言語類型の話
▼ 存在という概念の根底にはインド・ヨーロッパ語の「主語(S)─述語(V)」形式がある(p.47)
☆ これに 補充をしたい。
○ 文は人なり。
☆ と言えば S(主格語)−C(同格補語)−V(述格語)である。
○ 文は人が述べる。
☆ と言えば O(対格語=文ヲ)−S(主格語)−V(述格語)である。ところが 和文では 格活用を表わす ハ が 主題格(T)をも兼ねる。つまり 《文はと言えば(T) 文を(O) 人が(S) 述べる(V)》。つまり 主述関係のS-V-Oの構文のほかに T(文は)−P(人が述べる)というように 主題格(T)‐論述格(P)という構成にもなっている。二つの構文が含まれていて 重層的な構造を成す。
いづれにしても――つまり 単層構文であっても―― 言述(上の例文など)の背後に 話す主体がいて これは 話者格を成している。
この話者格は 《語としての「私」と一語文としての「私」の複合》としての《人格》に相当すると言えるだろう。話す動物としての人は 話すことにおいて 《話者格》を成すなら――つまり すでに つねに 成すのであるから―― 人格どうしの関係を 基本的に 構築していると言ってよい。
その基礎の上に 格子関係ないし格言や格式を普遍的に見出すと唱える人格理論がつくられている。つまり Susanowo人間語の中に 格子関係は宿っており その上に 人格関係という Amaterasu 普遍人格語の骨組が見出されるのである。
この回答へのお礼 ○ 時は金なり。
☆ というのは
○ Time is money. すなわち S-V-C.の単層構文。
☆ であるが 同じ従兄弟どうしの仏文では
○ Le temps, c'est de l'argent. すなわち T(主題格),/=断層あり/,S-V-C.というような重層構造
☆ を成している。和文・韓国文などは 問答(T-P)関係としてこんにゃく問答をも許容する《非線形》の構造(つまり非構造)の上に 主述(S-V-O)の論理的な線形をこしらえている。漢文は あたかもすべての構造を取り払ったかのような混沌(文法自由)である。英文は 見たように 単一論理先行型である。英文と和文との間に 能格構文がある。(バスク語・コーカサス諸語)。
つまり英文のごとく S-V-Oの単層構造の文体によって意思疎通を図るならば 世の中は 《線形》の論理で成り立っていると見なし ややもすると 世の中は《大競争時代》(雨宮p.43)に成りがちであるかも知れない。(ちょっと言い過ぎである。一面的な見方であることを免れなかろう)。
主題(T)と論述(P)という文型は 単純に言って 問いと答えである。打てば響くという問答が――それは あやまればいいのだから―― 通時的同一性としての答責性を支える。共時的同一性のほうは 主題の提示の自由さ 提示された主題の自由な共有 それに対する回答の多様性とその自由な相互受容などを 取り決め合っておけば よいのではないか。
▲ 〔《共時的同一性》としての〕 「他の人格は自分である」という自覚(p.50)
☆ という規範を設定すると わたしのような自由野生異端児には 窮屈に感じるのだが どうだろう。それは わがままであって ゆるされないだろうか。