ひとは やわらがしめられうるか?
あやまちを犯したひとを 存在としてとうとび あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。
赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。
(犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。
おのれと社会との根本的な和解が成るか? ということ。
あるいは
聖なる甘えは 自然に成ると思われるが いかに?
すなわち やわらがしめられるか否かを問う前に 成るものと思うが いかに?
次のような事件を経れば 《成る》と言えましょうか?
◆ (詩編 57:7&9)〜〜〜〜〜〜〜
わたしの魂は屈み込んでいました。
かれらはわたしの足もとに網を仕掛け
わたしの前に落とし穴を掘りました
その中に落ち込んだのはかれら自身でした。
目覚めよ
わたしの誉れよ
目覚めよ
竪琴よ
琴よ。
わたしは曙を呼び覚まそう。
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