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哲学いろいろ

ニーチェ/渡邊二郎

§ 4
● (渡邊二郎:補論) 〜〜〜〜
 《生きる》とは 《成長のための 持続のための 諸力の蓄積のための 力のための本能( Instinkt fuer Wachstum, fuer Haeufung von Kaeften, fuer Macht )》のほかならないのだから 《弱者たちと出来損ないの者たち( die Schwachen und Missrathmen )》は 《亡びるべし( zu Grunde gehn sollen )》と主張する過激な『反キリスト者』の主張が すでにここにほの見えていることは明らかである(『反キリスト者』2・6)。
 ( ibid. pp.306-307 )
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 ここで問題になるのは 《出来損ない》という表現はダメであることを除けば その《過激さ》にあるのではなく そうではなく 《生きる》ことの規定が何とも頼りないことです。
 これでは 人が生きるのは 何が何でもあたかも無明の中で《根本的な生存欲》に突き動かされてのようにその煩悩よろしく《何かを 自分の能力の発揮をもふくめてですが チカラによって獲得して行かなければならない》というニュアンスがあるからです。

 だったらその《チカラの崇拝者たち》が どうして《福祉》ということを主張するにようになったのか?
 共生という主題について考えるところがあって そこに人間性を見たからではないのか?
 それとも 《出来損ない》たちに対してほどこしをあたえているということなのであろうか?

 生きることが ともに生きることだという定義に帰着するという考えがあってではないのか?
 《チカラの錯綜する相互作用としての社会力学》だけが 人間の生としての社会生活なのではないという原点があるのではないか?
 どうして《本能》だけで生きて行くというのか? どうしてそんな《畜群》としての生活を《人間の生》の定義とするのか?
 ここに問題があると言わねばならないと考えます。


 § 6
 ● (渡邊二郎:補論) 〜〜〜〜
 ニーチェを読む資格のある人 あるいは読んで面白いと思う人は 必ずや何らかの過去を持った人 あるいは ニーチェが『この人を見よ』のなかで繰り返し言及したように あまりにも 《あらゆる種類の反自然( jede Art Widernatur )》的な生き方である(『この人を見よ』《良い本》5)理想主義を採ったがために やがて現実に仕返しをされて 辛酸を嘗め 苦悩を味わい やがて自己の現実に目覚めるに至った人であるように思う。
 そうした人にとっては ニーチェは 《生きる勇気》を与え 苦悩からの解放の道を示唆する 興味深い先駆者と映ずるはずである。
 ( pp.310-311 )
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 (あ) 《理想主義》が一概にいけないとは言えない。それゆえに現実におけるタテマエとホンネを知ることが出来 その使い分けを残念ながらおこなうに過ぎない。あるいはまた 現実主義だから その人には理想がないとは言えない。
 
 (い) 理想をかかげる人が その理想の実現について《ときを俟つ》という姿勢を採ったなら それはもはや現実における挫折だと見るのもおかしい。

 (う) つまりニーチェの提供した《なぐさめ》は ただただ理想をかかげることに敗れ 心が傷ついたというような単純な人間類型にとってチカラがある。と言っているに過ぎない。《辛酸を嘗めた》などということを 安易に言うべきではなかろう。それでは それこそ《奴隷の道徳》に成り下がるだけではないか。

 (え) 《生きる勇気》は もともと人間にある。この原点から出発するのでなければ 何をやっても何を言っても 有志と挫折となぐさめという方程式だけの問題になる。
 
 (お) 《苦悩からの解放》なる道は 初めの理想を保ち(見直すべきは見直し) うんうんとおのれを押して社会の中にあって社会(他者)にはたらきかけつづけて行くことにある。庶民がそうしていないと見ること自体がまちがいである。そういう人にとっては 《勇気》などは 糞くらえなのである。

 (か) 《君主の道徳》がばかばかしいのは言うまでもなく それだけではなく 負け組の人たちについてそれは《奴隷の道徳》だとしか見ることの出来ない目 それこそが くだらないドンキホーテなのだ。

 (き) 《反自然》の生き方であったなら それは 修正すればよいだけである。そこからの挫折を重要視し そうすることでわざわざ《生きる勇気》という一項目が持ち出されて来る。ことになる。余計である。《超人》が余分なのとまったく同じパタンである。

 (く) 何らかの《過激な》キャッチフレーズを打ち出さないと 注目されないとでも思っている節がある。《小さい》。