caguirofie

哲学いろいろ

お早うございます。

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8873741.html
 1. まづ タトエと推測とによって話を運ぼうとするお話です。というのが 前提です。

 趣旨説明を述べます。

 2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。

 3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。

 4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?
 
 5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。

 6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?

 7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?
 
 8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。

 8−1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象を分析しようとしているわけです。

 9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。

 10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 

 11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。

 12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。

 13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。

 14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。

 15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。

 15−1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。

 16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。《ウリナラ・ファンタジー》。
 
 17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロになり 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?
 
 18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。

 18−1.ひとつの解説をすでに得ています。
 ◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。

  1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程
  i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程

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 19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。
 
 20. というふうに推し測った仮説です。

 いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。



 21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?
 
 22. つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。

 23. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張っている。言いかえると ゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なる桃源郷に避けどころを見出そうとする心の動きである。

 24. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは おこなわないようではある。

 25. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は捨てよう。

 26. なおこの設問は 《存在とは何か?》なる問いに答えようとする問い求めです。《現実存在 つまり 要らぬ過去(脱線)を捨て余計な想像世界(本質論)を脱ぎ捨てて現実に向き合う存在⇒つまり 実存》 これが 《わたし》であり《存在》だという仮説です。