caguirofie

哲学いろいろ

ディオニュソス的なもの

 ▲ (ニーチェディオニュソス的なもの) 〜〜〜〜〜
 ディオニュソス的なものは 陶酔との類比によって われわれにはさらに最も分かりやすいものとなる。

 あらゆる原始人は原始民族が讃歌の中で語っている麻酔作用をもつ飲み物の影響を受けたときとか あるいはまた 春の訪れによって自然全体が隅々まで喜びにあふれた様相を力強く示すときなどに ディオニュソス的興奮はめざめてきて この興奮が高まると 主観的なものは完全な自己忘却へと消え去ってゆく。

 ドイツ中世においても 実際 ディオニュソス的な力に等しく囚われた群衆が次第に数を増して 歌いながら 踊りながら 村から村へと なだれを打って進んだのだった。聖ヨハネ祭や聖ファイト祭に乱舞する人たちのうちに われわれは ギリシャ人たちのバッカス祭合唱隊の再来を認めるのである。この合唱隊は 遥か遠く小アジアに始まる前史を有し さらにさかのぼれば バビロンや ディオニュソス秘祭で乱舞するサカイエンにまでいたるのである。〔・・・〕

 ディオニュソス的なものの魔力のもとでは 人間と人間との間の紐帯が再び結び合わされるばかりではない。遠ざけられ 敵視され もしくは抑えつけられた自然さえもが 再び その失われた息子である人間と 和解の祭を祝うのである。大地は 自ら進んでその贈り物を提供し 岩山や荒野の猛獣たちも 平和裡に近づいてくる。ディオニュソスの車は 草花や花輪で埋められ その軛のもとで 豹や虎が歩む。

 ベートーベンの《歓喜》の頌歌を 一幅の絵に変えてみるがよい。そして 何百万の人々が戦(おのの)きにみちて塵に身をうづめてひれ伏すさまを たじろぐことなく想像してみるがよい。そうすれば ディオニュソス的なものが何であるかに近づいてゆけるのである。

 今や 奴隷は自由人となり 困苦 恣意 あるいは《厚かましい時流》が 人間の間に築きあげた あらゆるこわばった 敵対的な限定は 今や粉砕される。今や 世界調和の福音に接して 各人がみな その隣人と 結合し和解し溶け合っていると感じるばかりではなく 一つとなったようにさえ感じるので それはあたかも マーヤのヱ゛−ルが引き裂かれてしまって 今やわづかにきれぎれの小片となって 秘密にみちた根源的一者の前でふわふわ飛び回っているさまに似ている。

 歌いながら また舞踏しながら 人間はより高次の共同体の一員となって現われる。つまり彼は 歩くことも話すことも忘れてしまい 舞踏しながら空中に飛翔してゆこうとするのである。彼の身振りからは 魅了された様子がうかがえる。今や動物が語り 大地が乳と蜜とを与えるように 人間のうちからもまた 超自然的なものが響いてくる。

 つまり人間は自分を神と感じ 人間自身が今や 神々のさまようのをかつて夢の中で見たのと同じように 恍惚とまた高らかにさまようのである。人間はもはや芸術家ではない。彼は芸術作品となっている。つまり 全自然の芸術力が 根源的一者の最高の歓喜にみちた満足を成就して ここに陶酔の戦慄のもとであらわになってきているのである。
 (『悲劇の誕生』1 渡邊二郎編『ニーチェ・コレクション』 pp.207-208 )
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 1. 自然に帰れというのと原始心性に戻れというのとは そのあいだに雲泥の差がある。

 2. 人間の紐帯は なるほど身内の感情や愛情を土壌として成るものだが その親族の感情に縛りつけられるものではない。

 3. 《まつり》のときの感情の高揚は ふつう一般に見られるものだ。いわゆる日常性(ケ)から離れてのハレのときの気持ちである。だから 何が何でもそれはディオニュソスなのだと言っても始まらない。ふつうに非日常性なる気持ちである。またそれは アポロンの中にも見い出される要素である。

 4. もしそのハレの日にあること・ハレの舞台に立つことが 人びとをしてさらにそのきづなを強くし 社会共同体としての生活つまり共生を安定して営ませしめるとするのならば それは《陶酔》にのめり込むことによってではなく また 互いに対等な自由人たることにおいてであるのだから奴隷に戻ることによってではない。

 5. 《歓喜》の描写は ただただ聖書の二番煎じであるに過ぎない。その猿まねぶりを恥ぢるべきである。

ニーチェソクラテス

――神崎繁:『ニーチェ どうして同情してはいけないのか』2002 NHK出版)

 (前文を省略)
 だが 彼は終始《悲劇の起源》を問題としたのではない。というのも 冒頭で

   《芸術は 〈アポロン的なもの〉と〈ディオニュソス的なもの〉の二重性と結びついて進展するのだということを 単に論理的に理解するだけでなく 直観によって直接的な手応えをうることは 美的な学にとって得るところが多いであろう――ちょうど生殖がたえずいがみあいながらも 周期的に和合する男女両性に依拠しているのと同様》

 と 生殖と出産の(プラトンの『饗宴』にも通じる)イメージで語られているように われわれ自身が経験し 体現できる感覚的状態として提示されているのである。ここで《美的 aesthetisch 》というのは 同時にまた《感覚的》という意味であろう。( pp.35-36 )

 (・・・中略・・・)

 つまり アッティカ悲劇は 基本的に《距離の感覚》である視角にもとづいて 対象と同化することなく 観察的な眼で その形象を自分の外に見る《アポロン的なもの》と 基本的に《没距離の感覚》である聴覚にもとづいて 対象と同化し 没入的な態度で その形象を自分の内に体験する《ディオニュソス的なもの》の拮抗によって 辛うじて成り立っているものである。

 それゆえ このような悲劇体験 つまり一般に芸術体験を行なおうとする者は つねに同様の内容を現に体験しているのでなければならないと ニーチェは主張しているのである。ニーチェが ディオニュソス神そのものについては比較的語ること少なく もっぱら《ディオニュソス的なもの》についてのみ語るのは このためである。( p.38 )


 (・・・大幅に中略・・)

 § ソクラテスディオニュソス的二重性

 ニーチェは二十歳の頃 《プラトンの『饗宴』におけるアルキビアデスの話が残りの話に対してもつ関係》という 長い題の短い論文を書いている。
 そこでは 《ソクラテスとアルキビアデスとの対決を通して ついにあのエロースそのもののもつダイモン的な二重の本性が 直接その姿を露呈する――つまり 神的なものと人間的なもの 精神的なものと感性的なものをうちに含んだものとして》と述べているが シレーノスのような(言うまでもなく シレーノスはディオニュソスの従者である)怪異な容貌のソクラテスの胸のうちには 《黄金の像》が隠されているというアルキビアデスの話を ニーチェは極めて重大なこととして見なしているのである。

 それは『悲劇の誕生』の第三節においても ミダス王の追手から逃れつつ 頑なに沈黙を守り続けたシレーノスから強いて聞き出したこととは 《人間にとって 生まれ来たらぬことこそ最善のこと だがしかし次善のこととしては 生まれた以上は できるだけ速やかに死に至ることであり これこそ人に可能な最善のこと》(プルタルコス『モラリア2.アポロニオスへの慰めの手紙』27)という言葉であった。

 ここですべてのものを金に変え その罰に耳を驢馬の耳に変えられたという言い伝え(オウィディウス『変身物語』第11巻)をもつミダス王が ディオニュソスの従者であるシレーノスから人間の真実を聞き出す役割を与えられているのは興味深い。

 先の《シレーノスの外見》にもかかわらず 内に《黄金の像》を秘めているという 『饗宴』におけるソクラテスをめぐるアルキビアデスの話は おそらくニーチェにとって この物語と密接に結びついたものとして考えられていたのであろう。『悲劇の誕生』に先立つ草稿《ディオニュソス的世界観》において すでにニーチェはこの物語に触れている。だがいづれにしても そこに描かれているのは ソクラテスディオニュソス性という 『悲劇の誕生』からすれば驚くべき描像である。( pp.45-46 )

 (・・・中略・・・)

 悲劇が本来 高貴な者が自らの落ち度によることなく 不合理な《行き違い(ハマルテーマ)》――しばしばこれは《罪》と誤解されてきた――で没落する物語であるとすれば プラトンの描くソクラテスは 高貴とは言い難い者が 確かな理由で しかも《行き違い》によらず いわば理詰めの死を迎える物語である。

 《死に臨んだソクラテス》と題する『晴れやかな知(悦ばしき知)』の一節(340節)でニーチェは 《ああ クリトンよ アスクレオピオスに雄鶏一羽の借りがある。忘れず返すよう》という『パイドン』でのソクラテスの最期の言葉を 《人生は一個の病気にほかならない!》という意味に解しているが 死を快癒だと考えるこの反悲劇の主人公は まさに『饗宴』の末尾にあるように 喜劇によっても描き得たかもしれない。とすれば ここで《引き籠もり》の少年(ニーチェ)を魅了し 反発させ そして 新しくした者は やはり《神・ディオニュソス》ならぬ 《哲学者・ディオニュソス》 別名ソクラテスその人以外にはないのではないか。( p.48 )
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜