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哲学いろいろ

《絶対矛盾的自己同一》

西田幾多郎の論文:

 ◆ 《絶対矛盾的自己同一》
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html

 を読みました。

 § 1 結論をまえがきします。

 (1) 神学である。ただし そこから導き出した人間論は 実存主義思想に近い。

  ◆ (四) 〜〜〜
 ( a ) 矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。
 ( b ) 故に我々は神に対することによって人格であり、而してまた神を媒介とすることによって私は汝(なんじ)に対し、人格は人格に対するということでもある。
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 § 2 用語にかんする意味を読み取り その遣い方としての特徴を捉えます。

 (2) 《絶対》:これは ふたつの意味があるようです。
  (2−1) ひとつは 神の絶対です。この経験世界を超えたところ すなわち 非経験の領域。つまり人間には経験しうべからざる隔たりのある場 これが想定されており 《絶対》と言って表わす。
  (2−2) この経験世界における事物や事象は すべて移ろいゆくモノ・コトである。生あるものは死し 有は必ず無となる。この《必然性》という意味を以って 特に《絶対矛盾》というときの絶対を表わしている。

 (3) 《矛盾》:したがってこの用語にも ふたつの意味がある。経験世界に存在する時間的・有限的・可変的なモノ・コトが 有と無との相転移を起こすことを言う。
 とともに このような有無いづれかの状態にあることを余儀なくされる経験世界を超えたところ――つまり神――と人間とのあいだの隔たりとしての矛盾。

 (4) 《自己同一》:これらの術語から明らかになるように この場合の《自己》とは 大前提としては〔想定上の〕神のそれである。議論の前提としてそれに対するに《人間》としての自己は その神の自己(そして自己同一)とは隔たりを持つ存在性を言う。

  (4−1) 有無が定まらない存在として矛盾を有する人間(ほかのモノ・コトも同じであるが)の自己は 《矛盾的自己同一》としてある。言いかえると 《自己同一》ではない。
  (4−2) 《自己同一性》を 人間は自己自身の能力と努力とでは 保てない。可変的であり しかもこの変わり得るという性質には 心が定まらないことがありうると言っている。心変わりがあり得る。つまりは《矛盾的なる自己同一》である。その矛盾は 神と向かい合うなら分かるように《絶対》である。
  (4−3) けれども それにもかかわらず ( b )の命題〔(1)〕を提起している。神を持ち出しているにもかかわらず 実存主義の思想に近い。

 (5) 《一と多》:多義的である。
  (5−1) 《一》は 個別の存在としての一であるとともに それら個物の全体としての一でもある。さらには この《全体としての一》を 非経験の場において超えつつ包含するその意味での――つまり神としての――《一》をも意味しうる。
  (5−2) 《多》は 個物の集まりとしての多である。その集まりの全体を意味することもある。
  (5−3) 次の命題は いかに読むべきか?
 ◆ ( a ) 矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。
 ☆ 《個物的多として》:これは《個物的多なる集まりの中のひとりの個物として》か?
 《一に対する / 一に結合する》:たぶん《自己矛盾的に》というのは すでに解読したと思う。この《一》とは 何か? 《結合する》場合には 神のことか? 《対する》という場合には 人間としての――自由意志の有りかとしてそれぞれ違っているところの――人格存在としての一のことか? 
  (5−4) 《わたし》なる一にあい向き合うとき それは あやふやな同一性の自己である〔(4)〕ゆえ 高い次元の神の一に結合されて初めて一なる人格という状態に――なお移ろいゆくのであるが――成り得るのだと。すなわち続く( b )の命題が証明されたか?
  (5−5) ちなみに ぶらじゅろんぬの定理ではこうである。

   ・《わたしはわたしである》: 1=1
   ・《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》: 1x1=1
   ・《あやまつなら われあり》:1―→ (−1)x(−1)=1
     ・自省ないし自己批判ないし《われに立ち帰る》
   ・ 《わたしはわたしである》の自己表現なる文体:1x1x・・・x1=1
     ・《われに立ち帰る》:1^n=1
   ・文体とは 一なる《わたし》の累乗積としての軌跡である。

 § 3 原文について例解をこころみます。

 (6) ◆ (四) 〜〜〜〜〜
  ( c ) 斯(か)くこの世界が絶対に超越的なるものにおいて自己同一を有つということは、個物的多が何処までも超越的一に対するということでなければならない、個物が何処までも超越的なるものに対することによって個物となるということでなければならない。
  ( d ) 我々は神に対することによって人格となるのである。而して斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、逆に我々が神に結び附くことでなければならない。
  ( e ) 神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。
  ( f ) 絶対矛盾的自己同一的世界の個物として我々は自己成立の根柢において自己矛盾的なのである。
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  (6−1) ( c / e / f )は すでに通って来た道である。
  (6−2) ( d )で《ひとが 人格となる》というとき
 ◆ 行為的直観
 ☆ という用語を用いて説明している。《直観》には 神に相対するわれ――ないしそのヒラメキ――が言われているはず。《行為的》というのは ひとの生まれ存在するその条件つまり所与のものとして与件 これを受け留め受け容れて受け身であるだけではなく そこから――儚いながらも――自己同一でありつづけようとするその意志行為を言う。これが 《人格となる》ことだと言う。
  (6−3) すなわち:
 ◆(三) 我々が自己自身を形成する世界の形成的要素として、《行為的直観》的に物を把握する所に、真理があるのである。そこには逆に世界が世界自身を証明するということができるであろう。

  (6−4) あるいは:
 ◆(二) 個物は何処までも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。しかしそれは個物が自己否定において自己を有つということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。
 ☆ 《自己否定において自己を有(も)つ》:自省や自己批判として《われに還る》ときの《否定的契機》を言っているようである。ややこの否定の側面を強く推し出しているきらいがあると思われる。《自己自身を形成する》すなわちわたしの文体をかたちづくりこれを うんうんとどこまでも――わたしはわたしよりほかの人格ではないのだから――推して生ききる。と言いたいためらしい。また 神との隔たりゆえに その否定的な作用をしばしば出して来る。いわく:
  (6−5) ◆(三) 絶対矛盾的自己同一の世界において、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。
 ☆ 《否定》だけに目を止めると おやっと思う。その矛盾においてしかもそれを超えるような自己同一を みづからも人間として形成ししかも 不可変的な一なる神から与えられると。言いかえると この人生の動態の時間においては あやふやな人間の自己同一はささえられていると。
 
  (6−6) さらにこの《否定的契機》の文例として:
 ◆(三) 〜〜〜
 それは歴史的過去として我々の個人的自己の生命の根柢に迫るものでなければならない、我々を魂の底から動かすものでなければならない。行為的直観の立場において、歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根柢から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。
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 ☆ この否定も 矛盾――すなわち 有と無 生と死 善と悪といった経験的な矛盾対立および それ以上に 神とのあいだの隔たりとしての絶対矛盾――を言いたいためらしい。読み違えやすいと言うか 表現に語弊があるようだ。つまり その《絶対矛盾》的にして さいわいなるかな 《われはわれなり。 / われあやまつなら われあり》としての立ち帰り得る自己同一へとひとは みちびかれて行くのだと。
 これらが 人間の条件であると同時に すでに生きる場であり 言わば自由に選択しうるかたちで 生きる道が用意されている。道と言っても 見えていない。ゆえに 自由意志の出番となる。

 (6−7) 人間にとって おのおのの自由意志の出番として捉えられるこのような世界は すでに人びとが生きて来た歴史と社会にあって むしろ《生産様式》という言葉で表わしている。
 この《生産》には したがってむろん基礎として経済生活のことを言っており しかもそれだけではなく 政治および文化 学問および芸術のあらゆる人間の活動をふくむということらしい。

 (7) うんぬん。さらにこうして 読み解いて行けると思います。