解行為として――科学行為として――最善の選択肢が 意志によってえらばれ実行されるとは限らない。意志には自由度がある。わるいことだと知解していても そのことをおこなおうとするほどの自由度である。安保法制は 行政府と立法府との――むろん司法府も実際には噛んでいる――せめぎ合いである。

 13. ちなみに《宇宙の精神》とか《宇宙のおおもと(本体)》と呼ばれるけっきょく神は 同じくあたかもこの《司法(記憶)-立法(知解)-行政(意志)》の三つのハタラキを持つと――想定じょう――考えられる。ただし 神にあっては――時空間を超えているからには―― 三つのハタラキがすべて同時におこなわれる。あるいは 一つひとつのハタラキに実際には 他の二つのハタラキもがそなわっている。一つのハタラキが 三つ全体のハタラキであり存在である恰好となる。(想定される)。

 14. 早い話が 神は つねに世界のすべてを知っておりつねに最善の考え方や方策を用意している。これは 人間には無理である。

 15. けれども人間も 神のハタラキを分有していると言われる。神は 三つのハタラキ(位格)がつねに一体であるが 人は その三つのハタラキには互いに時差がある。

 16. ひとは 三つのハタラキの一体性について 時間差をもって果たす・・・かも知れないし あるいは 永久に真実が明らかにされ得なかったという場合もあるかも知れない。当事者本人の心には その真実がだいたい知られているとまでは考えられる。《完全犯罪》は 起こり得ないとすれば おそらく人びとの互いの助け合いが必要だと考えられる。その意味で人には 共通の感覚(コモン・センス)があると見られている。

 17. 精神は 孤独であるがそれは 孤独どうしの関係として成っている。というところまでを述べて 批判をあおぎます。共通の感覚においても つながっているのだと。


Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie