caguirofie

哲学いろいろ

#64

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》 e

§13−4

 与えられたその複雑な全体においては 文化というものは人間の顔に似たところがある。群集のなかで人間の顔をひとつひとつ見分けてゆくことはできるが しかし どんなに異なっていても 所詮はどれも人間の顔なのであり われわれは個々の顔の特徴を識別するよりも前に それらの顔を人間の顔として認識する。それと同じように 地球上のさまざまに異なった文化のどれを見ても まづ見えてくるのは人間という存在の条件なのである。
(日本版への序)

ということは 説明理論としては 《同感人出発点に立つし そこから出発するし これをどこまでも推進する》というのに等しい。同感人も かつて背感し得たし だれもが 知らず知らずにでも 異感状態におちいるということがないとは 確言できない。ゆえに むしろ確信をもって 出発点の持続を――同感動態の基本線をすすむというふうに言って―― 表明する。表明行為またその行為事実が 《わたし》そのものではないし そのことは われわれが承知していることだから 参加と対話をすすめるのである。自己の行為に責任を持つというのは 過去の行為事実をあやまちと認め 改めてはいけないというのではない。
一人ひとりの顔が異なっていることは 接触をとおして 感覚受容として 心理作用をともなうものであり それが 心理起動力ともなり得るのと同じように 人間という存在の《条件》も――つまり 一定地域の歴史社会的な文化情況と つながってもいるその条件も―― それが 《まづ見えてくる》段階(つまり 接触の場)では 感性・心理活動がはたらき これが 心理起動力となりうる。つまり 人間の顔の《特徴》にかんする感覚受容や認識の場合にあっても 《まづ見えてくるのは人間という存在の〈条件〉のほうなのである》。同感人出発点を想起し 少なくとも頭の中で意識しているが まづ見えてくるのは まだまだ外面にある事実行為ないし行為事実なのである。しかも パンゲが そうなのだと述べるときの姿勢は 内面の同感人に立つところの生活態度のものなのである。
この生活態度は すでにそのようにして生活実践であるし――少なくとも 踏み出し地点に立っているし―― 立っているのだから この この生活態度を 経済社会的な実践の全般にわたって 持続的に推し進めようと表明することは ありうるし わたしたちの主観と同じように パンゲの主観においても そのことを事実すでに おこなっているものと考える。――いまは 書物を著わしたり読んだりするという表現行為であるのだが。
つまりわれわれは ここでは こういった説明行為の部分として――それは 言うなれば滞留過程である―― くどいように しかし明確となるように 考えを及ぼし 問おうとしている。そういう種類のあるいは分野での 対話の思想。

男でも女でも(そしてあろうことか子供までが)人間なら誰でも 自分はいつか死ぬべき運命であるし その死の時期を早める可能性というものが自分の中にあるのだということを知っている。あらゆる生物から人間をくべつするこの可能性は(*――言いかえると 死によって区切られた生を どのように生きるかの可能性ないし自由は) 人の慰めとなりうるしまた大きな勇気の源ともなりうるものである。だが なかには この可能性を耐えがたい重荷と考える人たちがいないわけではない。彼らは それを自分とは無縁な遠い国の他者たちの上に投影し(* あるいは 自分の近くに 自分とは無縁だと見なす被差別者をつくりあげ かれらの上に 生の可能性という自由をむしろ押しつけ そうすると 自分たちが心理起動力によって作りあげるこの差別という枠の中で その被差別者たちに自由を 厚かましくも与えてやるということだから 実際には 自分たちがそう思っているところの自由の重荷を 被差別者たちの上に 心理的にだが 投影する――) その人間たちはある種の自由の犠牲者なのであり

  • * つまり わざわざみづから進んで 自分たちのほうこそ 犠牲者であると 変な論理で 言おうとしているということなのであり

自分たちはその自由を持たないで済んでいるのだと想像することで この可能性を厄介ばらいしようとする。
このようなパリサイ的偽善は昨日今日に始まることではない。
(日本版への序)

引用文をひじょうに読みづらくしてしまったが いうところは 《もっぱらの心理起動力は 何らかのかたちで同感人出発点を保持しようとしつつ 同時に 何らかのかたちでこれから逃れようとする そのような死の思想となって現われ得る。つまり 背感・異感人の思想となりうる》ということだ。同感人顕在の時代 特にに近代以降にあって 異感状態への未練は パリサイ的偽善というように 善つまり顕在化した基本出発点を保とうとしつつ しかしそれを重荷と感じるというので 他方の内実としては 棄てようとするきわめて手の込んだものとなって来ているというわけである。直接に犠牲者をつくるのではなく 弱い立ち場の人などを取り出して来て かれらを持ち上げ 自由をほどこし そこで自分たちこそが早く言えば犠牲を大きな心で引き受けているのだという形をとって 異感状態の保持をつづける。これを続けることの言い訳としがちである。二重出発点の使い分けが それで 出来ると思い込む。こういう手もあるというわけだ。
接触・参加の場から追放されるべきだという人びとを 心理起動力によって その表現の限りで合法的に(そして それは 心理的な観念を帯びるという慣習となったかたちで) つくりあげる。たとえば 一度 法律を犯したゆえなどなど何らかのかたちで そうだと見なされる人びとを特定して つくりあげる。そして まだ 心理の問題にとどまる。そのとき形式事実の上では その心理差別された人びとをも 同感動態の場にじゅうぶん参加させている。だから そういったかたちでの民主主義の時代なのでもあり わづかに このような民主主義の観念構造の中でむしろ 心理観念上の犠牲(犠牲者)を心に思い抱くことによって 自分たちの自由を――それが重荷だと感じていたのだから―― 厄介ばらいしたという気になるというわけである。こういうことになっている。
自分たちのほうも 犠牲をこうむっているという言い分をつくりあげる。犠牲者を思うことこそが 人間の自由でありその持続であると思いこむ。犠牲者という表現には 広く 福祉の充実ということも入っており この仕事をしているなら われわれは自由な人間であるという安心が得られるという寸法のようである。実際には その重荷と思っているもの(自由=同感人出発点)を 投げ出したのである。
(つづく→2008-02-20 - caguirofie080220)