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哲学いろいろ

なぜ、日本人にとって、愛と神とは結び付かないのでしょうか?

oshiete.goo.ne.jp

1. ギリシャ人は 愛をいくつかに分類していたようです。

クリスチアニズムは その言葉≒概念を利用したとされています。

▲ (ヰキぺ:愛) ~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B

① ストルゲー  στοργή  storgē
キリスト教では家族愛。
古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛、であった。)

② エロス  έρως  érōs
キリスト教では性愛。
古代ギリシアでは自己を充実させる愛、であった。)

③ フィーリア  φιλία  philía
キリスト教では隣人愛。友愛。
古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。)

④ アガペー  αγάπη  agápē
キリスト教では真の愛。
古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛、であった。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 


2. ふつうは ④のアガペーが 神ないし神の愛に関係づけられているものと思います。

3. そしてもし そもそも《愛》が 存在をとうとび大切にすることだとすれば 言わばその生命現象としてこれら四つの愛がいとなまれるとする限りで すべては――生命のみなもとである――神にかかわるものと考えられます。




4. 日本でも ブディズムを受容したからには 《慈悲》としての愛が 三つに分類されています。

▼ (ヰキぺ:慈悲) ~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

三縁慈悲
(ⅰ) 衆生縁: 衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。

(ⅱ) 法縁(ほうえん): すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ苦を逃れ楽を得ようとあがくのをみて、抜苦与楽せんと思う心をいう。

(ⅲ) 無縁: 慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

5. (ⅲ)の無縁慈悲が 神の愛に相当するように思われます。



6. そして 固有の概念を必ずしも持たなかったとすれば 日本人にとって 愛なる概念は よそものであったと見られるかも知れません。



7. 《思いやり・慈しみ》などという場合――わたしの感覚ではの話ですが―― 何かその根っ子にさらに大きなチカラのハタラキがあるように思われます。

8. 単純に言って やはり《いのち》です。このハタラキとして人びとは 自然の環境やものごとと・あるいはほかの人たちそれぞれと あたかも未分化一体であるという感覚を 持っている(いた)ように思われます。

9. この自然に起きている感情ないし情感が 言うなれば現代語で言う愛のことではないかとも推し測られます。


10. ★ なぜ、日本人にとって、愛と神とは結び付かないのでしょうか?
☆ 自然との親和性あるいは人びと相互の一体感は――いのちにかかわると見るかぎり―― 神にかかわっていると思われます。

11. そしてこの未分化一体感が なくなってしまったとすれば 愛と神とが結びつかないでしょうし その感覚がなおある場合には 意識していないとしても 愛と神とは結びついているように思われます。

11-1. 八百万の神々というのは この愛の個々の具象化とかかわっているかに思われます。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<9. この自然に起きている感情ないし情感が 言うなれば現代語で言う愛のことではないかとも推し測られます。>
<自然との親和性あるいは人びと相互の一体感は――いのちにかかわると見るかぎり―― 神にかかわっていると思われます。>
<その感覚がなおある場合には 意識していないとしても 愛と神とは結びついているように思われます。>ですね。

お言葉を返すようで恐縮ですが、なぜ、日本人は愛を表に出さないのでしょうか? 日本人はなぜか神を愛することに少なくとも表面上は無関心・嫌悪している、と思いたくなります。自慢することを嫌うような奥ゆかしい気質が作用しているのでしょうか? あるいは神なぞは愛していない、のかもしれません。
ただし、日本人にとっては目上の人(神)には、なぜか、愛という言葉を使わない・使えないのかもしれません。上司にご苦労様とは言えないように。愛になぜか方向性があるようですね。

 

★ (№9お礼欄) お言葉を返すようで恐縮ですが、なぜ、日本人は愛を表に出さないのでしょうか? 


☆ 自然との交感( correspondence )もさることながら 人間どうしのあいだの一体性が――けっきょく以心伝心のような一体感が――成り立っているなら 特に言葉にして表現することも要らないと見られたものと思われます。


その《とうとび や 思いやり》の事態を 特別に《愛》というような概念として認識する必要もなかったかも知れないですし あるいは《慈悲》のごとき倫理に深くかかわる理念としてかかげることにもなじまなかったのかも。


要するに おれとおまえの仲を 必ずしも友情や愛情といった概念としてすら捉えず 言語以前の情感という現実のままにとどめていたのだし それで何の不都合も不便も感じなかったのでしょうか。

生活の中で大事なことは一般にむしろ《言挙げせず》と言い慣わしていたように思われます。


△ (柿本人麻呂歌集:万葉集 巻十三 3252番) ~~~
https://manyoshu-japan.com/10325/

葦原の 瑞穂の国は
神ながら 言挙げせぬ国

しかれども 言挙げぞ我がする

言幸く ま幸くませと

障みなく 幸くいまさば
荒礒波 ありても見むと
百重波 千重波しきに
言挙げす我れは
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 遠くへ旅立つ友を見送るときの言葉として のようです。






★ 日本人はなぜか神を愛することに少なくとも表面上は無関心・嫌悪している、と思いたくなります。
☆ ただし 言葉に出さないだけであって たとえばあたかも神への感謝や祈りを持つときには 手を合わせることをします。

わたしはしないのですが 食事のときにも手を合わせまたお辞儀をしますね。クリスチャンの家庭で 神に感謝を言葉に表現してささげる場合に当てはまるかに思われますね。




★ 自慢することを嫌うような奥ゆかしい気質が作用しているのでしょうか? あるいは神なぞは愛していない、のかもしれません。
☆ 《成り行き》という自然史過程――つまり 人間の意志行為がおこなわれ互いにそして縦横斜めに幾重にも絡み合って織り成すところの構造的な過程・そのときにはすでに個人の意思や行為とは直接のつながりが分からなくなったかたちの歴史過程――の中に 神のことは埋もれているような恰好に見えます。運だとか偶然性だとかの表現も使うようですね。





★ ただし、日本人にとっては目上の人(神)には、なぜか、愛という言葉を使わない・使えないのかもしれません。上司にご苦労様とは言えないように。愛になぜか方向性があるようですね。
☆ あぁ。なるほど。これは ちょっとむつかしいですね。

上司に対して 尊敬していますという意味でであったとしても 愛していますとは 言わないですね。なじみませんね。



ただし たとえば恩を受けたことはおぼえていて 何か機会があれば その恩返しをおこないますね。これは 広く言うとすれば 愛でしょうね。


★ 愛になぜか方向性があるようですね。
☆ 表現の上で――つまり 言葉による表現としてそうだし おこないとしての自己表現としてもそうだと思われるかたちで―― 愛のあり方が必ずしも一様ではないようですね。

追って考えたいと思います。保留します。このあたらしい主題をありがとうございます。
 
 
この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
前回のお礼欄に支離滅裂なことを羅列して、今読み返すと赤面の至りです。
<く以心伝心のような一体感が――成り立っているなら 特に言葉にして表現することも要らないと見られたものと思われます>ですね。
<《愛》というような概念として認識する必要もなかったかも知れない>ですね。
<生活の中で大事なことは一般にむしろ生活の中で大事なことは一般にむしろ《言挙げせず》> 今でも《言挙げせず》が生き残っているのです。

く以心伝心のような一体感が――成り立っているなら 特に言葉にして表現することも要らない>ですね。
<その《とうとび や 思いやり》の事態を 特別に《愛》というような概念として認識する必要もなかったかも知れない>ですね。
<《成り行き》>を重要視し<神のことは埋もれているような恰好に>ですね。
<言葉に出さないだけであって>ですね。
浅い奥行きのない質問に対して懇切丁寧な回答を頂き、疑問点がかなり解消いたしました。

1. あらためて考えてみました。



★ (№9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
なぜ、日本人は愛を表に出さないのでしょうか? 
・・・
自慢することを嫌うような奥ゆかしい気質が作用しているのでしょうか? あるいは神なぞは愛していない、のかもしれません。

ただし、日本人にとっては目上の人(神)には、なぜか、愛という言葉を使わない・使えないのかもしれません。上司にご苦労様とは言えないように。

愛になぜか方向性があるようですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. 《感じる(情感)》と《考える(知性)》とをわざと区別すると 日本人のあいだでは 知性を――思考であらわすよりは――情感にとどめたままその情感の共同性の中にあること(共生)に問い求めたのかも知れないですね。

3. 人が二人集まると その二角関係は まなざしを上からそそぐ側と下にあってそれを受け留める側とに分かれる傾向があります。

4. 情感の共同性として 互いの気持ちや思いを或る程度分かり合っていたとき なお知りたい・まだ分からないところがあると思ってその答えとなる内容を言葉にして表わすのは 目上の人の側になるようです。

5. 目下の側は 答えがたとえ分かったとしても まづは問い求める側にまわると思われる。

5-1. 同等・対等な関係のその平等性は 一般にユヅリアヒとなって互いに自己表現することに現われると思いますが いかんせん人間の住む世界は 相対性の中にあってものには順序があるわけですから 二角のいづれか一方が一秒でも先に話を始めることになります。

5-2.そのとき肝心なことは ふつう目上の側が先に語り始めるものと思われます。(これ自体で 平等性がそこなわれるとは思われません)。

6. このとき 情感の共同性じたいが 言わば単位的な人間関係としての二角のあいだの広義の愛なのだと思わるのですが その愛についても――そもそも《愛》と呼ぶこと自体がなじみませんが―― 目下の側からは 言葉にして表現することはない(少ない)。ということになるのでしょうか。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
お手数をお掛けして恐縮しております。
<日本人のあいだでは 知性を――思考であらわすよりは――情感にとどめたままその情感の共同性の中にあること(共生)に問い求めた>
のかも知れない>のですね。>
<言葉にして表わすのは 目上の人の側に>
なるようです。>
<目下の側からは 言葉にして表現することはない(少ない)。>のですね。
外国のことは実際に体験したことがないので、知ったかぶりでしか言えませんが、日本人(日本)の特性が、(普遍・公平無私と考える)神との間にも隠しようがなく露呈するのですね。