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全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207
第二部 踏み出しの地点
§13 M.パンゲ《自死の日本史》 k
§13−7 今村仁司《現代思想の系譜学》(つづき)
すなわち すでに異感状態を承認したから 分裂しているのであろう。また 分裂状態が そもそもの初めであるのなら これは 必ずしも《分裂》という言葉をもって言うほどのものではない。分裂こそが正常であるなら。つまり 正常という言葉が悪ければ ふつうの状態なのであるなら。
《近代の主体〈主義〉が いっさいの現象を同一化し 全体化し 統一性の上に組織しようとする》なら これは 同感人出発点を 心理起動力による観念(あるいは念観)どうしの相互接触作用と同じものと見なし これによって ふたをしようとすることである。しかし この場合でも じゅうぶんに もし言うとするなら 《事実として存在する個体の分裂性をありのままに》みとめたあとの出来事である。ただわづかに――そして そのことで大きく―― 異感状態るいは異感人そのものとしての分裂人 これを《承認》しないということであるかも知れない。われわれも そうである。つまり 事実行為として承認するけれども それは 無効だという。そして おのづから ここで 対処の仕方は 異なってくる。われわれのほうでは 心理起動力が大きな部分を占める〔あいまいな〕同感動態と(つまり 踏み出し地点と) 同感人出発点とを 互いに区別するからである。
今村は この出発点同感人のほうをも 《原理的にも事実的にも 存立不可能な幻想的な同一性というイデオロギー》だと 考えるというのである。したがって 踏み出し地点も 初めの出発点も 区別しないし 区別しなところのこれら二者つまり一者は 互いに分裂しあう異感人 もしくは 分裂するゆえにそういう意味での一種の同感人であると見る。
この考えが 人間存在にとって存立可能なまた真実の同一性出発点だというのなら 《非同一性》を出発点にとることは おかしい。まづ論理的にそうである。いや 出発点などというものを――つまりその意味で なんらかの《人間どうしの同一性》といった考えを――取らないのだというなら もうすでにわれわれは ありのままに=《分裂を分裂のままに》 生きている。こちらのほうは 論理以上の事実問題としてである。
あるいは 人間の出発点というものは 一定のものとして ありえず これを考えること自体が まちがいであって われわれは 歴史の段階ごとに いまはこれ あのときはあれ やがて来るそのときはそれ というように 《ありのままの分裂状態とその社会情況ないしその承認》のなかで とにかく 何かの《可能性の探求》をおこなっていくものなのだというのなら それは しかしながら すでに《実践》されているところの分裂可能性なる一情況に対して やはり ふたをしようとするか もしくは 一つのはけ口を見出しいこうと 言っていることである。近代の主体主義より 分裂人の思想のほうが ましだという議論である。すなわち
現代の世界では 個体の分裂と多様化に抗するイデオロギー的同一化が 思想の面でも政治の面でもかつて以上に強くなっている。
から 現代の新しい思想の方向を提出するということであるらしい。言いかえると 結局 《異感人》を立てなければならないが その分裂状態にも――あるいは 分裂状態の社会文化的な統率の仕方にも―― 限度があって 度を越すといけないと語っていることにほかならない。なぜなら 《近代の主体主義》も それなりの《同一性出発点》こそ言っておれ 事実上 分裂しあう異感状態を ありのままに捉え これを推し進めてきているとも 考えられる。少なくとも 今村の論理でいくと 主体主義の近代人は 今村の説く新しい多様人の 先駆者であったとも 考えられるのではないか。すなわち 《個体の分裂と多様化に抗するイデオロギー的同一化》も 同じく《個体の分裂と多様化》の思想から 出され推し進められているのではないか。《分裂性を――それがいまのように例えば早くいえば 階級分裂の状態を呈していようとも―― ありのままに承認すべき》ではなかったか。このように《分裂した個体性の亀裂およびそれを塞ぐ同一化》であっても それを なぜ今度は非同一性=分裂性の提唱で《ふさが》なければならないのか。ましなもののほうが よいからだろうか。
だが そうなると もし互いに同じ分裂人の思想なのだから それゆえ けんかをふっかけるというのでないならば やはり 今村もなんらかの《人間のあいだの同一性》を出発点に持って 思想しているのではないだろうか。
これを《個体の救出》と銘打つのならば 仲介者となったことだと考えられる。個体ごとの推進力の推進者となったことだと考えられる。《非同一性》を説く人が 連帯をとなえるということだと考えられる。むろん有限で相対的なものだろうけれど。いやそれは やはり《非同一性》の回復なのだと答えるだろうけれど それは 初めの出発点で 回復されているというどころか 《ありのままに》もともとそうだったと 今村自身も 言っているように考えられる。そこまでは言わない つまりそれを伏せるという場合には やはり一つの仲介者理論だと考えられる。
だが 今村が一つの結論として――長く引くけれど――次のように言うとき つまり
思想面――実体としての主体観 同一性と全体性をめざす主体主義にかえて 多様性と分裂性を真理内容とする個体的生の登場。
実践面――いっさいの指導者(フューラー 政治的前衛集団 司祭 等々)を否認して 個々人のオートノミーの確立をめざす《自己組織 自己生成》の運動 オートノミーの《オート》(ラテン語のアウトス〔* 実際は ギリシャ語。《おのれ・それ自体》〕)は 《実体》でも《主体》でもなく リアルに多面性を展開する《アウトス》であり これが伝統的考え方から離脱する個物の概念にならねばならない。もしも現代における最大の思想的課題が何かと問われるならば それは新しい個物の概念 個物の自律性の概念の探求だといっても言いすぎではない。
というとき われわれと別のことを語ろうとしていると言うべきではないであろう。《新しい個物の概念》とは 《近代人》の主体存在と同じものだと考えて さしつかえないと思われるのである。つまり 出発点の問題である。そのわけには 今村も 《個物の〈自律性〉の概念》を言うことによって 心理起動力の踏み出し地点とは一応区別されるところの――その限りで 抽象的なものだが――同感人出発点のことを 言おうとしていると考えられるからである。近代人からの継承と見るか断絶をそこに見るかに ちがいがあるのかも知れないが それは 別の二次的な問題だ思われる。人間は変わると思われるが さしあたって 〔再あるいは再々〕出発地点は 近代人のそれを継承してよいとわれわれには考えられた。
《自律性》をいうからには 《思想面》でそれを 《多様性と分裂性を真理内容とする個体的生》のことだと説明したほうがよいかも知れないとしても 《同一性(同感人)の出発点存在》のことだと 考えてもよい。そうでないと 自律性は 人の数ほどの多種多様のものであるしかない。(或る人が それは 自律性ではないではないかと 他の人に問うても いや これは わが自律性であると答えれば それで おしまいとなる)。つまり実体論で主体主義の近代人も おのれの自律性をもって運動しているとうそぶくことは 《真理内容》にかなっていると言わなければならなくなる。
わざと難癖をつけようと思えば 《自律性(オートノミー)》という表現では ただでさえ抽象的な同感人出発点が こんどはむしろ よりいっそう具体的な出発の地点や社会的な立脚点やと区別され 観念的なものになるおそれがある。出発点同感人が それ自体で たしかに自律すると言ってもいいだろうが ただしこの《それ自体で》というときには われわれの現実存在から離れてのように 自律運動するとも 取られかねない。この意味では 出発の原点と具体地点とを 区別はするが そのあと今ひとつの説明として こんどは両者をまとめて捉える形の《自立》といったほうが よいのではないか。
自立や独立は 反対論としての隷属あるいは従属をもつ。隷属状態と闘い それから解放されようとするとき 自立や独立の価値は大きな社会的意義をもつ。これに対して 自律性は反対語をもたない。抽象的にいえば 存在がそれ自体で充足している状態が自律性である。自立や独立が闘争的関係のなかで相対的な意味と価値をもつのに対して 自律性はそれ自体で価値と意味をもつ。自律性は したがって 絶対的である。・・・
(今村仁司:《現代思想のキイ・ワード (講談社現代新書 (788))》 〈第?部 オートノミー〉)
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同意するところと抵抗したいところが 入り組んでいるが われわれは 出発点同感人も 完全なものではなく相対的な存在だと考えるから 過程・実践動態としての自立といった言葉が よいかと思う。なお 引用文の中の《闘い》というのは われわれからすれば ふつうの生活のこととする。
説明理論としては 出発点同感人は 《〈自己組織 自己生成〉の運動》である。《自己還帰》とか《汝みづからを知りなさい》とか言うときのものであり 還帰した自己の自乗だとも言って来た。われわれは ふたを開けているのであることを ねがっている。すなわち ここでの文脈としては 《自死の日本史》〔から自生・自立のそれへ〕をめぐってである。
パンゲの書物の批評として あともう一節を付け加えて終ろう。
(つづく→2008-02-26 - caguirofie080226)