麦と毒麦
【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html
この嘗ての質問でやり取りしていることがらは 今回の質問にとってたたき台のような内容を持つかと思います。
いまの問い求めは 個人の具体的な経験が大きく色濃くかかわっていると思うのですが 出来るだけ一般的な捉え方をした場合の見方考え方を なるべくたたき台になるように随意に拾ってみます。
○ (【Q:麦と毒麦・・・】No.14お礼欄) 1. 悪魔(* 仮象ですが)に人間が素手で立ち向かっても勝ち目はない。なぜなら 相手は空気のような存在なのだから。
○ (同上No.13お礼欄) 悪魔とは 神のごとくあらんとする限りにおいて(* すなわちいかなるもの下にも立つまいと決めた《精神》(?)である限りで) その善の要素も悪の要素も 人に対して見せるそのわざとしては 自由自在にあやつり得て如何ようにも見せることができるまぼろしである。
○ (同上同箇所) 〔悪魔は〕おそらく《存在》ではないでしょう。存在ではなくなるのだと考えます。空気のような存在です。わづかにありとあらゆる人間存在をそのたましいにかんして凹ませ沈ませ 自分と同じように無となるようにいざなう。たましいの死者が出ればよろこぶ。そんな空中の権能だと思います。
○ (No.9お礼欄) ▲(精確ではありませんが) 悪魔は歳を取っていて 老獪である。こちらが押していると思っていても じつは押されているということがある。(たぶんM.ヱーバーの言葉)
○ (No.8お礼欄) 〜〜〜〜〜〜
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わたしの理解する悪魔は みづからの意志を殺した存在です。存在をみづから死なしめた存在です。
(* この《存在》は 仮象・現象として採ってください。まぼろしでありながら 《存在》をよそおうことができる。たしかに 何がしかのチカラがある。それはあたかも ふつうの人間がかつてウソ・イツワリを欲しいままにしたことの反動が 世代を経て歴史を経てまだなお名残りとしてただよっているかのごとくに。ルサンチマンと捉えこれを貶め蔑むほどに このまぼろしのアクマ・シンドロームなる反動はさらになお息の長い延長戦のごとくつづくものなのだろうか)。
それでも存在であるというのは 他人についてもその意志を発動させないようにする意志だけは残しているというものです。存在であろうとする意志をことごとく死滅させようとする意志であり 精神です。すべてを否定する精神であり その否定するという作用だけは保持したかたちにおいて精神です。
さらに言いかえると 死そのものです。
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○ (No.4お礼欄) 〜〜〜〜〜
〔* 毒麦としての〕類型である《ひとを次から次へと貶めようとするたかぶりのたましい》は 〔* 言わば親分としての〕《悪魔》の類型なるたましいにかしづくその家来としての《悪鬼》と呼ぶとよいかも知れません。
《悪魔》は デビル=ディアーブル(サタン)であり 《悪鬼》はデーモンです。
(* 文章を少し修正しました)。
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○ (No.6お礼欄) 〜〜〜〜〜
違いは 悪魔はすでに死んでいる。もしくは その生を死から始めている。〔* という想定である〕。
悪鬼らは その否定の精神に拠ろうとするけれど まだふつうに生きている部分をも持ち合わせている。〔* 悪魔の決してしない反省をおこなうことができる〕。
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○ (No.2お礼欄) ▲ でも驚くにはあたりません。悪魔も光の天使をよそおうのです。(パウロ)