caguirofie

哲学いろいろ

無題――または 哲学とはどういういとなみか――


【Q:ザビーヌ事件について】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html

なかで ri_rong 氏とわたしとのやり取りがものがたっているように考えました。





「人間であるとは思っていません。」といふイメージ

 顔無し

 顔無し仮面

 ごろつき顔無し

 顔出す顔無し

 ごろつき仮面 へべれけ

 いつも顔出す顔無し幽霊 お多福仮面
 
 どこでも顔出すへべれけお化け 顔無し

【Q:ひとは やわらがしめられうるか?】

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5495975.html

回答11

原子の周りを電子が公転する数は、我々が一つと数える間に10の15乗回廻るそうです。と言うことは、私が質問者さんに茶々を入れてから既に、10の21乗原子年以上の年月がな流れたようです。ですから、向こう30年は相手にしないと言う時間は、質問者さんがタイプしている間にそれ以上の原子年が経っており、もはや時効になったようです。

さて私の言い分ですが、#7さんの疑問に対しては、

http://210.132.71.11/qa4967451.html

の#26のモンテーニュからの文章を参考にして下さい。

次に、「やわらがしめられうるか」という言葉は不適切だと思います。やわらでは「締める」と言わず、「落す」と言います。締めるという言葉は、鶏に使う言葉です。

投稿日時 - 2009-12-05 15:03:28

お礼
 おぎないがあって 対応します。

 わたしは 打てば響くの鐘です。
 打ち方によって いかようにも響きます。
 またいくら見事に撞木を撞いたとしても その撞木に何かが仕込まれてでもいれば それに対してもその中身や性質に応じて響きます。

 あなたとの対話は 言語学談義で終わりました。
 響き終えています。
 あらためて撞木の持ち方なり 力の込め方なりをあたらしくしなければ たぶん 鐘には当たることはないでしょう。

 ただ きょうおぎなおうと思ったことは ドラッグをやっているのではないかという可能性をふと思ったからです。何かに酔っている。長期間 酔っている。
 言いかえるとこの期間は 文章責任がまぬかれるかも知れないというものです。人格が人格ではなかったという事実としての可能性です。
 
 このように覚え書きをしておく必要を感じたというところです。

 * 《られ》を処理できないというところでしょう。ほかの部分は応答するほどには読んでいません。

投稿日時 - 2009-12-06 09:45:20

回答№6

恩恵というものは――それが何なのかよく考えてみると、何となくそのようなものがこの世にはあるのかもしれないと、――それについて、生まれて初めてよく考えたとき、
 そのときにはすでに、恩恵を受け取った後だったのではないかと僕は思います。

 だから慌てて見直してみて、受け取った分だけはせめてお返ししたい――人間として真面目にそう思えたとき、自分は負った者だったのだと定義されるのだろうと思うんです。つまり人間は、(誰でもそうだと思いますが)気付いたときにはすでに、自らが負った債務に対して「赦されたい」という望みを抱く存在となっている、つまり債務者となっているはずです。

 信仰というものをひとまず置いて、自らの経験だけで真面目に自分を定義してみようと考えたとき、「自分は債務者である」という前提は、極めて重要な公理であり、この公理を抜きにしては社会人としての営みのほとんど全てが説明できないものになってしまうと僕は考えます。
 恩恵という言葉の意味をもしも知ったなら、そのとき、その人間は、債務者となっている筈なのであり、もしもそうではなく、自分が0から始められると思っていたのなら、その人は恩恵の意味を知らないというふうに言い換える事ができる。

 この短いセンテンスである古い時代の存在論が、「赦し」あるいは、「学び」、そして「労働」、これらのような全ての社会的営みの基礎となっている。ある・なしという極めてシンプルな存在論は、いつの時代かはわかりませんが、少なくとも自分の生まれる遥かむかしからずっと続けられており、このような掟があるなどとは終ぞ知らないうちに、ふと気付いたときには、どうやらそんな世界に自分は紛れ込んでいた――という状況です。

 誰かから受けた恩恵に対し、その価値に値するか否かはわからないまでも、自分の持つ力(すなわち労働力)を、自分と世界の境界線である肉体の行動によって提供する――これが労働の(そして赦しの)基本だと思います。
 その行動が、果たして受けた恩恵の価値に見合うかどうかはわからない。
 人と人との係わり、これは一種の交易だと思いますが、そうであれば尚のこと、より原初的なニューギニアの人々の交易に原型を見ることができるだろうと思います。10月に亡くなったレヴィ・ストロースの受け売りですが、海辺の住人たちは、隣村との境に漁で得た魚を置いて立ち去ります。すると、山の住人たちは魚を受け取った代わりに山芋を置いて立ち去る。
 このような言葉を介さない交易の習慣が古い時代にはあって、賢明な彼らは、来月はエビにして欲しいとか、蕎麦を食べたいとかいう要望を決して相手に要求したりはしない。交易の基本は恩恵であり、恩恵の基本は相手が何を求めているかわからない状態でなければ、意味がないからだと思います。決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。

 人間は言葉と通貨を用い始めたとき、この交易の基本を少しだけ限定したものにしたのだろうと思います。勝手に質問を閉じてしまった質問者に対し、少し書き残したことを補足する意味で、答えてみました。赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。

投稿日時 - 2009-12-04 19:10:47

補足

 よう モテモテ男。文学音痴(!! へへっ)の ri_rong さんにしては しゃれたご見解で。ご回答をありがとうございます。

 まづ 結論において使われている用語の定義の問題があります。半ば重箱の隅のほじくりですが でも必要だろうと考えます。
 ★ 赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。
 ☆ もしこの《赦し》を 仮りに〔母や父の恩などを含めて〕もっぱら経験行為にかかわる債権債務関係をめぐってのものだとすれば 《信仰》とは――と言っても 信仰は結果的にその経験行為をつつむことになるようですが―― 次元がちがうと考えます。そういう定義です。
 ぎゃくに言いかえます。いわゆる《人生は貸しを与えたり その借りの返しっこの連続である》という意味での《負い目》についての《赦し》の問題であるとすれば 《信仰》とは直接にかかわらないと言っても――信仰は生きる姿勢のようなものですから―― 大きく同じ主題だと捉えなければならないでしょう。
 このげんみつさを据えてみるならば なるほどと合点のゆく――なみだのちょちょぎれる――すばらしいお答えであると思います。
 ★ 決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。
 ☆ つまり 赦し合い――やわらがしめられたこころどうしの――としてのおつき合いが続く。スサノヲ市民社会( die Susanowoschaft )は歴史のかまどである。(えっ? なんでマルクスなの?)( krya1998 さんの世界ですね。浅草下町だそうです)。

 長期の展望としての理論を提出していただきました。これが――つまりなお 現場における現実のやわらがしめられや臨床の応対実践がひかえているとも言わねばならないからですが―― 思想内容を別としたファビアン主義だと思いますし いわばハンニバルジブラルタル海峡を渡って長期遠征に出るといった気構えであると思います。
 しかも いまここでただちに やわらがしめられる。と言ってしまうのは 信仰という安易な奥の手です。非思考というのは ときを超えていますから。
 レヰ゛ストロースの主義思想はおもしろくなさそうですが その個別の研究成果は生かされましたね。そう言えば トロブリアンド諸島で各島の各ムラのあいだで 円環貿易をしていたとか。Aムラから始まって Nムラまで交易の流れがたどりつくと このNムラは Aムラに品物を提供する。環が完結する。
 ということは あれですか つまり この円環をどこででも破ってもよいから 重層無尽に世界中に交通網を張り巡らせばよいとも考えられます。ま いまもそうなっていますかね。あとは こころだけでしょうか。

 あとは 《掟》などと言われると いわゆる《律法》のにおいがするので 過剰反応しときます。しかも安易な奥の手によって。
 《正義や善悪や裁き》などの律法規範は モーセによってもたらされたけれども 真理と恩恵とはかのイエスによって指し示された。そのときには 石の板に記された規範やムラムラの慣習法としての掟をとおしてではなく きみたちのむねに刻まれた愛のちからとして 真理がはたらき 恩恵は 恩恵の上に恩恵が与えられるというところまで――暗示のごとく――示されたようなのです。

 書き残したことがあるような感じですが いまは放っておきましょう。

投稿日時 - 2009-12-04 20:23:32



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