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哲学いろいろ

三位一体論はドグマである

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 1. イエスというのは ナザレの地のヨセフとマリアとのあいだの子で ふつうの人間です。

 2. このイエスなる人間がキリストと呼ばれたのは そういう物語です。聖書記者たちが――イエスの振る舞いや発言にもとづき――想定したものです。

 3. キリストは もとは――メシアのことであって――王などの人間のことを言っていましたが 救世主といった意味をも帯びるようになり 果ては 神ないし神の子という意味で使われるようになりました。

 4. イエス・キリストというのは イエスなる人間が キリストと呼ばれる神(神の子でありみづからも神)であるという意味です。

 5. つまり この想定は 物語であり 雲をつかむような話です。したがってまた そこで遣われる言葉はすべて比喩です。

 5−1. イエスがキリストであるという言わば《貌(かお)》においては 母はやはり実際の母であるマリアですが あたかも父は 聖霊なる神だという話にもなっています。

 5−2. マリアは ふつうの人間としての母であるとともに 聖母とよばれるように神の子キリストの――聖霊による身ごもりをとおしての――母であるとも見られるわけです。(イエス・キリストという二重性に応じて マリアにも二重性が付与されます。ふつうのコイトスと処女懐胎との二重性)。







 6. そのような前提に立って 聖書の記事から後世の人びとはさらに 神にかんしてそれは三位一体であるという神学の理論を持ちました。





 7. その説明には 光のたとえがよく用いられます。光源が 父なる神で その発耀が 子なる神で それらの明るさ・あたたかさが 聖霊なる神であると。これらは 光として一体であると。

 8. 人間の生まれつきそなえる自然本性にかんするタトエで捉えるなら 記憶なる行為能力が 父であり 知解が 子であり 意志が 聖霊だとそれぞれ考えられるようです。

 9. 記憶とは 身なる組織の自己秩序作用であり 知識情報について整理し保存する作用だと考えられます。
 知解とは 記憶なる精神が精神するハタラキです。記憶なる精神が言わば自己を自乗するようなかたちでおのれみづからの貯蔵庫から情報を取り出します。
 意志とは 知解がすでに情報を整理しその中から思惟や行動についての選択肢を用意したところでその結論を出すチカラでありそれを実行に移すハタラキです。



 10. 一般に 個人における記憶は 市民政府なる国家における司法府に相当し 知解は 立法府 そして意志は 行政府にそれぞれ比されます。

 11. この三権分立というのは むろん単独で分立ないし独立しているのではなく 互いに分立しつつ協業しています。言わば 社会における三つの権力ないし個人における三つの行為能力は 全体として互いに一体として機能します。

 
 12. ただし人間の記憶と知解と意志との三つの行為能力の一体性は(そして三権分立のそれも) 時間差をともなって成るかたちです。有限で相対性としてある経験世界のことゆえです。

 13. ということは このような経験的で相対的な人間真実とはちがった絶対なる真理の世界が 想定されていることになります。それが 神における三位一体です。そこでは 時間差がなく つねに一体性が成り立っているという想定になります。


 14. 神をいちおうの説明として三つの位格に区別していますが さらに――これは人間が推理し考えることなのですが―― けっきょくは 絶対・無限・不可変性・永遠常住・遍在性などなどがその特性として帰結されてくると思われます。そのように 三つの位格の一体性は 時間差を持つということはあり得ないとなります。



 15. 子の父なる神は 父の子なる神とひとしく また父と子の両者から発出する聖霊なる神ともひとしい。
 父の子なる神は 子の父なる神とひとしく また聖霊なる神ともひとしい。
 聖霊なる神は 父なる神とも子なる神ともそれぞれひとしい。
 このように三つの位格が一体であるというのは さらには 三位一体なる神の全体が 個々の神とそれぞれひとしく 個々の神はそれぞれが 全体なる三位一体なる神とひとしい。となります。

 16. 《無限》は 三つに割っても(三等分しても) それぞれの商が やはり無限であり全体である。というわけです。





 17. 人間の意志行為は 一般によいこともあれば わるいこともあり また良くも悪くもないこと(クルマが右を走るか左をかなど)もあります。思いやりや愛情もあれば いぢわるや憎悪もあります。これらを正負の愛ととらえてみるならば この意志にたとえられる聖霊なる神は まさに《愛》とよぶのがふさわしい。――神の愛と人間の愛とは別だというのみになると思うからです。

 18. 精神が精神する――わたしがわたしするときの意識のその自乗過程――というハタラキである知解は まさに記憶の倉庫から知識や情報を取り出すような能力行為です。つまり 《ことば》と言ってもよいでしょうし 《ロゴス》と呼んでもかまわないでしょう。

 19. 神の子キリストは 父なる神の――すでに意志であり聖霊でもあるその――心の内容を 父の自乗の過程を経てのように 取り出して来て知る。そしてその内容は 父の心と子の心とで一致している。こういうかたちだと捉えられ また説明されています。



 
 20. 一般にこの神は 人間には分からない・つまり分かるか分からないかが分からないゆえ ナゾのなにものかであり それゆえ正体が分からないからには《霊》とも呼ばれます。幽霊ではないかというわけです。――もともと想定から出発しているからには 分からないづくしです。

 21. 《たましい》というのは 一般にこの神なる霊を受け容れた人間の心のことを言います。神を《考える》でもなく《感じる》でもなく それらとは次元の違った内容としての《信じる》ことのゆえです。

 22. もっとも 言葉を表現の問題であらそわないとすれば 霊と魂とは ほとんど同じであるようにも使われるものと思われます。たとえば

   ・ プシュケー・トゥー・コスムー(宇宙の霊魂)
   ・ アニマ・ムンディ(世界の霊魂)

 あるいは ルーアハやプネウマまたアートマンなどが当てられ これらの言葉はいづれも《息・風》の意味の語から来ているそうです。
 23. 言いかえると ナゾの何ものかについては ただ仮りに代理として表現しているに過ぎないものです。《補助線》です。つまり《本体》は もともと分からないわけです。本体を指し示している補助線として 霊や魂といった言葉が用いられます。ほとんど単なるシルシだと捉えたほうが 実際に即しているかと思われます。

 
 24. ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ・言葉というのは、魂とは違うのでしょうか?
 もちろん、神の本質を分有する人間の魂と、神と本質を同じくするイエスの魂とでは大きく異なるでしょうが……。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 《本質》というのは 《存在》とも言いかえられ けっきょくは神にかんしては 霊のことです。(何の説明にもなっていませんが)。
 神なる聖霊は すでにひとの自然本性にやどると言われます。この聖霊が或る日或る時わが心の窓をノックする。そのノックにこたえてその霊を受け容れる。(ということは 《受け容れる》という行為だけは 経験行為です。相手は何であるかは分かりません)。そのわが心は たましいであるとも 神の霊がやどる神殿であるとも 物語として説明されます。

 25. このことは 
 ★ 神の本質を分有する人間の魂
 ☆ と呼ばれ それは
 ★ 神と本質を同じくするイエスの魂とでは大きく異なるでしょう
 ☆ と言われます。イエスの場合は 《ことばが そのまま 肉(身と心のこと)となった》。われわれ人間の場合は 《ことば》の一端が軽くわがほほを触れるといったところでしょうか。

 26. なぜイエスはキリストなのか? なぜ《神の子である言葉が そのまま人間の姿となった》のか?
 これは 分かりません。そういうドグマです。三位一体という仮りの理論であるに過ぎません。

 27. 分かることは そうでないと われわれ人間は 神のことをただ単なる霊という言葉で指し示しているだけではないかと がっかりする。
 つまり 神ならその十字架の上から降りて来いと言われて ほんとうに降りて行ったなら それは あぁ神だから出来ることだ 奇蹟などはあってもよいが 阿呆らしいと言って イエスの物語は終わってしまう。
 けれども イエスがキリストではなくただ人間イエスだけであったとしたら あぁ 磔になるまでよくぞ頑張った よくやった・・・と言って もうそれでおしまいとなってしまう。

 神は神で勝手にやってくれと言っておしまいとなったり 人間の限界をむろんもともとわれわれだって知っとるわいと言い失望をふくらましておしまいとなったりする。
 よって イエスは神の子キリストであるという話に成らざるを得ない。神の子キリストは 人間に成ったという話――つまり 虚構――に成らざるを得ない。

 28. こうして イエスに十字架上に去って行かれてしまった弟子たちは 自分たちがイエスによって得たその真実として おおいなる物語を編んだ。

  人間の現実 = 事実 + 真実〔事実の写し + ウソ(想像・虚構)〕

 だというわけです。

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