caguirofie

哲学いろいろ

#48

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−6

山口昌男との対話 その進展 そこにおけるわれわれの新しい問い返しは 山口がその著書と一体であるということである。研究成果・表現行為事実が かれ自身の人間となっているかのようである。生身の山口は どこにいるのか。そういうべき恰好となっているのではないか。
どうしてわれわれは このことを 色眼鏡をかけて 疑わなければいけないのか。
必要条件の研究作業は すでにそこにおいて われわれの出発点を明らかにすることを含んでいると見て これゆえに この出発点の認識は――たとえ認識としてでも―― じっさいの踏み出し地点に立つことであると言った。新しい議論は ここから始まる。したがって その研究成果を発表することは 十分条件の踏み出しを提言することである。しかもこのとき 山口のその学問成果は かれ自身の人格と一体であるように 表現行為として現われている。なのに これを どうして 現代思想の有効な出発進行として 十分でないなどと うたがわなければならないのか。
書物が 歩き始めるからである。出発点が人格となってのように 往来を歩き始めるからである。――あるいは すでに人格たる出発点(つまり 同感人)が あらためて人格を着るからである。
いや その書物は 山口じしんの人間だということではなかったのか。そうである。しかるがゆえに その有効性をうたがう。どういうことか。
われわれは 山口昌男その人ではないからである。山口が書物とともににしろ 自由に歩き出すのは かまわないし それに対して ああだこうだと言うことも出来ない。しかも われわれは 書物ではないし 山口さんでもない。
いや 次のように言いかえよう。山口がその書物と一体となって そこに積極的な価値(生活態度)を打ち出して 自由に踏み出していることは それが 有効な出発点に立つものであるなら 出発点としては――普遍的なものだと考えるから―― 同じくわれわれの踏み出しであってよい。つまり十分条件であるとして かまわない。しかも だとすれば そのことは われわれ自身が すでに採っている行き方が 表現を与えられたことである。すでに生きている生活態度が そこで――つまり山口の書物で―― 表現を与えられたことである。いや それなら それこそ おまえの言う現代思想のあり方そのものではないのか。ちがうのである。
いまの議論の段階は すでに出発点を明らかにし そこからの踏み出しを考えることである。しかるに 山口の行き方では われわれは 出発点に帰ることが むしろ なおどこまでも 説かれているのを見る。そのかたちで 踏み出し地点を打ち出すことも 含まれているといったことなのである。端的には 王制一般としてのまた過去の遺物としての天皇制を持ち出すことが それであり こういう行き方では つねに 出発点回帰こそが 現実の踏み出しだと説かれたことなのである。

  • あるいは 議論の運び方の問題で 次の注釈が必要かも知れない。すなわち そこまで出発点回帰のことが――たとえ 一幅の絵のようにしてでも――説かれているのなら 踏み出し論としてではなく はじめの基本出発点の論議として 山口の所説を捉えてみては どうか。――だが そういう見方をとったときには きわめて曖昧だったのである。そうして だけれども そのあいまいさには 幅があるから 基本出発点はわれわれのと同じだと仮定して ここまで話しを進めてきたのである。そのとき 踏み出し論は 何のことはない 出発点回帰という提言になっているのを見出すという事態である。

われわれは この種の論議を――ちょうどルウソに対して ある種の見方からすれば 《自然人〔という出発点への〕回帰》だけではないかと批判しうるかも知れないのと同じようなのだが―― それとして むろん排除しないし また思弁的な議論としては むしろ両手を挙げて賛成したくなると言ってもよいのだけれど ここではもう 議論の段階が――または思想の打ち出しの段階が―― ちがうのである。
出発点は とうぜんのこととして そこにただ回帰するために解明されるものではない。ルウソは少なくとも《自然の〔つまり自然人を目標とする〕教育》を すべてが悪くなっているところの社会人の側から 社会人に対して おこなおうと提言している。しかるに もし回帰として つまり回帰こそが現実の踏み出しだという主張にのって その表現行為が著者じしんの人間と一体であるのだとするなら もうそこでは 前へ・つまり新しい時間=歴史へ 進まないと言っているのに等しい。逆にルウソのように(かれの一面として) そこからさらに自然宗教や《市民の宗教》へまでは 山口は突出しないのだとしても 出発点たる自然人が説かれたそのままの段階に等しい。それゆえに(そういう形で) 哄笑の宇宙に浮遊するというのなら ほとんど気が狂っている。つまり住谷一彦らが言う《現世内的な倫理》の《気》とは 別世界へと旅立ってしまっている。そのような《踏み出し》なのである。気が異なることになる。少なくとも こういう問題が孕まれていると言わねばならない。
逆にいえば 山口のことだから かのトリックスターよろしく いたづらっ気を出して そういう問題が 現代思想の一般にも はらまれているのですよというそのこと自体を 明らかにしたかったということなのかも知れない。だが このアイロニは 山口に対してだけではなく わたしたち読者にも向かってきて そのように解釈をほどこすわたしたち自身をも侮辱するうらみがある。いづれにしても 総じて言って 踏み出しの観点では あいまいになっている。十分条件が満たされ難くなっている。
踏み出しは 後ろ向きでよいと思われるが――つまり過去の歴史研究とともにでよいと思われるが―― 前へ具体的に進むことである。少なくとも山口の所説をあげつらわないとすれば そのあとの段階として もう そのような踏み出しが 議論の焦点である。
われわれは これを なお一般論として――民主的で自由な話し合いのエチケット一般論として―― 考えておこうというものである。
たとえば われわれは 一婦多夫〔のおこない〕を憎む。たとえそのような背感(つまり罪でもある)をおこなう異感人であっても その人間じしんは 出発点としてわれわれと同じ同感人であると 信じ考えるからである。一般論として 憎むというと 道徳になってしまうのだが――つまり供犠文化の有力であるしかなくなってしまうのだが―― とうぜんこの一婦多夫は 個人的に具体関係的に おこることなのだから まづ もう踏み出しの問題であるし そのことを 次には ここで 一般論として言うと 上のようになるということである。つまり 憎むということである。ほんとうに憎むのである。人を愛するからである。
したがって これに対する具体的な踏み出しの例は たとえば汝自身を知りなさいということになる。あるいは 同感人の有効が 社会的な交通整理の手続きとして 文化有力たる法律にもうたわれるようになった。したがって 法律の条文が 同感人出発点そのものではないけれども それにもかかわらず その法律条文の存在のゆえに――法律や倫理に出発点を求めるのではないだけではなく―― 純然と堂々と 同感人出発点のほうにこそ  われわれはどこまでも立って進むことが さらに自由になっている。そのことをも 喜びなさい。このように言うのが 踏み出しの具体例なのである。
だが 書物(著書および読書の行為)とともに 基本出発点が打ち出されていて さらにこれが トリックスター・いたづら者・擾乱者・反逆者・狂人・阿呆などなどの概念を立てることによって じっさいの踏み出しのことが――こんどは正当に―― うたわれたのだとするなら それにもかかわらず これは 過去の人間のままなのである。一婦多夫の人間という過去が はじめに立てられていて これに対する処し方として トリックスターが踏み出すとき 過去の文化有力の一構造のなかで がんばっているのである。
悪知恵ではいけないと思うが それでも トリックスターががんばって たとえば一婦多夫を ユーモアをもって 打つとしたなら そして積極的に 一夫一婦制などではなく初めの普遍的な人間出発点を打ち出しているとするなら これら両方だとしても すべてはまだ 書物の中においてなのである。この場合の書物の中においてというのは それが人格と一体であるとするなら じっさいの踏み出しとも一体である。つまり具体的な行動がとられていて なおかつ書物の中においてということである。つまり それは しかも トリックスターが 新しい人間(歴史知性)ではないという事態にぶつかるからである。繭とか帽子を 必要としているし それが欲しいという人びとに対して そのような旧い文化構造の中において 知恵を発揮しようということになっている。だから 出発点回帰と言ったが むしろ 実質的には 歴史知性の以前の段階に戻る恰好にさえなっているのである。
それでも 話しはつづくようである。
一婦多夫の人間が 過去の人間だから それに対処するためには 自分もあたかも過去の人間となってのように トリックスターとして踏み出すということだろうかと 問い直さなければならないからである。
だが それならば そうなのだと――つまり あくまで《過去の人間となってのように》だと―― はっきりさせるべきである。過去の人間ではない人間が どう 現代において 踏み出すかの議論なのだと。一婦多夫や王制が過去のものなら トリックスターや道化になるという踏み出しも 過去のものである。こういう過去を去って 新しくどう踏み出すかというときに 《あたかも過去の人間となってのように》という一つの踏み出し例が 考えられる場合があるということであるが それは 英霊の場合と同じである。もう何らかの主人公として持ち出すことが 旧いのである。
正義が 不義の不在のことだというのではいけないであろうが いまの一婦多夫などの不義は 過去の遺物であり すでに不在なのである。つまり供犠文化の――資本主義の時代における新たな――有力として起こっていても 無効である。よろこびなさい すなわち その不義はもう不在なのだよと言ってやる こういった具体的な踏み出しが いまの一般論に必要だと考えるのである。トリックスターという非常手段をとる場合が あるいは考えられるのかも知れない。だがそのときにも もういっぺん そっくりそのまま過去の段階と情況に 帰るのは いかがかと思われる。
しかも スサノヲは トリックスターではないであろう。姉のアマテラスにおける 少なくともスサノヲの主観する不義に対して――つまり アマテラスが自己の異感人である状態に 固執したこと この不義に対して―― 不義の不在をよろこびなさいと言い続けたし 言ってもだめだったなら もう放っておいたのである。この踏み出し一般が 先行する。不義の不在を――いや むしろ 正義の不在 つまり 正義・愛・同感原理が不在としてこそ 有効に存在することを――よろこびなさいと言うとき その表現行為のしかたでは たしかになにぶん旧い時代の男だから スサノヲは トリックスターのやることと同じようないたづらを おこなったかも知れない。(事実 おこなった)。だがそれは これこそ 時代の問題である。つまり仮りにスサノヲいこーるトリックスターだという場合にも もう現代では 時代の問題であり過去の歴史だと言っていなければいけない。言っていけばよい。スサノヲが今にも省みられるなら それは やはり同感人出発点およびその踏み出し地点を語った歴史としてである。(物語における歴史としてである)。
つまり 表現行為事実としてである。踏み出し地点でも われわれ現代人と同じものを持っていたであろうと わたしは考えるが そしてその手段行為には 時代の制約があった。すなわち アマテラスの疑いを――いまこの物語を紹介していないのだが―― すでにスサノヲは先んじて克服していたから 一方では 疑いが晴れても それとして いたづらをおこない続けたし 他方では かといって 疑い〔なる不義・異感 という過去〕にこだわらなかったのだから その異感人たちのもとを去ったのである。供犠文化としての《暴力‐聖なるもの》の想定あるいは この想定構造に対する疑い これら両者をも 超えていたのである。もしくは 一方と他方とにおけるそれぞれ 原因と結果とを入れ替えたかたちででも言うことができる。
ということは アマテラスも このようにして 同感人出発点のことを うすうす知っていたことを意味する。供犠の文化構造いや制度じたいを かのじょ自身 超えていたところがある。なお 疑ったのである。なお疑っていた人びとの側についた。少なくとも その自身は超えているということを 自己〔の存在〕のこととして 捉えず なお考え続けていたのである。ふっきれなかった。
スサノヲは 何か潔癖感から もう ただちにアマテラスの国を去ったのではない証拠に 上に述べたこと・すなわち 《疑いが晴れても それは 供犠文化の有力によってではないのだと主張したかったから まづは そこに留まり いたづら〔を通しての交通対話〕をも辞さなかった》のである。トリックスター振りを発揮して 王権のもとにおける社会文化の均衡や調和をもたらそうと したのではない。次元がちがう。スサノヲは 供犠文化から 自由だったのである。どうしようもなく 出発点の同感人だったのである。

  • なぜ スサノヲひとりだけが自由であったか これも 大きな主題となる。

基本的にこう言えるとしたなら つまり言えるとしたとき 昔のかれだが そのスサノヲの歴史をわれわれは 今でも 省みる。ジラールの言うように 《供犠文化の制度に抗して もしそうだとしたら 犠牲になることをも引き受ける》という命題。しかも われわれは このような犠牲をももう旧いものにしようではないか。もし旧い過去の人間のようになって言うとするならば そうしなければわれわれの祖先のスサノヲに 顔が立たない。
(つづく→2008-02-04 - caguirofie080204)