caguirofie

哲学いろいろ

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 

 ★ あなた様の「道理」は「定義」が不確定だと思います。
 ☆ これは ごもっともです。そもそも 定義していませんでした。



 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   >道理なら ひとにとっての筋道なのだから ただちに分かり合えるはずだという向きには この場合の道理とは いわゆるジョウシキなのです。と言わねばなりません。

 これが「非常にオカシイ」から議論がスカスカだ。
 あなたは「常識」を肯定しているのか、否定しているのか、それとも「どうでもいい」と諦めているのか分らない。
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 ☆ この場合の《推論のオカシサ》は 道理をジョウシキと言い換えたとき そのジョウシキというのは 初めに《ひとにとっての筋道》だといちおう定義した道理そのものを じつは 言っていないことにあります。

 おかしな運び方になっていました。つまり その意味は そのあとに出て来るかたちになってしまった。
 ☆☆ (趣旨説明欄)  4. すなわち その場合のジョウシキというのは よいもわるいも一般のナラハシです。それは 必ずしも倫理的な推論や学問一般による裏づけがあるとは限らないと来ています。そういう場合が多い。
 ☆ 《よいもわるいも》とつけ加えたことで――つまり 《よい》を付け加えたことで――初めの定義による道理の言い換えであるというかたちをかろうじて保ちました。

 そのあと 《それは 必ずしも倫理的な推論や学問一般による裏づけがあるとは限らないと来ています。そういう場合が多い》という見方に転じて このナラハシとしてのジョウシキは 《道理》一般であるとは限らない。というふうに言おうとしていたようです。

 話の進め方が オカシイ。その点 おわびして いま述べたように見直したいと思います。それで どうでしょう?

 ★ あなたは「常識」を肯定しているのか、否定しているのか、それとも「どうでもいい」と諦めているのか分らない。
 ☆ 学問的な裏付けのないジョウシキ 言いかえると 世界に広く通用する普遍的なジョウシキではない部分が大きい。それは ダメだと言おうとしています。

 したがって そのような狭い・または浅いジョウシキに従った日本人式対話のやり方は まづい。いただけない。といった結論へみちびかれます。




 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   >このような場合の日本人の対話というのは けっきょく自分自身の考えは打っちゃっておいて相手のそれに合わせたりする。それが むしろ対話のおもな内容となる。

 それはあなたの勝手な思い込みで「データ」が無い。
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 ☆ むろんわたしの主観における判定に成るものですが これには じゅうぶんな実例があると思っています。

 この質問の前身ともいうべき質問でのやり取りが それです:

 【Q:他人の言葉で 心が傷つくか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8705015.html
 
 ひとりで多数の回答を寄せている場合のやり取りは 《カスカス》であるとお分かりになると思います。



 ★ 確かに日本人の会話は密度が低い、だがそれは「日本語」という「母国語」が含む「性格」であって「捨てる」ことが出来ない。
 ☆ これにつきましては 真っ向から反対です。

 【Q:日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8690362.html

 ☆☆ (その趣旨説明欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ・・・
 ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく 
  (β−1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは
  (β−2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。
 といった要因があるのか。

 ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。
 それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。
 ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?
 ・・・
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 ☆ おおよそのかたちですが 言語表現として日本語には――けっきょくにおいて――罪はない。それを使う主体の思考の問題であるという結論ですが どうでしょう。

 
 ★ 日本という国の将来を憂慮するなら、現代用語の基礎知識」を全部「定義」からやり直し、古典を重んじている「広辞苑」に「最近の言葉」を「加えなければならない」・・・
 ☆ という方向に反対はしませんが それよりも何よりも けっきょくはやはり同じく回りまわって《ナラハシ》に問題になるのではないか。その質あるいは中身が問われる。ということだと考えています。

 つまりは 《クウキ》にしたがうクセが どうしようもなく身に着いてしまっていて これを・つまりはやはりジョウシキをくつがえすには いわゆる《お墨付き》が要ることになる。言いかえると えらい人の承認や勧めが出て初めてあたらしいジョウシキに衣替えするようになる。しか道はないほどである。

 このナラハシの中に生きているかぎり ちょっとやそっとでは クウキはジョウシキをうたがってこれを批判することは

  

ANo.5


TANUHACHI
 嫌がらせもしくは挑発のつもりですか?。それでしたら、とんでもない言いがかりと同じですね 笑
貴方は常に自身の意見を説明する為に質問を繰り返しているようですが、それが回答者からの反発を生んでもいるのですよ。
 自分の考え方とは違うからといって、自身の考え方に我田引水的に誘導する手法はこのサイトでは厳禁事項です。
 こうした言葉を記せば、また貴方は例の如くに上品ぶってはいるがそれとは裏腹の高飛車な老人のつぶやきを投げ返してくることも当然予想済みです。
 先に「言葉は凶器にもなる」との言葉を使った当人が説明しますが、これは簡単な話です。言葉は話し手なり書き手の手を離れた瞬間に独り歩きを始めもする。
 だから哲学もその他の学問も、先ずはその「」言葉の真意」を確認することから始めるとの学問上のルールが確立されてもいます。マルクスがスミスを踏まえた形で経済分析を始め、フリードマンが経済学者にとっての「歴史と理論の関係」を三つに類型区分したことも、元はと言えば問題の原点を確認するとの意味合いからです。
 本題に戻れば、「言葉は相手を励ます道具にもなれば、凶器にもなる」との言葉は、相手の受け取り方によって変化もするとの当たり前の話です。極めてシンプルな話でしかありません。
 こうした話をすれば、また長口上で、結局はわけの分からない人を煙に巻くような禅問答をかえしてくることでしょうけれど、それは熨斗紙を付けてお返しします。貴方がそうした手法を採れないというのは、結局の所「相手の言葉を聴く資質に少し難がある」との問題であり、自らの花園でしか遊ぶことの出来ないアスペルガー状態と類似しているともいえます。

 人が貴方が依って立つ「論理的」とやらのみで、他者との関係を築けるかといえば、それは嘘になります。そして人が常に対話を求めているかといえば、それもあやしい。断ずるだけの根拠も必要でしょう。
 誰にも会いたくないとの気分がある、それが生身の人間ですよ。それを捨象化したり抽象化したりするから本質が見えなくもなる。まさに策士策に溺れるとの言葉を地でいっている形ですね。
 そして、自身の見解以外は全て拒絶することを原理主義と呼んでいます。貴方は「ブラジュロンヌがお送りする哲学もどきの哲学ごっこ」との原理主義ですよね。但しその芝居小屋には観客などおりませんが 笑

 「言葉は凶器になる」。この言葉はね、相手を傷付ける道具になるという意味なのね、解った?、言葉遊びのおじいちゃん 笑

投稿日時 - 2014-08-10 14:48:16
お礼
 あなたの言っていることは ガリレオよ 出しゃばるな! 勝手なことをしゃべるな! ではないのでしょうか?



 新知見について みなさんに問うのは 共生という基礎に立って まったくふつうのことです。




 あとは もしそこに意味があるとすれば その意味は 質問の問うていることにはまったく無関係です。
 わづかに関係するのは
 ★ 「言葉は凶器になる」。この言葉はね、相手を傷付ける道具になるという意味なのね、解った?、
 ☆ というトートロジーがあるのみです。

 おれが凶器だと言っているんだから 凶器なんだという堂々巡りです。



 したがって もし意味があることであれば ご自分で質問を挙げてみなさんから回答をつのるとよいでしょう。

 この質問に対する答えは 一向に見当たりません。

投稿日時 - 2014-08-10 14:59:03