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哲学いろいろ

#2

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§1 この世に留められた霊という不幸 b

2004-12-01 - caguirofie041201よりのつづきです)

言いかえると 狩猟採集生活をおくる人たちのあいだにも 罪を犯すことがあり その罪の制裁があったのだとするならば それとして 《霊がこの世にとめられて天へ行け》ない不幸だということでしょうし この不幸は――その時代にあっても―― 《他の〔特定の〕人間の行くところである地獄を想定すること》と ほぼ同じ内容を 持っています。つまり そのときには 地獄が死後のこととされたとしても 現在(現世)の不幸の自覚 すなわち したがって 初めの天の国の想起を 依然として うながす世界観を受け継いでいるとまでは 見ることができるようです。これは 事後的な一解釈ですが 解釈するとならば そう考えられもします。


《本来すべての人間が行くはづであった天国の世界を特定の人間の行くところとし》ていたことは 狩猟採集人のあいだでも――表現手法の問題を別とするならば―― 同じく当てはまる。もしくは あてはまらないというとき アイヌ人たちは どのように この問題を考えていたのか ここに焦点は集まります。
《地獄・極楽という考え方には ニーチェのいったように 弱者の復讐心が隠されている》(p.202)としますと アイヌ人ないし狩猟採集人のあいだでは 《弱者》がおらず したがってその《復讐心》も なかったということになるでしょうか。このあたりが 焦点の集まるところです。
くどいように繰り返しますと 一方で《霊がこの世にとめられて天へ行けない不幸》 他方で 《地獄の想定》〔によるその不幸の説明と自覚〕 これら二つの考え方は 基本的な内容として どう違うでしょうか。どう違うというのでしょうか。



あとは 《永久に続く回帰運動》という点が――先ほどのニーチェ〔を引き合いに出す梅原氏〕にかかわって―― 問題となります。これを 或る世界観の中に 見るか見ないかです。

農耕生活者の時代になって 地獄が措定されたというとき――あるいは 初めの時代の《不幸》がそう言いかえられたとき―― この不幸は 《従って生まれ変わることができないこと》だと 考えられないようになったのか。
仏教では 依然として この生まれ変わりの要素じたいは 保たれた。逆に その意味では ただの輪廻としてではなく 自分が ある意味で願って 生まれ変わることができるというふうに考えられた。もしくは たとえその願いがかなえられないのだとしても 言ってみれば ふてぶてしくなった。この仏教を措いて考えるとしますと 《キリスト教歴史観》(p.202)があります。《死の世界を人間の我意で汚した》こと《とともに 永久に続く魂の回帰運動を歴史の最後の審判が ある一回きりの終末をもつ動きに変えてしまった》(同上箇所)ところのキリスト教歴史観です。《近代人の基本的な世界観を形成している進歩思想の世界観であ》ります。
ところが――ところが―― わたしには思われるのですが そしてそれは 議論のつごうの上で 故意にでも この進歩思想のほうに いまは 肩入れして見ることになったとしてもなのですが―― 《一回きりの終末をもつ動き》として人間の生をとらえること だからほとんど同じ内容として 《不幸》の点では 《地獄(ないし 第二の死)》を想定することによって説明し直すということ こういった一つの変換 これのほうが しかし よりいっそう 天の思想を きびしいものにすると同時に やさしいものともして ふつうに現実的なものとし得たと 言わざるを得ません。このほうが よりいっそう《健康なものではないか》。
永劫回帰の世界観》が 《歴史を人間の我意で解釈》したものとは考えませんが――すなわち アイヌ人の世界観〔の梅原先生による紹介〕は まちがいだとは考えませんが―― そこでも 不幸があり 従っておそらく罪があり またその制裁があり 従って結局 不幸があるとしたなら 《人間の我意》はとうぜん 起こっていた。この我意で 死の世界を汚さずに 歴史を解釈したのが 永劫回帰の思想であるかも知れません。ところが 同じことを 《最後の審判》で説明するということは ありうるし 正当にも起こったのだと考えられます。
従ってむしろ人間は 《生まれ変わることができない》ということを――仏教とは違って―― 《一回きりの終末をもつ動き》で 明らかにした。これは 《回帰》ではなくなったかも知れませんが 《永劫》なのです。永劫の問題 すなわち アイヌ人たちの神の国の問題なのです。
この世に生まれた人間が死に至るのは事実ですから 《世界はやはり永劫の回帰を繰り返しているのではないか》というのは そのとおりであり そして その事実を捉えて言ったものです。ところが人類は――また生物あるいは宇宙一般を含めては――そうであったとしても 人間は一人ひとり べつなのです。誰かが 仮りにおれは 過去の或る人物の生まれ変わりだということが はっきりわかたと言ったとしても おそらくその両者の人格は それぞれ べつなのです。
《人類》とかいった全体の観点から見て 永劫回帰が事実であったとしても この事実を人間一人ひとりが どう捉え受け留めたかということは 人格ごとに ちがいます。つまり《回帰》という規定は 個人にとってっは 季節がめぐり 同じ木にふたたび花が咲くといったことを言おうとするのだとしたら――そう言おうとしているのだと思うのですが―― それはむしろ我意の押しつけではなくても 我意の・そしてそれとともに人格の 放棄・抹殺の問題をはらむのです。
ニーチェとすべて同じように考える必要はないし 同じように考えていても考えていなくても 上の事実認識は それとしては しかしながら 共通の前提となっていて わたしたちは このニーチェと 共存・共生します。アイヌ人とて同じであるでしょう。人類といった全体観そのものの事実認識を 共通の前提として持つことと この全体観そのものを 個々のアイヌ人が 自己の世界観のすべてとすることとは べつだと考えられます。
アイヌ社会では――その昔――じつは 同じであったかも知れません。ところが それら両者が同じものになっているということは おそらくまづ 狩猟採集生活の共同体の中で そうであったのだろうと考えられるし そのときにも じつは もともと同一のものであったのではなく もともと別のもの(区別されるべきもの)が その当時 重なったかたちで――つまり言いかえると 宗教祭祀を中心とした生活態度全般にわたる一つの社会制度として―― 同じものとされていたのだと考えられます。これは 汚すものだとは言わなくとも 一つの我意です。また 集団我意であったろうと考えられるし その集団我意で統一的に生活していたというときにも 《不幸》は――つまり特定の人の不幸は つまり個人の問題としての不幸は―― あったのです。
もちろん それ以上の我意に走らず その我意で 永劫回帰という認識事実の前提は 汚さなかったのだと 考えられます。それは 一つの客観認識としての全体観を 一人ひとり主観を生きるという個人に やはり おおいかぶせるというかたちでの 我意の克服であったと思われ そうだとすれば 同時にそれは 人間個人の消滅といううたがいが かけられるものでもあるのではないか。客観前提を 各自が主観の運動として どう受け留めていくか これは もはや その永劫回帰観から見れば はみ出すもの・余分なもの・もっと言えば非人のものの考え方だと されたことになる。そうでないならば 《不幸》というものは たしかにありえなかったということでしょう。

(つづく→2007-12-20 - caguirofie071220)