caguirofie

哲学いろいろ


Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

回答No.48

回答者: bragellone 回答日時:2016/08/30


№40を承けます。


★ 「寄る辺を失う」ということは不思議なことではないはずです。
☆ ≪失う≫には 受け身の場合とおのれの意志行為としてみづから
そうする場合とがあります。


受け身の場合にも そのことに甘んじるというみづからの能動的な
意志行為が――未練問題を別とすれば―― あとでともないます。


≪むつかしく考える≫のではありません。 
また≪寄すがを失くすことは 生活現実の基軸から外れることです
から 現実原則の乱れないし崩壊≫についての話でありそうとすれ
ば ≪芸術的感興≫の問題として考える主題です。



しかし問題の中身は かんたんです。
★★(№29お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
もうお互いに差し出す手も差し伸べる手もないと知った時に、〔い
とまごいをすることによって〕「情が移る」ようなことをすれば、
結局双方が辛い思いをしなければなりません。


言い換えれば、情があるから言葉を掛けないのではないでしょうか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ これによりますと 次のように整理できましょう。


1. ≪寄る辺を失ったと自覚したそのあと なおいとま乞いをする
余地が残っている≫という見方である。


2. ≪いとま乞いをすると 失った寄る辺なる親友とのあいだにそ
の人情や友情や現実原則なる心がよみがえるかも知れない≫と見る心
がある。


3. そこで ではその自死選択者はなぜ言葉をかけなかったか?
――それは ≪情がよみがえる可能性があるだけではなく なお情が
あるから≫だという見解である。


4. 以上のように整理しうると考えるのですが わたしの見方と
しては (3)において異なります。


5. すなわち かんたんです。≪なお情があるから もう・なお寄
る辺に返り咲くかも知れない親友には声をかけず顔を見ないという。
だとすれば それはそのように自分が決断した≫ということです。


6. ≪いとま乞いをせずに自死の行為におよぶのだけれど 情がな
お蘇えり得るという思いがあり・しかも実際になお残っている。その
ような現実原則にもとづく心が残っている。そのとき この現実原則
なる心をみづからがころした。のである。だから 失くした≫と見ま
すし そう見るよりほかに見方はないでしょう。


7. すなわち こうです。≪自殺しても悲しんでくれる人がいない≫
とは思っていない。けれどもその思いをみづから振り切って 自死
えらぶ行動を起こす。です。


8. たぶんあなたの場合には この≪情のかよう生活現実の場を去る
という親友に みづからへの信義をやぶる許可をあたえた≫のだと。


9. けれども 自死の道は 信義をやぶることに変わりはありません。


10. このように考えるわたしの立ち場は 次のようなのでしょうか?
★(№40お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
言い換えれば、確固たる「自我」が常に自己を制御・コントロールし得
るし、苦痛から逃れるために自死するということを、「一種の殺人」で
あり「信義にもとる」という現実原則の見地から、人はそれを断念・回
避したり延期したり、または迂回したりしなければならないという立場
です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


11. むしろ自死者こそが ≪情を振り切り友情をみづから壊すこと
になっても仕方がない≫という≪自我の人≫なのではないでしょうか?


12. おのれという人間をころすのだという強い自我に立ち 人とし
ての気持ちや心の持ち主たる自己を制御・コントロールし得ると見てい
るし それを実行したのは 誰か?


13. わたし自身は 現実生活たる場に未練があるので みづからを
よう殺さないというだけのことです。≪自殺を断念せよ・延期せよ≫など
とは ひと言も言っていません。


14. いまにも去ろうとする人に 一たんひととおり現実の世界へ引
き戻しそのわけを聞くことはするが それでも去るという場合には 好
きなようにさせる(ただし わたしの近所では避けてくれ)という立ち
場についてすでに説明しています。
★☆ Do not Judge my choices, without understanding my reasons...



15. ★ (№40お礼欄) 優れた映像作品や文学は現実原則を破
ります。ゆえにそこに感興が生まれます。
☆ そうではありません。その生活現実から離れたという事情を描きそ
れについて 実際の現実原則のあり方を問うているのです。信義を破っ
た だから 万々歳! というような芸術はありません。


16. ★ (同上) 人間はイレギュラーな言動をするものです。そ
れを「理」に基づいて、「あり得ない!」と言ってしまえば芸術は不要
です。芸術的感興は疑似的な現実原則からの解放です。
☆ ここでは 現実原則が≪擬似的≫だという見方が 出て来ています。
ぢゃあ 擬似的でない生活現実もある(その理念的なあり方も可能性が
ある)と言っていることになります。


17. つまり 現実原則について細かく仕分けをしそれらの是非を問
う。そこに芸術的感興とともに文化的意義をも帯びる。


18. 安易な≪解放≫を描いたところで 人間の理性は満足しません。
≪イレギュラーな言動もあり得る≫と言いそれを映像で示したところで
人間の心は満足しません。


19. 人間が満足するのは しかるべき生活世界の構築とその場への
復帰です。


20. ≪現実原則を破った≫姿を映し出したから芸術的感興を堪能した
ととなえるのは けっきょく現実逃避であり それはいわゆる現体制を
擁護し 人びとよ 現状に甘んじよと説くことになる≪ガス抜き≫の立ち
場です。≪権力の犬≫というやつです。



★ ところで、先の「父の死」というのは誰かの小説の一部でしょうか?
それともぶらじゅろーぬさんの創作ですか?
☆ №24ですが おおむね実体験にもとづく創作です。それほど詳し
い話を聞いたのでもないので 推測を交えています。父の自殺と子ども
らの迷惑(文字どおりの迷い惑うこと)は 実話です。