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哲学いろいろ

第三項の排除

★ 排他性
 ☆ にかんする分析ですが これは 国家の形成という問題が いちばん 起点になっていると考えます。

 国家というものは 社会が 二階建ての構造になることだと わたしは見ていますが それは ひとりの人間の思惟・内省=生産・行為の形式に発していると考えられます。
 親が子らに対して 時には しつけの必要を思い 或る種の仕方で上からの視点をも持って 接するというとき それは 《二階建て》でしょうか?
 ところが 人間の中には どうしても 人間の群れを 階級に分けたいという欲求を持つ者が発生するようです。《クラス》のことですから はじめは さくら組・うめ組・きく組というふうに 並列・並立として 区分していただけなのでしょうが これが 階層構造を持つようになります。
 その起点は じつは 排他性では必ずしもなく 統合・統括の能力に発すると考えられるのではないでしょうか。つまりは クラスを統合し その一段上から統括するという・実に《経営能力》に発し それは 大きくは《愛》の行為であるとさえ捉えられます。


 江上波夫によると 農耕民族は この二階建て構造を 自分たちの社会(村)において 或る種の仕方で・という意味は 市町村次元の自治体として 持つことはあっても 村々を総括するようなかたちで・という意味は 国家という形態として 持つことはなかったと言います。
 クラスごとの指導者が出て みなが その者を支え クラスどうしで競い合い 互いに向上していこうとするという横に連関した経営形態ではなく そうではなく そこから 一段 飛躍して クラスの上へ上へと その想像力が飛び立って行った人間が 出た。これが 起点だと見られます。
 言いかえると 経営能力の特化 つまりは 専門的な経営者の出現という歴史的な事件です。

 江上波夫によるのですが トゥングース騎馬民族の考え方というのは 飛びぬけて特異だそうです。
 1. みづからは正体不明 (顔無しを装う)
 2. 目的を決め 結果を出すと決めるし その結果を出せばよいとする。
 3. 時にそのために手段を選ばない。 
 4. 手段を選ばずという選択をした場合にも 最低限のつじつまを――じつは とくに礼儀礼節のうえで――合わせられるように取り計らう。
 5. 経営に乗り出したところ〔の人たち〕に 自分たちは 同化してしまう。(顔は無い。しかし 顔が無いという顔を保守する)
 といったことらしいのです。
 これは 思惟・内省=生産・行為の形式として 特に経営能力をきびしく問うところの《ウタの構造》だと捉えられます。
 
 騎馬民族が日本に来たということではありません。そうではなく 国家の成立 この歴史的な事態には どうしても このような二段構造の《ウタ》が うたわれなければならなかった。のではないか。こういう一つの視点です。
 ここからの推移は もう かんたんです。
 二階建ての構造が出来上がれば あとは 礼儀礼節を重んじ 王化の徳を及ぼし 和を以って貴しと為すことになります。
 この出来上がった和を乱すものは 排除するという意味です。むろん 第三項として扱いますが いわゆる窓際には 居させるという愛を発揮するというものです。左遷扱いにしても ふたたび 呼び戻すことさえあるかも知れません。恭順の意を表明すれば いいのです。
 そういう包括および排除の構造です。統治術には きわめて 長けているのだと考えられます。
 クリスチアニスムも コミュニスムも 何やかやも 大きく日本教という愛の構造におさまる限りは 居心地がいいはづです。

 たしかに これは 排他性と見られるのではなく むしろ 包容力の大きな社会であり 経営能力に長けたアマテラス賢人たちが 知恵を尽くし知識を尽くし心を尽くして築き上げたあたたかい国であるというふうに 見られるのだと思います。
 という分析です。

 このエデンの園にあって 気力のない子どもは がんばれ しっかりせよと 愛の鞭としてのいじめを受けるのでしょうね。そういう思惟・内省=生産・行為の形式は われわれに刷り込まれているようです。《ウタの構造》だと考えます。