caguirofie

哲学いろいろ

#150

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》

第五節a アマアガリの時間からもたらされる快活な恐れ

アマアガリの時間をたしかに見出してのように 身体を離れず あの快活な恐れをも辞さず あるいはむしろ この快活な恐れを与えられそれによってみちびかれてのように 前進する人 それは この章の主題によって言うならば 《妻と共に》であったわけですが この《妻籠みに》の内容が 《妻を籠もらせるために》(つまり《罪を犯すならば 死ぬであろう》)から 《妻と共に》(つまり《罪を犯さないために 死ぬべきである》)へと変容する史観の内実にかんしては さらに後の考察へと延ばすことにして――もっともそれは 誰もが 経験的にも承知している現実(あの国家による第一の死を経たのちの現実)ではあるのですが――
快活な恐れの内容(過程) つまりアマアガリの時間を さらに基本的に省察すべきかと思います。(《妻と共に》を言うばあいも あくまで これが大前提)。また この今 問い求めるものは 必ずしもそのもの自体の内容としてではなく――おそらく そのもの自体を 実体的に 表現しようとすることは あのアマテラス者のA語概念とある意味で 相似するかのように たとえばそれは 《無感覚・アパテイア》の情態を問い求め記述しようとするかのようであり むしろ無味乾燥となることを 免れないかと思われる。だから アマアガリの時間そのものの実体がどうであるかを――むしろ この地上の生において このアマアガリを阻止する者 すなわちわれわれをアマアガリへとみちびく神に敵対する者 また偽りのアマアガリへみちびく者(それは 《アマアガリ・つまりまた死からの復活》と言うからには 《光の天使》のように見える) これらとの関係過程を観想することによって 思惟すべきでしょう。そうなると考えます。
《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》のでない時間的存在の時間過程 これを あたかも敵対する徳(人間の目から見て徳でありうる。アマアガリにとっては悪徳)と捉えてのように 明らかにしてゆくということ。人間の人間による徳にも 虚偽が潜むであろうということ。これを 内的に捨てるというほどに アマアガリの時間を問い求めてゆかねばならない。しかしいまは すでにあの快活な恐れに支えられてのように・・・。
たとえば 《高慢》(アマテラスオホミカミは スサノヲがそのA圏に立ち寄るのは かれが その国を奪いにやって来たのだと考えた。そしてそれは 人間的な恐れから来る。また この情念は 自己によって自己を高める〔アマアガリさせる〕という高ぶりなる意志〔自由意志〕に発する)について。

最初の人間たちがあらわな不従順に陥る前に すでに隠れたところ(精神の秘所たるやしろ そしてそれは意志〔愛欲・愛とも〕でかれらの悪〔善すなわち従順 からの逃避〕。逃避じたいが悪いというものであり そのあと何かを為したというその事柄では必ずしもない)は始まっていた。すなわち 悪い意志が先行しなければ かれらが悪い行ないに至ることはないのである。ところで 悪い意志の始まりは高慢以外の何であろうか。
実際 《すべての罪の始まりは高慢である》(知恵の書 10:15)と言われている。その高慢とは 転倒した仕方で高くなるのを求める以外の何であろうか。

  • つまり 《S者‐A者》連関を A者単独優位論(たとえば古くは 男尊女卑)に立って 《A者(先行主導)‐S者》連関としてのように 身体を離れる。つまり 空気のような身体をもって この《S‐A》連関なる主観を あるいは観念共同 あるいは客観共同と為して 倒錯させるのである。むろん身体をまったく離れるわけではないだろうから 《専門A者》としておおやけの席では 離れるのである。転倒した仕方でのアマアガリである。

転倒した仕方で高くなるとは 霊魂(A者)が固着すべきものを捨てて いわば自分が始原となり 始原であるということである。

  • 《国家(A‐S連関体制)成立後のむしろA圏のやしろである伊勢神宮は 日本人の魂のふるさとであり その始原である》というのが 共同観念の偽りのアマアガリである。むろんそとのとき 伊勢神宮は もともとS圏の一つのやしろであった。これに対し 客観共同なる自分を始原とするというのは 物質的にしろともあれ自己という存在・もしくは《われ知解する ゆえにわれあり》と言ってのような理論 これによって自分が始原となること。われわれは これらに対して 恐れなければならない。つまり そのような思念を捉えたとき これを恐れ 相手または自己を愛さなければならない。

それは霊魂が自分を大いに楽しませる時に起こる。しかしその頽落は 自発的である。なぜなら もし意志が自分よりも高い不変の善――霊魂はそれを見るために照らされ それを愛するために燃やされる――への愛に常にあり続けるならば それにそむいて自分を楽しませ そのために暗くなり冷たくなることはないからである。

  • 客観共同の理論と実践 あるいは観念共同の情感共有性と実践 これらに自己の愛を――だから それは 外的にだ―― 用い尽くしてしまうとき 人はその精神が弛緩し自己の力が失われているのに気づく。この死からのよみがえりが アマアガリであった。それは 神の愛 つまり人間の愛――《誰も自分はどうすればよいのか分からないと言ってはならない。人を愛させよ。そうすれば この愛を愛するとき 復活する。なぜなら 神は愛であり 生命の仲介者だから》――によって成就するのであった。

しかしこの頽落(墜落・第一の死)が起こったのは 女が蛇の言葉を真に受け あるいは男が神の命令よりも妻の願いを大切にし たとえ罪の仲間になろうとも人生の伴侶を捨てるのは 戒めに違反する許されない行為であると考えたことによるのである。

  • したがって ここで 《愛のおのづから起こるときまでは / ことさらに呼び起こすことも / さますこともしないように》が 聞かれる。だから 離婚の問題 あるいは一昔前までのように《妻を籠もらせるために》といった男女双方からの〔不〕貞節の問題は A圏のやしろとしての伊勢神宮の問題であり(江戸時代 お伊勢参りのときは 不貞を働いてもよいと考えられていた) また同じく イヅモのスガの宮のそれでもある(ここでは 共同観念としての《縁結びの神 出雲大社》というミヤ・やしろが むしろ始原とされるようになった)。しかしここで 《身体(S者・S語・S圏)を離れて アマアガリはない》が 同時に聞かれるのである。

・・・
そこで聖書によれば 高慢な者は別の名で 自分を楽しませる者と呼ばれる。というのも 心を高く挙げることは善いことであるが 人は自分自身に向かうことによって高慢となってはならず むしろ神に向かうことによって従順となるべきである。これは謙虚でなければできないことである。

  • 人は 愛によって 謙虚となる。伊勢神宮や出雲大なる顔蔽いを取り除くのである。これは むしろ無知なる人びとによって可能である。なぜならこのような――このような――共同観念の顔蔽いはすでに取り除いていると思っている人びとは 共同観念を軽蔑しているからである。共同観念の顔蔽いを取り除いて むしろその以前の始原の共同主観を見るべきことと 共同観念を軽蔑しここから離れて 精神的に 別のところで 共同主観を問い求めようとすることとは 別のことがらであるから。しかし S語に従うならば またそうして《愛がおのづから起こ》ったと知るならば この愛を愛し それに固着すべきである。むろんこのとき この愛にあこがれることと 愛を愛することとは ちがう。前者は 未熟なS語であり 後者を行為するなら 人は自分自身に向かうことによって この愛から あたかもその中からA者を取り出してのように おためごかしのようにそのA者の力によって アマガケリゆこうとする。そこで 《妻あるいは夫をこもらせるために》八重垣を作ろうとする。八重垣(やしろ)を作り心を高く挙げることは善いことである。がここでのかれのA者単独主導性(おれについて来い)は これにもう一重の掘りをめぐらして それを九重(禁裏)とするのである。(おれについて来いと言った男も 言われた女も 同じくそうするのである)。

神の国について 14・13)

(この引用文の途中で一たん区切ります)。

(つづく→2007-10-13 - caguirofie071013)