caguirofie

哲学いろいろ

言葉は凶器になる?

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

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言葉は凶器になるは そのまま言葉の凶器化ではないか
 言葉は凶器になるというのは そのまま言葉の凶器化したものではないか?
 脅して 言葉使いに注意せよとしか言っていない。
 仮りに凶器となるようなのなら そうはならせない表現を どしどし模範のごとくして 表わして行けばよいはずだ。
 そもそも 言葉が凶器となるというのは 相手の言い分やその論理に対してすでに反駁しえず屈服したゆえに 負け惜しみでついて出た言葉ではないのか?
 自分の思考能力の浅さや弱さをみづからが暴露しているに過ぎない。のではないか?
投稿日時 - 2014-08-09 23:51:11

回答No.10

yy8yy8az
 あれこれと考えさせられています。
 私自身も理由や根拠が漠然とした状態での回答をしてきましたが、もしかしたら、との思いが浮かんだので述べてみます。
 常識と非常識を、自我と自己(あるいは真我)、としてみたんです。
 ブラジュロンヌさんの頭にあるのは自我の心、ではなく真我なのだと。
 それに対して回答者の皆さんは常識的に自我を念頭しているんです。
 だから意見が“すれ違う”のではないでしょうか。
 戦いは同じ土俵、同じリングに立たなければ・・・
 
 
投稿日時 - 2014-08-11 00:13:27

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お礼
 わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 戦いは同じ土俵、同じリングに立たなければ・・・
 ☆ なのですから わたしも同じ次元の同じような《自我もどき(*1)》で勝負していますよ。
 だって 《反感を買う》ことをとおして たまふり(魂振り)をおこない(つまり 精確には自分自身によるたまふり・たましづめ(*2)を得ることができるように そのきっかけとなり) 
 さらになお《怒り〔という自己自身の鼓舞〕(*3)》を促し 〔わたし自身の見解の見直しをも見届けつつ〕ともに共通の理解ないしさらには普遍性のある答えに到るということ。これを 《たくらんで》います。
 *1 自我もどき:
     
 《自我》なんで概念は ありません。《わたし・われ・おのれ・自己》のことです。
 せいぜいが《我を張る》の我であったり あるいは世間の荒波にもまれながらも自分の意見をどこまでも貫こうとする意志のチカラであったりする程度です。これらだって 《わたし》と言えば済みます。
 自我は エス(ムイシキ・リビドー)と超自我との均衡を図って意思決定するチカラだと言ったとしても これもやはり《わたし》のことです。ワタシのほかに別に自我があるわけではありません。
 この自我あるいは果ては他我などという言葉を使うのを見かけますが その気持ちが知れません。
 なお 精神分析における《無意識》 これは そのようなほかの脳細胞の作用から独立した領域とチカラとしての部位は 見つかっていません。(ヰキぺによります)。

 言いかえると もし独立した無意識(エス)がはたらくとなれば あたかも悪魔がわれに命令したのでおこなったという言い訳と同じように わが無意識がわれにこれを為さしめた〔のだから わたしに責任はなく罪にもならない〕と言ったとき これを承認しなければならなくなる。バカげた話を 精神分析はいまだにつづけている。〔ですよね? ひょっとして撤回した?〕。
 あなたは マザコンだだの性のトラウマによって悩み ときにそれによって突き動かされているだのと《分析》する。いやいや そんなことはありませんと答えると いえいえそのように否定することこそが 当たっていることの証明なのです。うんぬんと 真顔でいまだに〔精神分析かぶれが〕言っている。
 これは 否定したことの証明が不可能なことをいいことにおこなう・それこそ《言葉の凶器》行為である。結着のつかない議論かつ判定を相手にあてはめて これが一人歩きするなら そのように広まった先の人ごとに いえそれはマチガイです そんなことはありませんと伝え続けなければならなくなる。
 心に傷つけられることなどなくても 世間におけるわが社会的生命にあたかも傷がつけられるという虚構が まかり通ることがある。
 この《言葉の凶器》行為と言ったのは 誹謗中傷のことである。やはりここでも 言葉に罪はない。きっかけとしてあたかも凶器になったというタトエです。心は 困りたいへん苦しいことをも味わうが 何ら《欠け》が生じたわけではない。安心すべし。

 *2 たまふり・たましづめ:
 これは じっさいには《何ものかナゾ》のチカラによって われらが心にそれぞれ起こるものだと考えられます。
 つまり早い話が 互いに話し合いにおいてヒラメキ・直観のたぐいがあたえられるところまで行こうというコンタンです。
 これは 真我・霊我すなわちアートマンまたブッダターまたは神の霊であるかと想定されます。
  ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。
   たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。
   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 
    鎮静の逆の意味のようです)。
   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。
   その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。
   間はただのうつろなる時間と空間ではない。
   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。
    (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 *2 怒り=おのれみづからによる自己の元気づけ:
 これは
 【Q:【怒り】という感情はあるのですか。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8663798.html
 なる質問でのやり取りをつうじて得たひとつの定義ですが その質問者による趣旨説明やほかの回答者さんたちとのやり取りを見てかたちづくった見方ですので その質問者の名をつけて 《〈怒り〉についてのにゅうとらるの定理》と呼んでもよいのではないでしょうか。
 これも 心の傷の癒える自然史過程に棹差す鎮魂の場合と同じく まづ直接には感性としてあらわれますが そのみなもとは やはりナゾの何ものかだと思われ それとして神だと想定されます。神が われわれを元気づけているという見方です。
 なおこの怒りは 長く続かず むしろそのときの瞬時における稲妻のごときヒラメキが われを我れに還すのではないだろうか。と考えられます。〔怒りのイカは いか・つ・ち(厳・の・霊= 雷)のイカですので あたかも稲妻・稲光に譬えられます。これらの語源については 【怒り】の質問の回答No.27を参考にしてください)。

 つまりは 欠けが生じたりこれを繕ったりするという傷 このような傷をこうむる心がある。その心の奥なる奥座敷とも呼べる《非思考の庭》から 稲妻を発したものと思われます。庭ないし場が 電磁場か何か分かりませんが チカラです。神のチカラです。
 抹香くさい表現では こうなっています:
 ▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) 〜〜〜
 かの全能者は 
 最初の人(アダムとエワ)からであれ 
 その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
 わたしたちに起こっている悪を
 その満ちあふれる恩恵によって
 滅ぼしている。
    (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ なお
 ★ 常識と非常識
 ☆ については 
   ふるい常識とあたらしい常識
 というふうに捉えてもらうとありがたいのですが。あるいはつまり
   前史の共同主観(――これは 共同の観念になって
   しまい 果ては共同の幻想にしか過ぎなくなっている。
   つまり ふるい――)と 
   後史の共同主観
 というのは どうでしょうか?
 共同主観=コモン・センス のことです。
 前史から後史へ ふるい人を脱ぎあたらしい人を着ます。
 北風ではなくあるいは必ずしも太陽でもなく 稲妻がふるい衣裳を脱がせます。あなたをはだかにします。あたたかい日の光は 必要でとうといものでしょうが。
投稿日時 - 2014-08-11 08:06:50


回答No.9

frau
補足。
反省しておられるのか、回答者への簡素な説明がみられてよい傾向です。
あなた様も神から人間になりつつあるようで、安心しました。

「心が欠けを生じた」
という表現については、「やましさ」の件から用いられていますね。
しかし「欠け」という表現は妥当ではないと思います。
一体何についての表現であるのか捉え方が違ってくるような語を用いられているからです。
「欠ける」状態は「傷」があってのことです。その時点での状態をあなたは「心の傷」としているようですが、「欠け」を傷によって破片がおちた後の、欠如のままの状態を指しているのではないか?と捉える人は「空虚」「虚無」とイメージします。すると答えもそれぞれ違ってくると思います。
言葉を点のようにして表現されている以上、線(意味)がつながらなくなる。それでもご質問者は「点から意味を読め。でなくば思考能力が浅いということにする」と不敵に笑い続けるわけですよ。
他者の「ありのまま」の考えを寄せて参考にするのではなく、採点する。だから多くの回答者はキレるのではないでしょうか。
投稿日時 - 2014-08-10 23:35:57

(現在1人が支持しています)
お礼
 ウソをつくのは よくないし ここでウソをついたら自分の人間性を落とすというやましさ反応がすでに出ているのに これを無視して 強行したなら そのやましさ反応の部分が 一たん 心から欠けてしまう。
 つまり そのやましさ反応としての心のハタラキが 次の時には故障してしまっていることがありうる。つまり その個別の具体的な決断にかかわる心の部分が 欠けた状態になる。
 これが 心が傷つくことである。
投稿日時 - 2014-08-10 23:54:23
回答No.8

frau
回答No.7の方のご意見をお借りし、再度疑問を述べます。
「言葉は凶器になる」=結果論
「言葉の凶器化」=因果関係の原因
と述べられています。
結果論とは『事が起きたあとで,そのわかっている結果を前提としてあれこれ論ずる無意味な議論 』。
因果関係とは『原因と結果の関係』。
結果論とは、おきた「事」を前提に原因と結果を同一系列にみておのおのを論じるレベル。
因果関係における「結果」は「原因」と主観を切り離し、推測できるかぎりの「原因」を精査すること。逆もまた同様。
と考えました。

>言葉の凶器化とは…凶器化された言葉を発したために被害が出たのだと解釈する
またここでは、接辞「化」がポイントになってくると思います。
「化」は『前と違った姿・状態になる。』ということですが、質問者は「そのまま」という語を用いて前者と後者を同義語としているわけです。
どのような言葉がそうなるかを論じさせることを目的にするような「言葉は凶器になる」という言葉よりも
「言葉の凶器化」の「化」は抽象概念を示すものですから、より漠然としたものを想定させることを目的にしていると思われる。
前者は凶器となるもののうちは何か?という命題におけるうちのひとつの判断。
後者は言葉のもつ(危うい)働きの可能性を示唆している。
と区別できます。
だから私は質問全体に矛盾と疑問を感じたわけですが。
よって「言葉は凶器になるというのは そのまま言葉の凶器化したものではないか?」という質問には否であると考えます。
また、質問本文では、これらの違いについては説明されていません。
具体的に説明したうえでのお答えがないので、理解されていないとします。
さらに、この件には、質問者が特定する個人がいます。
この個人の「言葉は凶器になる」という発言を「言葉の凶器化」という型にはめた概念にしよう、という目論見が感じられます。
なぜならば、質問者も指摘のとおり、この件が例の質問から派生したものだからです。
すると、質問の質も違ってきます。
つまり質問後半の
「…負け惜しみでついて出た言葉」「自分の思考能力の浅さや弱さをみづからが暴露しているに過ぎない。のではないか?」
に結び付けるための根拠と思われます。
後者は私的な感情であり説明が明確ですが、それを説明する根拠の方が不明確になるのです。
投稿日時 - 2014-08-10 23:14:29

(現在2人が支持しています)
お礼
 ☆☆ (趣旨説明欄) 言葉は凶器になるというのは そのまま言葉の凶器化したものではないか?
 ☆ なぜなら:
 ☆☆ (同上) 脅して 言葉使いに注意せよとしか言っていない。

 ご投稿をありがとうございます。
投稿日時 - 2014-08-10 23:48:30
回答No.7

asisai888
No5さん
>「言葉は凶器になるというのは そのまま言葉の凶器化したものではないか?」
>という質問を分かりやすく教えてくださる第三者の方、いませんか?
私なりの解釈をしてみたいと思います
まず一般的に言葉は凶器になるという意味は、誰かに発した言葉が原因で言われた方が
精神的に傷つくこと、また傷つくことによって自殺してしまったり誰かを傷つけたりなどの
加害行動に及んでしまうことを言うと思います
つまり「結果として」ある言葉を発することで被害が出るということです
それに対して言葉の凶器化とは、結果として被害が出たのではなく
凶器化された言葉を発したために被害が出たのだと解釈する立場です
前者は結果論で凶器が捉えられてるのに対し、後者では因果関係の原因として凶器が捉えられています
故に
>そうはならせない表現を どしどし模範のごとくして 表わして行けばよいはずだ。
この発想になるのでしょう、つまり言葉が凶器化されることが誰かを傷つけることになるのだから
凶器化されない表現を使うことをコミュニケーションをする上でのルールにすればいい
ただ、言葉の凶器化の話は前フリで、そんなルールはべつにないのだから
そもそも言葉が凶器になるということなんてない
ないのになぜ言葉が凶器になるという考えが出てきたかというと、反論できない負け惜しみのせいだろう
そしてその負け惜しみは思考能力の浅さや弱さをみづからが暴露している
皆さんそうではないですか?
こういいたいのだと思います
投稿日時 - 2014-08-10 19:33:45

(現在3人が支持しています)
お礼
 あしさい888さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 だいたい おっしゃるとおりだと思います。
 
 一点として明らかにしたいことは こうです。
 間接的にしろ言葉によって心が傷つくということは ほんとうには そうなっていないはずだ。という見方をしています。
 もし心が傷ついたというのなら それは すでにおのれ(傷ついたという人)が自分の心の内で やましいことだと思っていることをそれでも欲しこれを実行に移したとき 実際には心が欠けを生じた。というふうに捉えています。
 
 すなわち 言葉を受けたことが何らかのきっかけに成ったのですが その言葉によって傷つくということはない。と考えています。すでに過去におのれが自分の心にさからって欲し実行に移したやましいことによって心に傷がついた。そしてそれを あとで確認した。――こう捉えています。

 ほかのみなさんも見ておられると思い 質問者からの説明が必要だと考えて このように述べました。
投稿日時 - 2014-08-10 22:33:05
回答No.6

kurinal
B様、こんばんは。

「肺腑を突かれる」という経験なら、あります。
投稿日時 - 2014-08-10 18:51:53

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お礼
 こんばんは くりなるさん。ご回答をありがとうございます。
 《言葉によって》ですか?