caguirofie

哲学いろいろ

予知と悪魔

キリスト教の予定説に何故「悪魔」の概念が必要なのですか。


予定説によれば、たとえ善行したとしても、それによって救いがもたらされるわけではありませんよね。

誰に迷惑をかけるでもなく、真面目に働き家族を養っていたとしても、結果として家族が残酷な犯罪に巻き込まれ、辱められ、皆殺しにされ、その家族も自分も魂の救済も得られずに地獄に行く場合もあると考えるのですよね。

そういう人間の側の論理でみれば徹底して理不尽で無慈悲な存在が神というものであると考えるのが予定説だと理解しているのですが、であるならば、「悪魔」は別に必要ありませんよね。

何故、予定説を採用した場合でも、「悪魔」の概念が必要なのでしょうか。

《「悪魔」は別に必要ありませんよね。》

とわたくしも思いました。

(1)予定説を確認します。 

これは 人間が因果応報から自由であるという意味だと採ります。善因がかならず善果をもたらすとは限らず 悪因ゆえに必ず悪果になるとも限らないと。

悪因を持った人間が ある日あたかもエポケーによってのごとく その縁起というのでしょうか 因果の系列が断ち切られ 善果のほうへ向き直り さらにその軌道を歩むことになる。

その事件は 当の人間の意志を超えて 何者かによって予知されていたと解釈することだと考えます。

ということは 原因があるなら 実は人間の意志がはたらいていたと考えられる 考えられると同時に しかも その因果関係には左右されなかったという意味で 何者かの意志(予知)のほうが優っていたという内容です。

いまの例は 幸福な結末のほうで 質問に例示されたように 悪い結末の場合もあるようです。

なんであの人に こんな悪い事態が起こるのかという場合。



(2)悪魔とは何か。これも確認する必要があると思います。

わたしの理解する悪魔は みづからの意志を殺した存在です。存在をみづから死なしめた存在です。

それでも存在であるというのは 他人についてもその意志を発動させないようにする意志だけは残しているというものです。存在であろうとする意志をことごとく死滅させようとする意志であり 精神です。すべてを否定する精神であり その否定するという作用だけは保持したかたちにおいて精神です。

さらに言いかえると 死そのものです。

みづからの意志を死なしめることは とうぜん 死です。これは 第一の死です。この第一の死は しかしながら 人間という果敢ない有限の知恵の存在がおこなったことですので この精神の自殺という意志じたいが 有限のものだったとも考えられます。この否定のさらに否定がありうるかも知れません。死が死ぬかも知れません。

否定の否定は そのまま 再生と言いますか 生の肯定になりますが それにもかかわらず そもそもこの生という事じたいを否定する精神であり それを固持するのが 悪魔でした。そこで 第一の死が とうとう 固まります。死が死なないという状態になります。これを 第二の死というのだと思います。永遠の死です。

しかも まだ 世界中の意志という意志 生という生を死なしめようとするはたらきとして あたかもその存在が 続きます。

別の見方では 単純に 悪魔は 死がこわかったのです。どうしようもなく恐かった。何がどうあっても 死だけは避けたいとして その予行演習のごとく 精神だけ死なしめておこうとしたとも考えられます。これを精神がおこなっているのです。

(3)これら予定説と悪魔とのかかわりや如何に。

よくわかりません。このご質問のように考えたことはなかったものですから 自信はないのですが 特別のかかわりはないように思えるのですが。 

ただし 善行をしているにせよ 悪行をしているにせよ その時々において 悪魔のことが 悪魔として認識していなくとも 脳裡にちらつくということはあるのではないかと考えます。誘われるか はねつけるかは また それぞれだと思いますが。

このとき 誘われるか誘われないか どちらになるかを予知されていたと言うとすれば どうなるでしょう? でも悪魔が介入したから 予知がどうこうなったとも言う必要はないように思われます。その限りで 悪魔は 必要がないと見えるのですが。(自信はありません。参考までにです)。