甘え または 自我
- 《甘え》→もくじ2005-03-13 - caguirofie050313
1. 意識していなかったことが 意識に思い浮かぶなら その出所は 潜在意識か無意識かであると思われます。――ですが これはすべて 《わたし》の記憶から現われると考えてよいと思います。
2. その意識に思い浮かんだ内容は 個々の判断材料ではなくすでに思惟し終えておりそこから選択した事柄であるなら 意志行為をかたちづくる要素です。このとき 自我だの超自我だのあるいはリビドだのと言いますが これらはすべて《わたし》です。
3. ふつうにいまここにわたしがあるというそのわたしを意識する自我というものや そこからものごとを欲するという欲望一般にしろ あるいは この欲望をあたかも精査するかのごとく いと高きところを望みこれに従おうとしてよき判断をくだすという良心的な意志にしろ すべて《わたし》です。わたしの記憶と知解と意志のはたらきです。
4. ではなぜ その《わたし》に二つも三つもの我れがあるのか? それはひとえに その昔ものごころがついたときから わが心に逆らってうそをつくという意志行為をおこなったところから出て来ています。へそ曲がりの結果です。《我れに還る》という我れもあれば それに逆らうへそ曲がりの我れもあります。
5. 意識は 記憶・知解そして意志の三つをまとめた《身体=精神》のあり方を知覚し認識すれば そのすべてが意識です。これは 潜在意識がどうの無意識がこうのというふうな問題として見ないほうがよいと考えます。意識にのぼって来たなら それについて処理すればよいというわけです。どこから来ようとかまわないというわけです。
6. 昼と夜。たしか 《朝から昼を経て 夕になり そして夜がおとづれるのであるけれども 夜にはつれて行かれずに つぎの朝を迎える》という思想をお伝えしたことがあるように思います。
7. 自我だの超自我だの欲望だのといちいち意識の出どころを分けて それによってあたかも《わたし》をも分割してしまっているその種の学問ないし思想は ほとんど有効ではないと考えます。必要ないと思います。
なぜなら その人格の――ないし精神の むろんたしかに分析は 有用でしょうが その――分割思考は それが 昼に対してわざわざ《夜》をあたかも同等の世界としてのように 据えているからです。昼と夜とは ほんとうには同等に対立するものではないと言わなければならないのではないでしょうか? いわゆる善と悪のそれを含めて それら二者が互いに同等に対立すると捉えるときすでにその解決は放棄していると言うべきではないでしょうか?
《暗黒の領域》は ただ文学の世界にのみ任せておけばよいのではないでしょうか