caguirofie

哲学いろいろ

(4)『音楽の起源と規則』論の論 (つづき)

【Q:エクシメーノ:音楽美と数学(音程比)とは無関係か】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8989681.html

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 どういう順序で論じたら明晰な回答になるかわからず、なかなかとりかかれないでいました。
 とりあえず今回の問いは、自然の音響現象に由来する数と音楽に関係があるか、その数が音楽美の根拠となり得るのか、という単純なものだということなので、なるべく逸脱しないようにしたいと思っているのですが、エクシメーノが言っていることはかなり込み入った問題なので、そう簡単にはいかなそうです。


 まずエクシメーノは、音楽で使われる音程が自然倍音律、純正律から導かれないことを理由に数と音楽の関係を否定するわけですが、「精神と音楽の交響」に引用された部分だけでは何のことか理解できないところがあります。この論文はちょっと不十分(あるいは不親切)なのではないかと思いました。原文を参照している著者自身ははわかっているのかもしれませんが、これだけ読まされる方は難儀します。


 たとえば、「音楽に不可欠な不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」という点ですが、引き出せるはずなのに何のことを言っているのか、と混乱させられました。平均律で調律されたピアノの場合は別として、音高が変えられる弦楽器や管楽器の組み合わせで不協和音程を演奏する場合、純正律でイントネーションを調節できるのですが、なぜ「引き出し得ない」としているのか、そこがはっきりわかりませんでした。インターネット・アーカイヴにエクシメーノのこの章だけのドイツ語訳が出ていたのですが、それを少しだけ読み、手元にある「調律法入門」(ジョン・メッフェン著・音楽之友社)や英語、ドイツ語のサイトを見て比較したところ、ハーモニーとしての純正律、つまり縦方向の響きの調和を得るために適用される自然倍音列上の比率と、「純正律音階」、つまり横方向の音の並びを決めるときの倍音の用い方が異なるためであることがわかりました。


 この「純正律音階」というのは、ピタゴラスの音階をガリレイの父親が修正したものらしいのですが、この音階での各音の高さは、一つの音に含まれる倍音列上の比率とは一致しないところがあります。

 たとえば「ド」と「レ」の間隔ですが、基音を「ド」とした場合、「レ」の高さは、その倍音列上に現れる「レ」をもとに計算すると、10/9になります。「ド」と「レ」を同時に鳴らす場合は、この比率で音程を取れば調和します。ところが、「純正律音階」上の「レ」の音は、10/9ではなく、9/8になっています。エクシメーノが「不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」と言っているのはこういうこと、つまり「純正律音階」の「レ」はなぜ10/9を採用しないか(できないか)、というようなことを言っているのではないかと推測しています。





 「純正律音階」の構成音の高さは、まず協和音程から先に決めていきます。
 調律ではセントという単位を使うのが一般的で、1オクターヴは1200セントです。


 「平均律」の場合は、各音の間隔を全部同じに分割するので、半音の間隔は100セント、全音の間隔は200セントになります。「ド」と「ソ」の「完全5度」の音程(ド・レ・ミ・ファ・ソと数えるので5度)は700セント(全音全音+半音+全音=200+200+100+200=700)になります。

 
 純正律の場合、「ド」の音の上に発生する倍音列に含まれる「ソ」の音の振動数比率は2/3ですが、これだと「ド」と「ソ」の間隔は702セントになり、平均律より少し広くなります。702セントの間隔で「ド」と「ソ」を同時に鳴らした場合、響きは純正になり、うなりは生じません。
 鍵盤楽器以外の楽器による演奏では、このイントネーションは使用できます。
 「純正律音階」を作るときも、「ソ」はこの702セントを採用します。


 次に「ファ」の高さを決めるのですが、これは「ファ」と、その上の「ド」の間隔が、下の「ド」と「ソ」の間隔と同じ「完全5度」なので、上の「ド」から逆算して、1200−702=498セントにします。平均律上の「ファ」、500セントより少し低くなります。


 「ミ」の高さは、「ド」の倍音列上の4/5をそのまま採用します。これは、平均律の場合の「ミ」の高さである400セントよりかなり低い386セントになります。


 問題は「レ」の高さです。「ド―レ」および「レ―ミ」の音程はどちらも全音(長2度)なのですが、ここまで純正律で音を決めた結果、「ド」から「ミ」までの386セントの間に全音を2つ入れなければならないということになります。倍音列上の比率では、全音は10/9、182セントになります。この幅で2つの全音を並べると「ミ」の音は364セントになってしまいます。それで、「ド」と「レ」の方の全音を、ピタゴラス音律、つまり5度を2つ積み重ねてできる9度、オクターヴ+2度(全音)から割り出した204セントとしたのです。
 「レ」と「ミ」の間隔も同じ全音なのですが、こちらは倍音律上の比率10/9に当たる182セントになります。これで、204+182=386となり、「ミ」の高さが合います。
 しかしこれにより、平均律では常に同じ幅になる「全音(長2度)」に、「大全音」(204セント)と「小全音」(182セント)の2種類ができることになります。
 ちなみに、「ファ」と「ソ」の間隔も全音ですが、これは、それぞれの音高を倍音律に合わせた結果、702−498=204セントになり、やはり「大全音」です。



 エクシメーノが「不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」と言っているのは、こういうことではないかと推測しているのですが、まだ不明なところがあります。それは、「また、音楽にとって非常に重要な二つの音程である長短六度の比( 3/5と5/8 )を得るために、なぜこの法則を適用し得ないのか」という主張です。確認してみたのですが、「純正律音階」に現れる長6度は5/3、884セントにちゃんとなっています。ですから、この点については何のことを言っているのかまだ理解できずにいます。




 さて、この「純正律音階」というのは、一つの音の倍音列から導き出したものなので、そのもとになった音を基礎とする音階による音楽だけしか純正に響きません。
 「ド」を基本にした純正律で調律した鍵盤楽器だと、ハ長調の音階だけしか純正にならないのです。
 ハ長調でさえも、部分的には純正ではありません。


 例えば「レ―ラ」の間隔は「ド―ソ」と同じ「完全5度」なのですが、「純正律音階」上の「レ」は204セント、「ラ」は884セントなので、その間隔は680セントになり、純正な「完全5度」702セントよりも狭くなってしまいます。この「レ―ラ」の関係についても、エクシメーノ論文のドイツ語訳の中に書いてありましたので、こういうことを指摘しているのだと思います。

 こう考えてくると、エクシメーノが数と音楽の関係を否定する根拠は、あくまでも音高が固定されている鍵盤楽器にだけあるような気がするのです。
 一つの音をもとに固定した純正律音階では、矛盾が出て当然です。
 これは、各弦の高さを固定しなければいけない鍵盤楽器に限った不都合なので、ほかの場合は純正律に基づく縦の響きを作ることは可能なわけですし、なぜこれだけで数と音楽の関係を否定するのか、飛躍のし過ぎのような気がします。




 ではもう一つの問題、「平均律」はどうかという話です。
 「平均律」は、どの高さの音階にもうまく適応できるように、各音の幅を人工的に均等割りしたものです。その結果、純正な響きは(オクターヴ以外には)全くなくなります。しかし、それを私たちは平気で使っています。それでエクシメーノはこう言うわけです。

   「もし数学的な音程比がそれほど重要であるのなら、何故に平均律によって修正された音階を
   用いなければならないのか。もしそうした比が本質的なものであるのなら、平均律調弦され
   た楽器の音から快感を得ることはできないだろう。」


 しかし、こういう見方もまた、科学者の過剰な潔癖さという感じがします。厳格に数学的に言えば誤差はありますが、人間の耳で聞いたときにその誤差がどれほどの意味を持つか、あるいは、その誤差があることで音はどのように聞こえるのか、という実際の聴覚的印象が問題になってきます。


 実際の音楽中の「うなり」というのは、ある程度訓練された聴覚には容易に聞き取れます。しかし、それはまず知識として「うなり」というものがあること、それはこういう風に聞こえる、ということを理解し、意識を集中して聞く訓練をすることで聞き取れるようになるレヴェルの話です。プロの音楽家にはそういう耳の良さが要求されますが、一般の聴衆は「うなり」などには気が付きません。


 というよりも、「うなり」というのは、たった2つの音が同時に演奏された場合に生じる場合は周期がはっきり認識できるので把握しやすいですが、実際の音楽では同時に3つ、4つ、5つという数の音が同時に鳴ります。そうなると、各音の間に別々の周期で「うなり」が現れ、もはや把握できなくなります。
 基本的には、一般の聴衆がこの「うなり」を無意識的に聞いた場合、「音が狂っている」とか「純正でない」とか「美しくない」などのようには聞かず、ただ「音色が少し違って聞こえる」だけだと思います。
 ですから、平均律上の「ドミソ」の和音が、厳密に純正律から見れば「濁っているはず」であるにもかかわらず「それなりに美しく」感じられるのは、自然の倍音列、数学的関係そのものではないとしても「それに近い」からであり、純正律平均律の純粋に数学的な誤差だけを見て、いきなり数学と音楽は無関係、という結論を導くのは少し早すぎるともいえます。
(続きます)

(続き)

 ここでちょっと、実際にどう聞こえるかを試してみましょう。
 先ほど、音楽中の「うなり」は意識して聞かないと気が付かないと言いましたが、楽器の音ではなく純音を使い、同音を少しずつずらしていった場合に生じるうなりは、誰でもすぐに聞き取れます。
 まず下の動画ですが、ドイツのハイデルベルク大学のものです。冒頭から聞こえる音は、440ヘルツの「ラ」の音です。オーケストラなどで最初に楽器のチューニングをするときの音です。
 動画開始から44秒の個所で、2つ目のスピーカーを持ってきますが、これは440ヘルツより低い音です(具体的に何ヘルツかは言っていません)。その途端、「ワンワンワン」という「うなり」が始まります。グラフで視覚的にもわかるので、すぐに聞きとれるはずです。動画開始から1分11秒の個所で、右側のスピーカーから出ている音の高さを左側のスピーカーの音に近づけていきます。「うなり」がだんだん少なくなっていくのがわかるでしょう。


https://www.youtube.com/watch?v=vWg6H7G8HBM

 もう一つ別の動画ですが、同時に鳴る二つの音の振動数の差が1ヘルツだと、1秒あたり1回の「うなり」が聞こえ、2ヘルツなら2回、3ヘルツなら3回、というように90ヘルツまで聞くことができます。


https://www.youtube.com/watch?v=6OnW-Cw2x48


 以上二つは、同音をずらしていっているのでわかりやすいですが、和音になると難しくなります。
 下の動画では、平均律純正律の聞き比べをやっています。もう一つ、平均律純正律の中間のような「キルンベルガー」という音律も取り上げていますが、これはとりあえず気になさらないで飛ばしてください。画面に説明が出るので、解説は書きません。「ド・ミ・ソ・ド」の4つの音の和音を、それぞれの音律で聞き比べます。違いが判るでしょうか。「うなり」は、前の2つの動画のように簡単には聞き取れません。


https://www.youtube.com/watch?v=YQPtX6jo_yI


 下の動画では、平均律で和音を鳴らし、純正律に少しずつ修正していきます。「うなり」が聞き取れなくても、響きの変化は少しわかると思います。


https://www.youtube.com/watch?v=oI5xf6dub8E


 どうでしょうか。注意して聞いていけば、差がだんだんわかるようになるとは思いますが、「この程度?」というのが正直な感想ではないでしょうか。


 純正律は、音楽の一瞬だけを切り取って、縦の響きの調和度を高めるためには重要な考え方ですが、横方向の変化が加わると、あちこちで矛盾が生じます。
 音程の問題は非常に複雑です。オーケストラや室内楽では、一つの和音が比較的長くなりっぱなしになる箇所では、注意深く純正律に近づけた方が響きはきれいです。
 しかし、音楽の中には数えきれないほどの違う種類の和音が次から次へと連なるわけで、それらをみな純正に合わせることは不可能です。
 それに、近代、現代の音楽では、和音一つ一つが複雑で、同時に5つ、6つ、7つの音が鳴りますから、そういう意味でも不可能です。
 一つの和音が鳴る時間が短ければ「うなり」も感じられなくなります。近似値で十分、ということがほとんどでしょう。


 純正律に意味がないわけでもなく、また、平均律でも多少音色が違うと感じる程度なので、和音の美しさというのは、「一応」自然の理に適っているといえます。ただ、これはあくまでも響きの美しさ、音響美にすぎません。
 音響美=音楽美ではありませんから、エクシメーノが自身の考察から数と音楽の関係を否定し、数学的秩序は音楽美とは関係がないという結論を出し、いきなり音楽起源論に飛んだのはおかしな話です。


 ハーモニーに限って言うならば、音楽美の原因になっているのは、それぞれの和音の響きが音響的に純正であるかどうかではなく、さまざまな種類の和音の使い分け、性格の対比という動的な変化による効果で聴衆の感情に訴えるからです。
 ほかにも、メロディーの美しさや、リズムの快感もあるわけですが、これらは純正律という音響的秩序とは別のことです。
 メロディーやリズムの快感を、自然界の何かと関連付けることは難しいと思います。
 リズムに関しては、等間隔で刻まれるビートが快感を覚えさせるということはあり、心臓の鼓動のように、自然の周期的なリズムと結びつけて考えられないこともありませんが、等間隔の拍節に寄らない音楽というのもたくさんあるわけですし、わざとそういう拍節を解体することで、瞑想的、神秘的な美が生まれることだってあります。




 少し視点を変えてみると、音楽の美しさを考えるとき、作品そのものの美しさだけだけでなく、演奏の美しさというものもあると思います。
 美しくない演奏はどういうものか、という逆方向からの発想で考えると、やはり音程が狂っているのは興ざめですし、下手に聞こえます。
 そう考えると、音響的に正しい響きがやはりある程度は影響すると言えるでしょう。


 音楽美全体を自然の音響の数学的秩序に関連づけることは無理ですが、その一部ではあると言えるかもしれません。しかし、これもちょっと条件付きです。
 今言ったことは西洋音楽にのみ有効なことです。
 非西洋のいろいろな民族の音楽を聞いていくと、純正律などという理論からは考えられないような音階を使っているものがあります。
 ガムラン音楽では、その「うなり」が重要だと言いますが、ほかにもいくらでもあります。
 日本の伝統音楽もそうで、たとえば雅楽篳篥と竜笛がオクターヴ離れた音域で同じ旋律を吹くとき、両者の間で音高が大きくずれ、衝突するところがあります。この衝突を「音色」として楽しんだのではないかと思います。
 能で使う笛、能管の調律も、西洋的な感覚から言ったら、めちゃくちゃに狂っているといえます。


 美というのは多様であり、美的価値観も相対的なものです。
 ある民族にとって美しくないものに、ほかの民族が美を見い出すという例はいくらでもあります。
 そういう意味では、「音楽美学」というのは、音楽の数だけ、極論すると音楽作品の数だけ存在するとも言えます。
 この世のすべての音楽を包括的に見て「音楽美とは何か」という問いは、想像を絶する難題です。


 その他、参考URL

 音程(ドイツ語)
 https://de.wikipedia.org/wiki/Intervall_(Musik)#Tabelle_von_Intervallen

 純正律の矛盾と平均律
 http://eatnaan.seesaa.net/article/380379991.html

 純正律音階(英語)
 http://ray.tomes.biz/alex.htm