caguirofie

哲学いろいろ

言葉をなぜ まなぶのか?

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 いろんな言語の知識を得て それをひけらかすためのほかに 何でしょう?

 個人のご意見としても 一般論としても また両方としても どうなのでしょう?

Him-hymn

言葉を学ぶ意味
1.生活の必要性があるから
自分が生活している地域で使われている言葉が使えないと買い物にしても、何をするにしても困ります。そういう意味で言葉(自分の母国語でない言葉を使う地域に住む場合)を学ぶ必要があります。

2.知識を吸収するため
日本は翻訳がかなり行き渡っている国ですが、それでも外国の言葉がわからないと科学や技術などの最先端の情報を手に入れるのは困難です。そういう知識を吸収するために必要です。

3.コミュニケーションをとるため
人と直に話をすることでコミュニケーションをはかることができ、それによって、お互いの情報を交換したり、交友を深めたりすることができます。日本の鎖国のような状況を世界のすべての国が持っていたら、とてもつまらない世の中になるし、お互い疑心暗鬼となって、戦争がはじまる可能性も増えますよね。人はコミュニケーションが必要なのです。

4.言葉を学ぶことは異文化を学ぶという面白さがある
異文化を知らないで一生を過ごしても悪くはありませんが、私などは異文化を知ることで自分の幅が広がったと思います。言葉も文化の一部であり、これを学ぶことに意義があるとも考えられます。
5.自分を知る
他の言葉を学ぶことは、自分の言葉を相対的に知ることであり、自分自身を相対的・客観的に知ることでもあります。たとえば、英語を学んではじめて、日本語と「相手」についての伝え方が違うというのに驚きます(英語では自分はI相手はyouですから)。さらに深く自分とは何者かというような哲学的な問いにたどり着くことさえできるかもしれません。

以上の理由で言葉を学ぶのかと思います。なお、やや教科書的な回答であったかもしれませんが、あなた様がどのような回答を求めているかわからないので、このような答をしてみました。

ご参考になればと思います。

投稿日時 - 2014-08-18 10:07:48
お礼
 ひむ‐ひむんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 言葉を学ぶ意味 /  1.生活の必要性があるから
 ☆ 言わば《生活ことば》は 欠かせない。ですね。


 ★ 2.知識を吸収するため
 ☆ これは 意地のわるい質問者としましては では何故 《知識を吸収する》のか? と問いたたむようにお尋ねしたいと思うところです。


 ★ 3.コミュニケーションをとるため / ・・・人は〔* 生活世界を超えて〕コミュニケーションが必要なのです。
 ☆ 括弧書きにて記しましたように 《1.生活のための必要性》を直接会って交通する生活世界からさらに広げたかたちでしょうか。

 つまりは 《1》と合わせて 《地球上に生活し人びとと共生するための必要性》となりましょうか。


 ★ 4.言葉を学ぶことは異文化を学ぶという面白さがある
 ☆ これは これにもイチャモンをつけたくなります。つまりは 《2. 知識を吸収するため》と同じように では 《異文化をまなぶ》のは 何のためか? と問いたくなります。

 むろん 《趣味嗜好》をけなすものではありません。そのほかに 目的はないかという問いであります。


 異文化をまなぶのは 《1.+3. 世界における共生に向けてのコミュニケーションのため》という答えにもなるかとは思いますが。


 ★ 5.自分を知る
 ☆ まづこの中で
 ★ 自分自身を相対的・客観的に知ることでもあります。
 ☆ というのは やはり《地球人としてのコミュニケーションのため》に成りましょうね。

 あるいは
 ★ さらに深く自分とは何者かというような哲学的な問いにたどり着くことさえできるかもしれません。
 ☆ これは どうでしょう。つまり そのことを否定するのではなく そうではなく ひとつの言語だけでも《人間=存在》論としての《わたし》論にはたどりつくのではないか?
 
 つまりおのれの母語をひとつ知っているだけでも 哲学は成し得ます。と言いますか 隣りの国の――たとえ方言の違いであってもの――違った言葉については たいてい《生活世界》の範囲内でも知っているという事情もあるかと考えられるからです。




 さて ここからが 問題であると思います。せっかく
 ★ あなた様がどのような回答を求めているかわからないので
 ☆ とおっしゃってもらっていますので しっかりと問うてみたいと考えます。

 すなわち こうです:

  ○ 《地球人として互いに交通しあって生活するために それぞれの国の言葉をまなぶ》という答えを得たとするならば では この外国語カテは そういうふうに利活用されているか?

 です。言いかえると なるほどいろんな国の言葉をまなぶべく質問をつうじてやり取りがなされていますが それらは うわっつらの言葉のやり取りが出来るためにまなんでいるに過ぎないのではないか? という疑いに代えたいと考えます。

 どうでしょう。
 うわっつらのコミュニケーションのためにまなぶ人たちに対して 先に知ったことをひけらかしているに過ぎないのではないか? です。


 それとも この外国語カテは そのような手段の段階での知識の交換と共有にしぼっていとなまれていましょうか?

SPS700

    僕の場合、日本語が通じない場合しょうがないから、と言う理由です。


お礼
 えすぴーえす700さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ごもっとも。と答えざるを得ないでしょうね。

 やはり回答No.1に提示された《生活世界におけるコミュニケーション》なる目的であるように思います。

 それは そうなのでしょうね。


 そこからは広げたりはなさらないのですか?

 あるいは広げる意味はないとお考えでしょうか?

 言葉は言葉だ 言語は言語だ。ほかの飾りを付け加えることもなかろうと。


 つまりは このいまの外国語カテの状態・情況で じゅうぶんであると。


noname#197662

こんにちは。音楽をやっているものです。
bragelonneさんの御質問は、私のようなものにはむずかしくてかなわないので、今まで近寄ったことがありません。事情があって、いったん退会するつもりなので、書き逃げさせていただきます(笑)。
私の場合は、完全に必要に迫られてドイツ語を勉強しました。留学目的です。当初はフランスへ行くつもりでしたので、フランス語を始めたのですが、途中で興味がドイツ語圏へ移ったため、ドイツ語に乗り換えました。
当然レッスンに必要なために学んだわけですが、他にも良かったことはたくさんあります。音楽関係の良書の多くが、まだ日本語に翻訳されておらず、ドイツ語が読めるようになったことで、自分の専門分野の知識や技術を得ることができました。
また、ヨーロッパの人たちと直接話すことで、日本にいては理解しにくい西洋の文化や、彼らの考え方を知ることができたのは、貴重なことです。日本の文化についても、彼らと話をすることで、新たな発見がありました。私の場合、西洋音楽と、日本の伝統音楽の間で創作していたので、異文化を学ぶ目的も、ごく実用的な目的でしたわけです。
また、通訳や翻訳、ドイツ語の講演などもしましたので、私の場合は、語学の習得は、仕事のために必要なものでした。国際的に活躍する音楽家は、数か国語できるのが当たり前です。私の場合は、高校入学後、実技の習得のために学業をすべて放擲しましたので、英語のレベルは中学どまりです。ところが、英語に関しても、このところ自分の作品の解説を英語で書かなければいけない場面が出てきて、仕方なく(笑)やっています。
帰国後も、書物はいつも手放しませんが、ドイツ語圏の新聞をネットで読むことで、日本のマスコミとは違う情報が入手できるので、ありがたいと思っています。ウクライナの情勢なども、日本のマスコミとは違う情報がありました。
外国語カテには不満があります。英語の方はそれなりに充実した質疑応答があるようで、特に、No.1のHim-hymnさんの回答にはいつも感心しております。しかし、ドイツ語の質問は、回答する気が起こらないものも多く、寄せられる回答には、誤訳があったり、知識のひけらかした思われるものもあります。そういう回答に挟まれて答えを書くのはしんどいです。先日も若い方からからまれて、私は外国語カテの質問から手を引いてしまいました(笑)。
さて、私の回答でご不満なところはどこでしょう?

御参考になれば幸いです。

投稿日時 - 2014-08-18 11:58:19
お礼
 くれんげさん こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。



 ★ 私の場合は、完全に必要に迫られてドイツ語を勉強しました。留学目的です。
 ☆ 広い意味の《生活世界におけるコミュニケーション》でしょうか。



 ★ 当初はフランスへ行くつもりでしたので、フランス語を始めたのですが、途中で興味がドイツ語圏へ移ったため、ドイツ語に乗り換えました。
 ☆ 何だかおもしろい〔と言ってはいけないかも知れませんが〕 ですね。つまり そんなにじょうずに転回することが出来るもんなんですね。わたしなどは たぶん未練がのこって 新天地を――留学先としてですから――望む方向をつかみ難いかと思ってしまいます。

 (というより 留学や生活経験がないままに終わってしまっています)。



 
 ★ 自分の専門分野の知識や技術を得ることができました。
 ☆ これは 《そこにしかないゆえに 外国語をまなぶ〔ことの効用〕》でしょうか。

 翻訳が出たとしても 原語でまなびたいという欲求は 捨てがたく捨てられない場合があると考えます。



 ★ また、ヨーロッパの人たちと直接話すことで、日本にいては理解しにくい西洋の文化や、彼らの考え方を知ることができたのは、貴重なことです。
 ☆ これは 生活世界の拡張・拡大の件ですね。

 それによる・そこにおけるコミュニケーションの充実でしょうか。
 ★ 日本の文化についても、彼らと話をすることで、新たな発見がありました。私の場合、西洋音楽と、日本の伝統音楽の間で創作していたので、異文化を学ぶ目的も、ごく実用的な目的でしたわけです。
 ☆ 《地球人》目的に合致しています。


 ★ 帰国後も、書物はいつも手放しませんが、ドイツ語圏の新聞をネットで読むことで、日本のマスコミとは違う情報が入手できるので、ありがたいと思っています。ウクライナの情勢なども、日本のマスコミとは違う情報がありました。
 ☆ これも 同じくですが 特にはいわゆるインテリジェンスの問題として メディア一般を活用するしないを超えて 情報が自由に日常的に得られるようになるとよいでしょうね。――そのためには 外国語をまなばねならない。至極もっともだとなります。



 ★ 外国語カテには不満があります。
 ☆ ええ。

 ★ 英語の方はそれなりに充実した質疑応答があるようで、特に、No.1のHim-hymnさんの回答にはいつも感心しております。
 ☆ 英語カテでは――わたしはほとんど見ていないのですが―― 情報交換として満足の行くやり取りがある。

 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 しかし、ドイツ語の質問は、回答する気が起こらないものも多く、寄せられる回答には、誤訳があったり、知識のひけらかした思われるものもあります。そういう回答に挟まれて答えを書くのはしんどいです。先日も若い方からからまれて、私は外国語カテの質問から手を引いてしまいました(笑)。
 さて、私の回答でご不満なところはどこでしょう?
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ じつはこの外国語カテを活性化させた方がいます。お名前を言ってもよいと思い ぷらぽたさんですが ところが なおまだがっかりしたところがあったものですから いちど――ぷらぽたさんご自身は どう考えておられるかのか知りたいと思って――いまいちどその情況について問いたいと思いました。

 むろん 知識を問われ そのまま知識を答える。このことが否定されるべくもありませんが もし活発な情報交換のおこなわれる場だとすれば それだけでは物足りない。とも思ったのでした。問うてみるにあたいすると。


 言いかえると 回答を言わば競うのはよいのでしょうが 《地球人としての共生のための語学》なる見地からも互いにつとめる。互いにむしろ自由に批判しあってでも そのような方向性を出して行くのは どうか?・・・こういった考えもあるかと思うのです。

 くれんげさんは おしとやかなのですね。わたしなどは アラシもノノシリも屁の河童ですので いつも思いっきり相手を批判していますが 確かにそれが むつかしいところもあるようです。


 とにもかくにも いちど 特にはこのカテをめぐってみなさんからの考えをお聞きしておくのはよいであろうと思いましたし いまそうしています。
 果たして どうなりますか。




 ★ さて、私の回答でご不満なところはどこでしょう?
 ☆ いえ。ありませんでした。書き逃げは そのようにことわっていただけば 何の問題もありません。
 退会されるとか。また お気が向いたら 寄ってみてはいかがでしょう。
 
 

SPS700

    #5です。補足です。

>> そこからは広げたりはなさらないのですか?

    ○国人に○国語で喋って(おどけなくても結構壊れていますので)友だちを作るなど、遊び半分には大いにやっています。

>> あるいは広げる意味はないとお考えでしょうか?

   別に無いとか、在るとか、僕はただ通りがかりの者で、とりたてて言うことはないと思っています。

>> 言葉は言葉だ 言語は言語だ。ほかの飾りを付け加えることもなかろうと。

    まあそんなところでしょうか。

>> つまりは このいまの外国語カテの状態・情況で じゅうぶんであると。

    僕がここに来てからも状態•情況は変わっています。好きな人が聞いて、すきな人が答える、時世時節を計るのにはとてもいいと思います。

投稿日時 - 2014-08-18 14:08:31
お礼
 つづいてのご回答をありがとうございます。

 ★ ○国人に○国語で喋って(おどけなくても結構壊れていますので)友だちを作るなど、遊び半分には大いにやっています。
 ☆ そうですか。まぁ おおいにたのしんでおられることは 分かりました。それだけの素地が出来ておられるのでしょうから。



 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  >> つまりは このいまの外国語カテの状態・情況で じゅうぶんであると。

    僕がここに来てからも状態•情況は変わっています。好きな人が聞いて、すきな人が答える、時世時節を計るのにはとてもいいと思います。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ そういう意味合いですか。やはり。
 つまり
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   >> 言葉は言葉だ 言語は言語だ。ほかの飾りを付け加えることもなかろうと。

     まあそんなところでしょうか。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ ということであるようです。これとしてのポリシーは分かりますけれど。


 わづかに一点 未練があるのは 語学と言語学とは違っていることについてです。
 この外国語カテでは 語学はやるが 言語学は あつかわないということでしたら これは 必ずしも《学問・教育》の分野に入っているのがおかしいように思います。
 語学は 《ビジネス・キャリア》や《趣味》のカテでやるとよいでしょう。

 あっ でも 《教育》には入っているのですか。学校でおしえていることですから。あぁ そういう意味でしたか。


 と妙な幕切れになりましたが これ以上しつこくはお聞きしえないでしょうね。


Nakay702

>言葉をなぜ まなぶのか?
⇒すでにNo.1さんらの的確なご回答が寄せられており、これでほぼ完璧と思います。とはいえこの際、重複があるかも知れませんが、普段から私なりに感じていることを整理してみようと思います。

言葉を学習することの意義(ないし目的)は、実用・教養・思考力錬成の3つの観点から整理できると思います。

☆実用的意義:当然ながら、伝達の大半は言葉によりますので、その学習により意思疎通の能力が向上することは言を待ちませんが、その延長上にコレポン(商業通信)、外国文化の理解・吸収(因みに観光の「光」とは文化のことだと聞きます)、さらには学術的交流などなどがあり得ると思います。

☆教養的意義:ゲーテは言ったそうです、「外国語を知らぬ者は自国語を知らぬ」と。なるほど、言葉は「使っている」からといって、必ずしも「知っている」(認識している)ことにはならないかも知れませんね。我々は外国語を知って、それと比べることによって初めて、自国語を「知る」(認識する)のでしょうから。およそ「己」(と己に付随すること)は、それを他と比較して初めて分かるのでしょう(因みに「分かる」は、「比べて分ける」から来たと聞きます)。ということは、外国語を学ぶことで、その言葉やそれを使う人やその国のことを知りますが、さらに進んでは自国語や自国民や自国の文化などを知ることにつながる。基本部分を要約すれば、「他を知って初めて己を知る」「外国語を知って初めて自国語を知る」ということではないでしょうか。

☆思考力を鍛える:言語はすべからく、有限個の材料を使いながら、無限の表現を可能とします。つまり、閉じた体系でありながら、無限へつながる開いた機能を有するということで、そのあたりの仕組みを学習する過程で我々は無意識裡に頭脳を鍛えていることになります。すなわち、言葉の学習によって、副次的に、考える力(分析力・推理力・判断力)を鍛えている、ということでしょう。(ただしこれは言語学習に専属的効用でなく、例えば数学や論理学などにも同じような効用があると思いますが。)そして、上記の教養的意義との相乗的効果として、思考力・判断力・批判力などを鍛えるのみならず、認識・見識・世界観などを涵養することにつながるものと信じます。

ところで、言語学者サピアと人類学者ウオォーフは言ったそうです。「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」(サピア・ウォーフの仮説)と。これすなわち、我々の思考や行動、とりわけ知的営為が、言語に縛られており、それに左右され、決定づけられる、ということのようです。極端な単純化との謗りを怖れずに具体的な例を挙げれば、「語彙力1万語の人と2万語の人とでは、頭脳労働の能力が2倍違う」、ということになるのだと思います。

ともあれ、「言語の知識」は、想像を絶するほどに広く深く我々の生活と営為に作用し影響を与えている、と言えると信じます。特に、「すべての学問は言語学だ」と断言した学者もいるほど、知的営為での言語的拘束は計り知れないものがある、と考える次第です。

投稿日時 - 2014-08-18 14:32:13
お礼
 ☆ 言葉を学習することの意義(ないし目的)は、実用・教養・思考力錬成の3つの観点から整理できると思います。
 ★ ええ。とまづは 受け留めまして。

 なかい702さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ☆ 実用的意義:
 ★ そうですね。コミュニケーションですね。生活・文化・ことに学術・そして経済活動。

 
 ☆ 教養的意義:
 ★ 文化・学術の中の基礎領域でしょうか。

 ゲーテの言葉について深く考えたことがなかったのですが つまりあやふやのまま一度問い返してみますが
 ☆ 基本部分を要約すれば、「他を知って初めて己を知る」「外国語を知って初めて自国語を知る」ということではないでしょうか。
 ★ について どうでしょう 端的に問いを立てるなら こうです:

 同じひとつの言語の中だけで意志疎通をおこなっていては 《自己を知り得ないか?》
 つまりおそらくそれと同時に 《他者を知り得ないか?》 
 ――こう問うへそ曲がりがいたら どうお答えになりますか?
 どうなんでしょう?



 ☆ 思考力を鍛える:
 ★ この主題は いろんな論点に分かれるように思います。

 たとえば 
 ☆ 認識・見識・世界観などを涵養することにつながるものと信じます。
 ★ そうなんですが・つまり そのことにマチガイないと考えたあとでなのですが それでも《世界観》のように全体観としてのものの見方については 言わば言葉を超えて 何がしかのヒラメキのおとづれ〔を受け留め受け容れたこと〕によって それをかたちづくる。といった見解もあり得るように思うのです。

 その意味は したがって――母語については大いにまなびますが――外国語は知らなくても そのような《もののあはれを知る》といった世界認識は得ることが出来るかも知れない。

 これは 先ほどのゲーテの《格言》にさからう方向での可能性としての思索になりますね。

 ひとつの言語と言っても すでにどこかで触れましたが お隣りの国の言葉くらいなら 異文化交流は無理なくあり得るわけですし 借用語がふたつ・みっつもあれば あぁ こういった発想の違いがあるのだなと分かります。そういう問題は 細かすぎますか?


 あるいは 
 ☆ 言語はすべからく、有限個の材料を使いながら、無限の表現を可能とします。つまり、閉じた体系でありながら、無限へつながる開いた機能を有するということで、そのあたりの仕組みを学習する過程で我々は無意識裡に頭脳を鍛えていることになります。
 ★ と言っておられる論点は どうか?

 わたしなどは 少し違った角度から こう考えたりします。すなわち 書きことばの効用があるのではないか?
 すなわち 文字の効用ですね。

 しゃべっているだけで・対話や話し合いだけで 確かに思考力を伸ばすのは いささか無理があるかも知れない。それを 文字に書いて ひとつのまとまった文章全体をつねにそのとき取り上げこれに批評を加えることが出来るということ。これによって 思考力はおおきく伸びるものと捉えられます。

 ただしこれも 自国語だけにおいても 出来るかも知れない。うんぬん。




 ☆ 「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」(サピア・ウォーフの仮説)
 ★ これは どうでしょう。これも 先ほどの《もののあはれを知る》の問題にかかわっていると思います。

 語彙――その人の使用語彙は 理解語彙よりも少ないそうですが――をより多く持っていることが 世界とはこれだというヒラメキに似た知解を得ることに近いと言えるのかどうか?

 表現力に差がついていることは それもマチガイないでしょうけれど。



 サピアは まだつい最近読んだのですよ。部分的に読んで すぐほっぽり出していたので。
 予断としての違和感は読んでみたら ほとんど感じなかったのですが あっ これは使えるといった発見もなかったのです。まぁ 分かりませんが。

 アメリカの言語学者は インディアン諸語にあまりにも こだわっているように思えます。だからよくないとは言えないのですが そこから これはよい発見だという知見も見られないまま 細かく勉強している。



 最後の段落でも 言語の持つ大きな役割と言語による人間の拘束というあり方とを ひっくるめて捉え 論じておられるようですが これは なおわたしにはピンと来ていません。役割りの重大さには納得し支持しますが。


SPS700

    #5です。寝言です。

>>わづかに一点 未練があるのは 語学と言語学とは違っていることについてです。この外国語カテでは 語学はやるが 言語学は あつかわないということでしたら これは 必ずしも《学問・教育》の分野に入っているのがおかしいように思います。語学は 《ビジネス・キャリア》や《趣味》のカテでやるとよいでしょう。

    おっしゃる通りだと思います。

>> あっ でも 《教育》には入っているのですか。学校でおしえていることですから。あぁ そういう意味でしたか。と妙な幕切れになりましたが これ以上しつこくはお聞きしえないでしょうね。

   これはことの核心を突いたご意見だと思います。ことばは自然に入る物だから、教育には?と僕は思います。

    最初に「言葉をなぜまなぶのか?」という題を見て、よく「まなぶ」に当てられる「學」を藤堂明保の『漢字語源辞典』には「X 型にしぼる」という単語家族に入れられているのを思い出しました。

    ヒトが、ほかの動物にないものを持っているとしたら、それは「言葉」だと思います。だからヨチヨチ歩きが出来ると話も出来る。学校で絞られて身につける物ではない。だから「まなば」なくても話せる。

    身内の者が3歳ぐらいの時、よそから遊びに来た従兄弟の方言を巧みに操るのを聞いて、二つ以上の言葉を話すのも別に異例の能力ではないと思います。

   しかし、世の中が進んで外国語にも「標準語」のような組織が出来、教育でそれを扱うようになり、それを何か特殊技能のように取り扱うことになった。何となく阿呆臭い、とおもいます。

投稿日時 - 2014-08-19 05:17:37
お礼
 ふうむ。わたしも考えて行かなければいけないことをおしえられた。問題提起を受けた。・・・


 えすぴーえす700さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ほんとうのことを言えば この外国語カテの《変革》は ぷらぽたさんの進めて行くそのあとについて行くだけくらいに思っていたのですが このところ 雲行きが何だか昔にもどったみたいに感じたものですから いちど例によっていぢわる質問をしてみようかなと。・・・


 ★  身内の者が3歳ぐらいの時、よそから遊びに来た従兄弟の方言を巧みに操るのを聞いて、二つ以上の言葉を話すのも別に異例の能力ではないと思います。
 ☆ そうなんですか。それに当てはまるようなことをすでに書きましたが 思弁的なことでしたので 合点が行くところですね。


 ★   しかし、世の中が進んで外国語にも「標準語」のような組織が出来、教育でそれを扱うようになり、それを何か特殊技能のように取り扱うことになった。何となく阿呆臭い、とおもいます。
 ☆ ここが 何とも切ない気持ちをも催して 未来にひとすじの光が差すか差さないかのイメージを呼び起こされました。

 いつか ジャパニーズ・イングリッシュが 世界に市民権を得て 通じるようになるといったさまを思い浮かべるのも おもしろいかと。

 主題提示を文頭に持ってくるような英文です。

 日本語が消えるのではなく 生活じょう二重言語を使いこなすかたちです。バイリンガルですね。



 まぁ 昔のことを思えば いまは自由な雰囲気の中で・自然に近いかたちで 外国語に接するようになりました。英語の授業も けっきょく漢文のばあいと同じような感覚でやっていた部分がつよかった。返り点を打つようなかたちで 読解するかたちでした。

 それでも おもしろかったですけれどね。漢字ばっかりとアルファベットの世界とは くらべものに成らないほど 《新世界》でした。いなかに住んでいましたし。





 外国語との違いと言いますか 言語のあいだでの互いの違いについて これは 何で違うのか? どうしてこういう発想が出てくるのか? といったことを 互いに出し合って行くのも よいかと いまふと思いました。そういった発見を見て このカテでまなぶ人たちは その姿勢のようなものをむしろまなぶかも知れません。


 でも いづれにしても たのしくおこなわれているのならば ひとまづは それでよしとしなければならないのでしょうね。
 ぴらぽた氏の雲行きが ちょっとあやしいのが 気にかかります。


Nakay702

「お礼」への書き込みをありがとうございました。
> 同じひとつの言語の中だけで意志疎通をおこなっていては 《自己を知り得ないか?》
⇒はい、確かに「同じ一つの言語の中だけで意志疎通をおこなっていて」も、自己を知り得ます。ただ、「他の同類との比較から把握できる自己」、すなわち、「自己の特徴・特殊性・平均値との関係…」などは分からない、という意味です。
例えで恐縮ですが、父は家と駅を結ぶ道を1つ(A)知っています。兄は、3つ、例えば歩き(A)・自転車(B)・車(C)での最短路)知っています。両者とも「知っている」ことは共通ですが、父は、家と駅の間のどこどこに何々があるなどは詳しいでしょうが、両者を結ぶ通路の比較や選択はできませんね。逆に兄は、両者を結ぶ通路の比較や選択はできますが、(A)路については父より詳しくないでしょう。言語の場合も、これとまったく同じではありませんが、ある種の類比関係を読み取ることができると思います。
別言すれば、「同じ一つの言語の中だけでの自己認識」は、文献学(philology)的な知識であり、「他言語との比較における自己認識」は、言語学(linguistics)的な知識である、と言えるかも知れません。大学の学科や科目名を命名・呼称する際、前者の研究を重んじる場合は「国文学科・国語学」とし、後者の研究を重んじる場合は「日本文学科・日本語学」とするようです。

> ☆ 認識・見識・世界観などを涵養することにつながるものと信じます。
> ★ そうなんですが・つまり そのことにマチガイないと考えたあとでなのですが それでも《世界観》のように全体観としてのものの見方については 言わば言葉を超えて 何がしかのヒラメキのおとづれ〔を受け留め受け容れたこと〕によって それをかたちづくる。といった見解もあり得るように思うのです。
> その意味は したがって――母語については大いにまなびますが――外国語は知らなくても そのような《もののあはれを知る》といった世界認識は得ることが出来るかも知れない。
⇒そうですね。「何がしかのヒラメキ」や「世界認識は得ることが出来るかも知れない」ことはおっしゃるとおりだと思います。ただ、その場合言えることは、「少なくとも1つ以上の言語的下敷き」があってのことでしょう。この点について私は、外国語の知識を絶対的な前提条件だと主張する考えはありません。「言語的束縛がある」とだけ申しあげておきます。時に我々は、「言語とは無関係に概念が心に浮かぶ」ように感じることがありますが、基底に言語の働きがあることを忘れているんですね。空気の存在を忘れるように、言語の存在と働きを忘れた結果の錯覚でしょう。言語を所有しなければ、それによって構成される概念を抱きようがないはずです。

> ☆ 言語はすべからく、有限個の材料を使いながら、無限の表現を可能とします。つまり、閉じた体系でありながら、無限へつながる開いた機能を有するということで、そのあたりの仕組みを学習する過程で我々は無意識裡に頭脳を鍛えていることになります。
> ★ と言っておられる論点は どうか?
> わたしなどは 少し違った角度から こう考えたりします。すなわち 書きことばの効用があるのではないか?
> すなわち 文字の効用ですね。
⇒おっしゃるとおりだと思います。けだし、「文字も言語のうち」ですから。違うことは、音声が「第一の記号」であるのに対し、文字はその音声の記号化ですから、「第二の記号」もしくは「記号の記号」ということになる、ということだけではないでしょうか。

> 最後の段落でも 言語の持つ大きな役割と言語による人間の拘束というあり方とを ひっくるめて捉え 論じておられるようですが これは なおわたしにはピンと来ていません。役割りの重大さには納得し支持しますが。
⇒当然ながら、我々は言語を使って考えます。ということは、逆から言うと、「言語を使ってしか考えられない」ということのようで、ある意味「言語がなければ考えられない」ということでもあります。「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」とサピア・ウォーフが言ったとき、これを「仮説」(hypothesis)としたのは、実験などで検証してみることができないからでした。しかし、これが「理論」とも言えるほどに確からしいことが、いろいろな形で明らかになっています。
例えば、これはフランスであったことです。ある人が交通事故で言語中枢(大脳の左額第三回転部)を破損しました。リハビリの手始めとして、「色の識別」をやりました。床にばらまいた赤青黄の色紙を、それぞれ同じ色の赤青黄の箱に分けて入れるように指示しました。結果はめちゃくちゃでした。「すわ、色覚異状」と考えて、あらゆる検査をしましたが、何ら色覚異常はありませんでした。何が問題か。やはり「言葉を失ったため」、という結論になりました。例えば、赤を識別するとき我々は、「血の色、太陽の色、ある種の花の色…に共通な要素」というような意味づけの記憶に基づいて行う。カシオペア座はWの形をしている、北斗七星は柄杓の形をしている、などの意味づけがあるからこそ、それぞれ識別できるわけで、それがなければ無数の星のうちの幾つかとしか認識できません。(なお、幸いなことに、言語中枢を失っても、周辺の脳にその機能を移転することができるそうで、上例の場合も長年のリハビリの結果、ほぼ日常生活には支障ないほどまでに回復したと聞いています。)

そんなわけで私は、再度確認させていただきます。「人間にとって、一般に言語(外国語と限りません)は大きな役割を持つ」、「人間は、特に知的営為において(普段自分の使っている)言語によって強く拘束されている」。その意味で、我々にとって言語の学習は、極めて意義の深いことである。

以上、再伸まで。

投稿日時 - 2014-08-19 11:47:02
お礼
 つづきましてのご回答をありがとうございます。


 そうですね。乗りかかった船ですので 《母語ひとつによる思想の充実》派に立つことにしますが:

 その場合には 

  文献学ひとつで研究・思索をおこなうにとどまる。
  比較対照をとおしての言語学には届かない。
  国語学と日本語学との違いである。

 ということのようですが そうですね 父と兄との世界認識の違いというタトエで考えてみます:

  父はひとつの道のりしか知らないとき それでも
  道はずっと続いていますから
  知っている道のほかにも 道はいくつかあるのだ
  とは知っています。当然です。

   母語のほかに 外国には 違った言葉が話されている
  とは知っています。

 とすれば そのようにブラックボックスとなっているということは 承知しているわけです。それを知る可能性は 潜在的に じつは開かれています。

 このような言わば《心の明け――つまり 閉じていないということ――》が じつは とうといものであると考えられませんか?

 ★ 「他の同類との比較から把握できる自己」、すなわち、「自己の特徴・特殊性・平均値との関係…」などは分からない
 ☆ というところのブラックボックスは 父にとって わくわくする未知の要素ではあっても 自己閉鎖的になるものではない。(なる場合もあるけれど それは 決まっていない)。

 ぎゃくに 外国語をふたつ・みっつ知ったという場合 それによってブラックボックスが確かに開いた。けれども そうして未知でなくなり さらにはわくわくすることがなくなったとすれば むしろそのことが こわい。かも知れない。知ったかぶりになる可能性が出て来るから。



 おそらく 知らないより知ったほうがよいと考えますが 知った場合のほうがつねに有益で有利な立ち場にあるとは 必ずしも限らない。とまでは 留保条件をつけたほうが よいのでは? という物言いだったでしょうか。




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 この点について私は、外国語の知識を絶対的な前提条件だと主張する考えはありません。「言語的束縛がある」とだけ申しあげておきます。

 時に我々は、「言語とは無関係に概念が心に浮かぶ」ように感じることがありますが、基底に言語の働きがあることを忘れているんですね。空気の存在を忘れるように、言語の存在と働きを忘れた結果の錯覚でしょう。言語を所有しなければ、それによって構成される概念を抱きようがないはずです。
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 ☆ 《言語的束縛》について少し分かったように思います。

 たとえば あたらしい造語の場合を考えてみます。
 それまでの思考の枠組みからはみ出したイメージを得て これを概念化し言葉としても表わす。

 このとき それまでの概念≒ことばとは違った何かあたらしいものが 言い表わされることになりますが それでも そのために用いられるのは いままでにあった言葉である。概念のズラシなどが ともなわれている。

 たとえば アマアガリと言えば それはまだ市民権を得ていませんが およそあたらしい概念として分かるはずです。市民から公民への出世のことです。もっぱらの公民たるアマテラスに成ることです。末は博士か大臣かといったようなことです。

 さらには アマアガリ・シンドロームと言っても だいたい分かるのではないでしょうか。
 これは スサノヲ市民が生活日常で使っている・あやまちうるスサノヲ人間語の世界から あやまち得ないアマテラス普遍語の世界へと転出し変身することを言っています。

 普遍語とは 科学語でありそれに裏打ちされた倫理規範の言語です。(アマテラス科学語およびアマテラス人格語です)。が もし仮りにこの普遍規範語のみを駆使するようなお役人ことばの一色になるとしたら それは やばい。片寄った言葉しかしゃべることが出来なくなる。よって 症候群である。

 要するに アマテラス公民は 自分たちのあやまちを認めようとはしませんね。それを指して シンドロームと言います。一般に市民もが そういう傾向を帯びるなら 症候群だと言えると考えます。

 《あやまちうるスサノヲ人間語 と 普遍性をもとめるアマテラス科学語との人間人格的で構造的な配置》が のぞまれます。



 といった事例を出しましたが これは 確かに従来までに使われていた言葉をあらたな概念として用いた。に過ぎない。その限りで ひとは言語に拘束されている。ですね?


 ただ。ただです。ただ このようなあたらしい知見〔だと思うのですが〕は ひとつの言語たる母語の中でだけでも 得ることは出来る。かも知れません。

 ――といったことを 問題提起しましょうか。





 次のご議論にも なお疑問を呈しましょうか。

 ★ ・・・リハビリの手始めとして、「色の識別」をやりました。床にばらまいた赤青黄の色紙を、それぞれ同じ色の赤青黄の箱に分けて入れるように指示しました。結果はめちゃくちゃでした。
 ☆ この事例にかんする限りでの質問ですが:

  この事故による脳の障害者は
  赤青黄という色のそれぞれの名(ことば)を知らなかった
  だけであって 

  色紙の赤と青と黄とはそれぞれ区別したのでしょうか?

 という問い返しです。もし区別は出来たのであれば ただその色の名(ことば)を知らないようになっただけではないか? です。


 言いかえると そこでは ふたつの領域があって それらの分類があいまいになってはいないか?

 すなわち 知覚としての――知覚としてだけの――色の識別なる領域と そしてそれらの色を言葉で区別しつつ悟性や理性やで識別する領域とのふたつです。
 
 言語中枢を失った場合 感覚による識別はしているのかどうか。そして ただし 言葉による区別はすでに出来なくなったことは 事実としてある。


 まだ分かりませんが 
 ★ 「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」とサピア・ウォーフ・・・〔が言った〕・・・「仮説」
 ☆ は 知性の領域の問題であって 五感についての領域には およんでいない。ように思うのですが どうなのでしょう?

 もののあはれを知るのは 理性もかかわっているかと思いますが 身と心との全体としての自然本性にもとづくのであろうと考えられます。そしてどちらかと言うと 身のほう・つまり感性のほうに〔も〕 重点が置かれてもよい。こう考えています。