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哲学いろいろ

《わたし》とは

 ( c-2 ) 主観的差異は 時間差のみか? そう言えるか。
 人びとのあいだで世界が見えるその位相の違い これは 人の意志行為(志向性)が時間的に自己表現としておこなわれるからには 表現をめぐる読み取りつまりは意志疎通としては そこにおのづから時間的な差異が起きる。しかももしその動態においても ヒラメキ主観が《永遠の現在》を直覚するというのならば 
きわめて煮詰めた議論として言えば コミュニケーションの滞りは 時間差のみだと言えるか?
 いづれは 人は互いに分かり合えるか?

( d ) ( a )から( c )までをあらためてまとめてみると:

  ( d-1 ) わたしたちそれぞれの《わたし》は 互いに分かり合えるか?

  ( d-2 ) その《わたし》とは 何か? どういう動態か?

  ( d-3 ) おそらく簡単にその成り立ちを捉えれば 主観のうちに《考える(コギト)――信じる(インスピレーション・ヒラメキ)》の階層を持って 自己をうんうんとどこまでも推し出しつつ表現しながら そして互いに意志疎通をはかりながら 生きる存在であると言えようか。


  ( d-4 ) 意志疎通にとっての障害は どこにあるか? 《考える》と《信じる》とのそれぞれの階層において扱うべきか? 後者が前者に先立つと思われるが その点はどうか? 

  ( d-5 ) しかもこの《信じる》とは どういうことか? これを《考える》のである 人間は 意志疎通のためには。《信仰類型論》。言いかえると 《神とは何か?》。

  ( d-6 ) けっきょく《本質直観》とは この《神 もしくはつまり同じことで 無い神》と《わたし》との間柄を尋ね そこにどのような――おのおの主観内における――物語が紡がれているか これを明らかにすること。そしてさらにはそこで互いに 共有しうるものは共有しようとするいとなみであろうか?

  ( d-7 ) 《神ないし無い神》を持ち出しておかないと 相対的な経験世界の果てまでたどり着こうとするような限界性・境界性あるいは究極性という概念で言いかえることになるし そのように言いかえているだけになると考えられる。

  ( d-8 ) ( d-6 )で《共有しうるものを共有する》というのは こうである。意志疎通の可能性について 人びとのあいだには《共通感覚》があり これをもとにして《相互主観性》ないし《共同主観》が打ち出されて来る。これは ほとんど公理としてである。つまり 明証性は 最終的にはかなわない。得られがたい。
 
  ( d-9 ) ただし これらのコミュニケーション作業はすでに――形而上学の問題ではなく―― 現実の《生活世界》における出来事としてある。と主張する。

  ( d-10 ) 《純粋ノエシス》は 《わたし》の中核として根源的主観性をにない 《アートマン(個人としての我れ)》と呼応すると考えられる。宇宙霊魂(アニマ・ムンディ)ないし主宰神なる《ブラフマン(宇宙としての我れ)》と一体――梵我一如――と言うからには。
 

  ( d-11 ) しかもこのアートマンの実在を否定して出たブディズムは 文字どおりアン‐アートマン(アン‐は アンインストールのアンと同じ語根)つまり《諸法無我》をとなえた。けれども 《如来蔵ないし仏性》をも説くに到って アン‐アートマン(無我)とアートマン(個人我)とが 類型的に同じものとなった。次の内容を共通とするはずだから。
 ● 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。

  ( d-12 ) かくして ブディズムの《空観・中観・仏性・アビダルマ(?)・アーラヤ識(?)》等々の概念装置も 純粋ノエシスないし本質直観と同じ範疇を扱うものと考えられる。
 認識方法は違っているか? ただし 思考(コギト)としての認識にはもはや限らないとすれば――現象学においてさえ限らないとすれば―― それほど違っているとも思えない部分がある。