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哲学いろいろ


大澤真幸の《キリストを媒介とする神の赦し》について

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9499266.html

▼ (大澤真幸:十字架上に死すキリスト・イエスを媒介者とする神の・
人間に対する赦しとは?) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


1. だから キリスト教を生産的に応用しようと思えば・・・
まづ 出発点とすべきことは 神は 人間に対して 絶対的に超越している 
ということである。


2. 神が人間を 一方的に規定し 人間に働きかけることができるのみで 
人間は 神へと働きかけたり 神の行動や意思を――部分的にすら――規定
することはできない。


3. 《第三者の審級》という概念を用いれば キリスト教を始めとする啓
示宗教の神は その超越性を 最も純粋に きわめて論理的に首尾一貫した
形式で保持している第三者の審級であると解釈することができる。


 ☆(あ) 1〜3までは 神が人にとって絶対的に隔たると言っている。


 ☆(い) 《第三者の審級》というのは うさんくさいとわたしは思って
    いる。前項の《絶対の隔たり》があいまいになる。言いかえると
    絶対なる神が 経験世界に降りて来て 相対的な意味内容を持ちか
    ねない。――次項は この隔たりを埋めるという問題が来る。


4. このとき キリストとは何であるか? キリストは 神と人間の間の
媒介者であろうか? そのように考えた場合には キリストは 神と人間を
つなぐと同時に それらを隔てる障壁の印でもある。


 ☆(う) 《障壁》≒《隔たり》は すでに理解済みであるのだが。次項
    についても そう言わねばならない。


5. キリストという媒介が存在しているということは 神と人間を互いに
分離した項として設定することを意味するからだ。


6. 神が人間を 端的に赦した場合には 神を人間から隔てる絶対的な超
越性は手付かずのままに残されることになっただろう。


 ☆(え) 《赦し》とは 人の逆らい――約束の破棄――に対するそれの
    ことである。


 ☆(お) 《端的に赦した場合》には 神と人との隔たりが 絶対という
    状態のままに遺ったであろうと言っている。端的にそのとおりであ
    る。――次項からは その赦し方が 手の込んだかたちになったし
    そのようになる必然性があったのだと説こうとしている。


7. しかし キリストは このような意味での媒介者ではない。キリスト
は 神そのものだからである。


 ☆(か) つづく説明を聞こう。


8. 十字架の上で 神そのものが死ぬのである。もう少し繊細な言い方に
換えれば 十字架の上で死ぬことを通じて 神が人間であることが示される
のだ。


 ☆(き) このような説き方(解き方)だと 《死ぬ》のは 神なのか?
    人間なのか? が必ずしもはっきりしない。


・・・


9. どういうことか? キリストが死んだということは 超越的な神(キ
リスト)が 内在的な人間だということであろう。


 ☆(く) 分かりづらい。もともと 神の子でありみづからも神であるキ
    リストが 肉(身と心との自然本性たる人)となったと想定してい
    るのだから この《内在的な人間》という規定は 必ずしも明瞭な
    説明ではないように思える。


10. その結果は 何か? 人間は 信仰において 神と関係する。人間
は 超越的な彼岸にいる神と関係しようとするのだが その神は死んでしま
い もはやそこにはいないのだから 人間の〔神に〕関係しようとする行為
は 人間へと つまり信者たちへと還流してくるほかない。


 ☆(け) 分かりづらい。
   a. 神が死んだのか? 死んだのは 神か?


   b. 信仰とは 神とわれとのカカハリを言う。これは 中立の定義。


   c. 人間が《神と関係しようとする》のは 自由だが そもそも絶対
    の隔たりがあるゆえ だからどうなるというものではない。


   d. 仮りに神が死んだのだとしても・《もはやそこにいない》として
    も 絶対のかなたの神との関係が どうして《人間へと還流して来
    る》のだろう?


11. このとき つまり神が人間に置き換えられたとき 神の場所に 原
理的には 人間の――あるいは信者の――普遍的な共同性(教会)が出現す
ることになるだろう。


 ☆(こ) 果たしてそうか? それが《原理的》か? 《死んだ》という
    行動の軌跡が 天から神が降りて来たことを証し そこに神の痕跡
    としてのごとき――次項にあるように――《聖霊》の場を実現する
    ことになる。のだろうか?


12. この共同性を成り立たせる紐帯こそが キリスト教の言うところの
聖霊》(あるいはキリストの身体)であろう。


 ☆(さ) 果たしてどうか? ただの想像ではないのか?


 ☆(し) 想像ではないとしたらそれは むしろ初めに《絶対の隔たりな
    る神》を想定したその神とわれとの――《非思考》における――カ
    カハリが 依然として前提と成っていると見るのがよい。のではな
    いか?


 ☆(す) 《紐帯 ないし 共同性(また 共生)》は 非思考の庭とし
    てある。と想定される。


13. 神の赦しが キリストの磔刑死という 迂遠な回路を必要としたの
は 赦しが 人間の側でのこうした変移――普遍的な共同性への移行――を
伴なわなくてはならないからではないか。


 ☆(せ) いったいどう成っているのか? キリストが死んだのだから
    地上には じんるい共同の大いなる連帯が 現実となって生まれた
    ということか?


大澤真幸:『逆接の民主主義――格闘する思想』 2008 pp.88-91)
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