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哲学いろいろ

原罪

わが信仰をもしひとに伝えるとなれば それは 比喩としてしか・あるいは広く物語としてしか できないはずです。もし仮りに言葉どおりに簡単に伝わったとすれば それは 人間の気持ちであったり 理論であったりするものでしかありません。
 それ以上の何かが伝わったという感覚をも持つときがありますが その感覚の内容を では また 言葉でどのように伝えるかが問題になります。

 こういうわけで すべては 表現の問題です。物語として伝えられて来ています。
 光は 曲がります。光も 曲がります。わが心も かなしいかな 曲がります。しかも じつは じつに わたしが曲げるのです。うそをつかなかった人間は いません。本心を曲げて いつわりの証言をしたりします。本心とは何かも 容易には 分かりませんが(説明できませんが) うそをつくときには やましさを感じるものです。気持ちよいものではありません。
 要するに このへそ曲がり 始原的にして普遍的なその曲げ これを 原罪と言ったのだと考えます。言いかえると へそを曲げる自由も 曲げない自由も どちらも備えた意志の自由を われわれ人間は 与えられていると捉えられました。

 へそを曲げるとき たしかに わたしたちは いわゆる良心の責めを感じます。ですが この世は 似たりよったりの人間が おもしろおかしく生きていくだけだ 寿命が尽きればあの世行き という考えになる人びとも出て来ます。
 こうなるとまた 一生のうちの《へそ曲がり》の積み重ねについて 死ぬときには清算して逝くのだというおとぎ話も紡がれます。良心は良心ですし 自由意志は自由意志として 大事なものだ。そういう主張も現われますし とうといものです。そうでないと 社会における人びとの振る舞いは 収拾がつかないことになります。
 交通整理は 必要です。最後の審判といった大いなる物語にまで 発展するかと考えます。
 
 さて 原罪をあがなったというイエスの物語は いくらか 毛色を異にしています。
 イエスというひとは ナザレ出身のふつうの人間でした。人間も――しかしながら―― 互いに 交通整理をする意志もあれば その能力もある。光は たとえ曲がっても 光である。腐っても鯛と言ったかどうか知りませんが さらに 光を超えた光もあると――もともと いわゆる旧約聖書をつうじて 言われて来ましたし―― 明らかにする仕儀にかれは 到りました。
 へそ曲がりを 曲がったへそのまま 包み(あるいは 覆い) 心も体も何ものかによって わたしたちは それぞれ掬われると言いました。人をすなどるとも言いましたからね。たも(網)で掬うというわけです。
 原罪というとげが われわれの良心には刺さったままになっていたのを この棘は引き抜かれたと言い この言葉のままを 生きました。生き切りました。そのように伝えられました。
 棘の刺さっていた患部は まだ 残されているかも分かりません。すでに癒えていても あざや ほくろや 蒙古斑のごとく 残っているかも分かりません。原罪というのは つまり原初のへそ曲がりというのは 現在 そういう状態にあると考えられます。

 ★ 原罪がないのに人が死ぬのはなぜですか?
 ☆ この肉(つまり いまの人間の精神=身体)から 何ものか分からない(それゆえ 霊と呼ぶ身体としての)かたちにおいて あらたに生を始めるという復活については 基本的には 将来すべきこととして臨むのが ただしいと言われます。
 突然変異があるのか あるいは もっと違ったかたちが現われるのかよく分かりませんが いま分かっていることは(憶測しうることは) たとえば百年の倍として 二百年 これくらいは ひとは 生きるようになるのではないでしょうか。二百年も生きれば だいたい《永遠》ではないでしょうか。
 むろん 丸めこもうとするのではありませんから 将来すべきことのほうが――《新しい天と新しい地》の物語のほうが―― 正統だと思われます。
 あとは ご自身が どう捉えるか これにかかっているのではありませんか。あるいは 人びとおのおのがそれぞれに どう思うのか。つまりとりあえずは 自由意志の問題でしょうし その自由意志は へその曲がることからも自由な こころの問題なのでしょうね。
 それには 心が清められなければならなかったと言われます。清ければ かみを見るゆえ 分かるようになるでしょう。どうでしょう。