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哲学いろいろ


hastings

FuMO

とは”Funkmess-Ortung”の略。
「レーダー”Funkmess”」と「方向探知機”Ortung”」の複合装置


ぷらぽへ。

エゴーとアハンとが同じ語源ではないと言っていましたが その説明は どこを見ればよいですか?

【Q:自分と自我の違い】

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8100087.html

No.2
本来はほとんど違いがないのに むしろわざと出そうとして 言い分けて遣うようになったのではないかと思います。

 どちらも《わたし》のことです。 
 《自分》は 自己や自身やみづからと同じように いわゆる再帰用法(セルフ)の言葉でしょうが 基礎として《われ》のことでしょう。




 その昔 漱石氏は 世の中に吹き荒れる〔までは行かなくとも かなり片寄った姿勢になりがちなその〕洋風の流れとのあいだに違和感をおぼえ 《自己本位》の四文字を掲げるようになったと言います。

 《則天去私》とも言いましたが 自分が自分であろうとするという意味での自己本位を実現するためにも そう言ったのでしょうか。

 日本の社会の中で《わたしがわたしである》ことは・そしてその姿勢(ないし自己表現のあゆみとしては 文体)を保ち続けるのは 並大抵の努力ではむつかしい。のかも知れません。昔からそうだったのかも知れません。

 それは 身分制によって影響されたことでしょうし 特には世襲制としての身分制は 人びとのあたまの上に蚕にとっての繭のごとき見えない天井をじっさいには見させていたことでしょう。

 しかも人びとは 根っからの《和を以って貴しと為す》おとなしい民衆でした。ひとから頼まれたなら いやとは言えないというような性格でした。

 つまりは このようなクウキのただよう世の中にあって ひとりの人間が自分の個性を見い出しそれを自分の努力で発揮して生きて行くことは むつかしかったことと推し測られます。

 したがって もし《われがわれに還り わたしがわたしである》といった社会的自立を表現するのには ただ《わたしの確立》とだけ言っても はっきりしなかったのではないでしょうか。

 ゆえに 《わたし》と同じ意味なのですが 別の言葉を模索し つくった。
 つまり エゴー(ギリシャ・ラテン)も イッヒも アイも 《わたし‐が》という意味の言葉であるに過ぎませんが その内ドイツ語の《 das Ich 》のことをだと思いますが 《自我》という言葉をつくって充てた。

 ちなみに上の《わたし‐が》なる言葉は みな互いに同じ語です。

   ギリシャ    egoo
   ラテン     ego
   サンスクリット aham
   ドイツ     Ich
   オランダ    ik
   イギリス    I
 
    http://www.etymonline.com/index.php?term=I&allow

 母音は互いに交替しえますし縮約されえますし 子音では / g / ∽ / k / ∽ / h / という交替が起きているだけですから。方言の違いにしか過ぎません。エゴーを エホーと訛れば サンスクリットのアハンと比べても ほとんど違いはありませ。どちらかがちょっと訛っているというだけのことになります。

 
 つまりこれを借用するとき日本では かなしいかな 《わたし》とは違う語で表わさねばならなかった。
 とは言え 精神分析では わざわざこのとき得られた《自我》なる言葉を自分の仮説における用語として用いることになってしまいました。そこから おかしくなったのではないでしょうか。そもそも《わたし》のことなのですから。(それを 自我・超自我エスが一個の人格を成すといったようにして自我は 縮小してしまっています)。

 わたしという言葉であるエゴーから派生した語としては――これは 欧米のコトバでもそうなってしまったようですが―― エゴイストは 利己主義者とまで成ってしまったというのは どうも解せないのですが。
 ワタシを離れて 隣人愛は成し得ないはずなのですから。

No.8
回答者: bragelonne 回答日時:2013/05/27 11:28
 少々込み入った内容の議論になりますが。

 ヰキぺの議論を吟味検証します。
 ▼(ヰキぺ:自我) 〜〜〜〜
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91

 § 2 精神分析学における自我

 ジークムント・フロイトにおける das Ich(以下自我とする)は精神分析学上の概念である。
 ここでは自我に加えて超自我(ちょうじが)とエスについても説明する。
 なおアメリカの精神分析学においては、1953年にジェイムズ・ストレイチーによるフロイト翻訳全集の英訳の際、
  独: das Ich(自我)は   羅: ego(エゴ)、
  独: Über-Ich(超自我)は super-ego(英: super、羅: ego)(スーパー・エゴ)
  独: Es(エス)は     羅: id(イド)

 と訳され用語として流布した。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 《エス( Es )=イド( id )》は 英語の《 it 》です。
 このばあい 《それ》よりも《あれ》にあたるようです。
 
 ソレもアレも 相手とのあいだにその示すものごとが概念として共有されているばあい ただしソレは そのモノゴトが良し悪しや可否を必ずしも定めることなくふつうであると捉えられている。対して アレになると 何かよそよそしいものや必ずしもふつうに あぁ それだとは言うことの少ないものについて言っていると考えられます。

   あれえーっ

 と悲鳴を上げるときとか。はて 何だろう? と思って

   あれれ?

 と発するときなどの例です。
 ▼ (同上) 〜〜〜〜
 § 2.2 エス

 エス (Es) は無意識に相当する。正確に言えば、無意識的防衛を除いた感情、欲求、衝動、過去における経験が詰まっている部分である。

 エスはとにかく本能エネルギーが詰まっていて、人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲動)が発生していると考えられている部分である。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ このように言うとき 日本語のアレ――これも イド=エス=イットである――はむしろ外から来て内面に感受されるものと捉えられている。つまり 精神分析における《無意識》としてのアレは すでに内面において何らかの心的(および身体的)現象となるそのウゴキであると考えられたようです。
 
 おそらく日本語では たとえ内的な欲求としてであっても ちょっと自分の心つもりとは別なよそ者としてのごとくに受け取られている。少なくともそう表現されている。

 

 ということはさらに考えをすすめるなら:
 日本人はその言葉による表わし方から見るなら リビドー(性的欲動)にしろタナトス死の欲動)にしてもこれらのウゴキは おそらく自己の外と内とのあいだに――もしくは外と内とをひっくるめた情況の全体に――アレなるものごととして起きていると受け留めている。

 リビドーにしても相手がいるというわけです。あるいはつまり タナトスなるウゴキにしてさえも 相手や周りの人びととのカカワリにおいてその外からの刺激に対する反応として 《アレ》が生じる。と思っている。はずなのです。



 すなわち そのようにエスと呼ばれる《意識下にあるアレなるウゴキ》を 日本人なるワタシは ワタシをも含めたその場その情況においておもにはそこにおける人間関係から 生じるものと見ている。

 このワタシを自己・自分・ワレと呼ぶことはあっても 《自我》とは呼ばない。なじまない。はずです。(そして その自我という訳語を充てた元の言葉であるエゴ=イッヒは ワタシを意味する語でしかない。と来ています)。


     *

 というようなすでに全体情況を把握したとも言える問題を さらに精神分析論は わざわざほかにも用語をつくって説明しようとします。特には超自我(スーパーエゴ)です。
 

 まづあらためて
 ▼ (同上) 〜〜〜〜
 § 2.1 自我

 自我(エゴ)は

   エス(イド)からの要求と超自我(スーパーエゴ)からの要求を受け取り、

   外界からの刺激を調整する機能を持つ。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ こうだとすれば この《エゴ》を 《わたし・われ》と呼べば何でもないふつうの心的現象のことです。《自我》と言うから 議論があさっての方面へ行ってしまうのではないでしょうか。

 ▼ (承前) 〜〜〜〜〜
 〔自我(エゴ)は〕

  無意識的防衛を行い、エス(イド)からの欲動を防衛・昇華したり、超自我(スーパーエゴ)の禁止や理想と葛藤したり〔禁止や理想に〕従ったりする、調整的な存在である。

 全般的に言えば、自我(ego)はエス(id)・超自我(super-ego)・外界に悩まされる存在として描かれる事も多い。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ すなわち・つまり ワタシのことにほかなりません。

 

 ところで 超自我とは何ぞや?

 ▼ 〜〜〜〜〜〜
 § 2.3 超自我

 超自我は、自我とエスをまたいだ構造で、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などを自我とエスに伝える機能を持つ。
 〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ ったく! これだって ワタシでありワタシの知性や意志のハタラキのこと以外にはあり得ません。
 せいぜいが 《反省するわたし》といったところでしょうか。けれども それもワタシのことでないなどとは 天地がひっくり返っても言えません。

 せいぜいが 広義のワタシの内に エスと自我と超自我が 部分的な要素要因として それぞれのウゴキやハタラキを持っているというくらいのことです。

 《良心や理想》を持つのは このいま・ここにいるワタシではないのでしょうか? 
 つまり ワタシのほかに《自我》が別にあるとか ワタシのほかに《ワタシを監視する超自我》が――ワタシとは別に――あるなどということになっているらしいのです 精神分析においては。

 《ワタシとは別に》というところが 問題です。そうではなく すべてはワタシのハタラキでありウゴキなのですから。
 

   *

 ちなみに ヰキぺの § 1 哲学における自我 のくだりで

 ▼  他我 (独: das Anders-Ich) と呼ばれる個別的人格の可能性
 ☆ に触れられています。
 これなども 《相手のワタシ もしくは ほかの人のワタシ》のことであって 自我がワタシと別にあるのではなかったのと同じように 他我が 相手の人の存在とは別に(もしくは その存在における特殊で特別な要素として)あるなどということはあり得ないということが考えられます。

 《個別的人格の可能性》という規定にしたがうなら それは――つまり仮りに言って《他我(他人(ひと)のワタシ)》は―― ワタシ自身の人格の内にそなわるハタラキであるとも見られて来ます。他人のワレが ワタシのワレの内に何らかの要素として そなわるというところまで進めているかに見えます。

 《そなわる》というのが言い過ぎなら 《潜在可能性として他者との共通の感覚をはたらかせ得る要素》のごとくに捉えられます。(同じになりますが)。



 ここから 言いたい人たちは わざわざ自我と他我との共感や 存在としての関係性とその通底性――または 愛――を言おうとしているようですが 回りくどいことだと考えられます。
 
 ワタシは 社会的な独立した――自由意志の主体としての――存在であると同時に 社会的な関係性を有する存在である。(社会的な動物である)。と言っておけば 共通感覚(コモンセンス)やあるいは愛のことまで 説明しうると考えられるはずだからです。


 ワタシはワタシが 人びとと〔原理的な〕カカワリ(関係)を持ち 具体的にマジワリ(交通)を持つ。のであって わざわざ 自我や他我が エス超自我のあたかもそれらそれぞれの独立したウゴキとあいまって おこなうのではない。

 つまり 部分要素や要因がそれぞれ《独立したウゴキ》において 行動するわけではなく また その行動やウゴキにおいて人格が成るものではない。微妙ですが そのチガイは大きいはずです。

 ワタシが 部分要素に還元されきってしまってはならないのですし それらのウゴキを独立したものと見ることによってワタシが振りまわされることは 必要以上には無用です。

  人格ないし存在は すでにワタシがワタシであるその《われへの立ち帰り そしてその自覚》という・しかも動態にこそある。

 と言わねばならない。このように考えます。
 つまり《自我》なる用語は 要らない。です。




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