caguirofie

哲学いろいろ

#47

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−5

どうして 《のらくろはわれらの同時代人》(第四章表題)であるのか。そんな時代錯誤に対しては 現在の地点に立って きみよ 《知の遠近法を学びたまえ》(第三章)と返さなければならない。やたらに 遠い背景を持ってくることなく そして持ち出して来なければならないとしたなら まづ最初に それは遠い過去であると ひとこと たしなみを持って ことわって進めなければいけない。
われわれは 山口昌男をたしなめる。
われわれは現在 法的に重婚は禁じられている。これは 法制的な次元で説明のつく問題ではない。むろん 人間問題である。そして おそらくわれわれは 異感人であることをいさぎよく思わず しかも 同感人から異感人へ転落するときの背感――その焼印――を しかしながら愛をもって希望をもって 乗り越えることができたのであろう。ゆえにその同感人の有効性は――信仰としてその有効のよってきたる源泉の力を 信じることをやはり含むと語ったほうがよいと思われるが―― 同時に 経験合理的に 法律たる文化有力としても うたったのである。つまり その意味で 法制的な問題(司法もしくは そのような裁判に直ちに訴えなくとも それを一つの背景ともした人間の知恵の実践法則の問題つまり 倫理)に 焦点があてられてもよいのである。
したがって現代では おおむね 重婚は 過去の 同感人潜在・それとして異感人有力の社会のものである。
ところが その現代にあっても 一婦多夫は―― 想像上の一婦多夫は―― 文化有力の少なからぬ部分を占めているのである。わたしは男であるから 一婦多夫という方を選んで取り上げたのであるが これは 過去の遺物なのである。(イスラームやそのほか土着社会に けちをつけるつもりはないけれど この考え方のほうが よいのではないかと考えている。意志の自由は 変更も自由なのだが その変更にしても 自由ゆえに 必然性などの理由説明を求められることが まったくふつうである。つまり 意志は 基本として ひとつである。人格をともにする相手も ひとりである。と考えるゆえ)。
このとき 実態の少なからぬ部分が 一婦多夫だからというので そしてそのような供犠文化の有力は 一夫一婦の生活態度を どうしようもなく絶えずからめとる構造を持っているというので 一婦多夫制なる盲腸のうずきを 散らすために 一人ひとりの自律的な浮遊性の軌道の拡大を図らなければならないというのであろうか。それは 内政干渉でなければ ただの道徳屋の演説である。
われわれも 道徳家のように――あくまで 《のように》――なって言わなければならないとしたら 同感人よ団結せよである。
われわれは 過去の遺物の出没に対しては 徹底的にこれを憎み 時に さげすんでやらねばならない。ゆうれいよ 同感人たるならば 墓場から立ちあがりなさいと――たしかに人間関係の土壌があった上で―― たしなめてやらなければいけない。もし ゆうれいが かく言うわたしたちを あざけり笑ったなら しめたものである。もうわたしたちは かれらに対して 人間として愛するということ以外の負債を負わないでよいようになるでしょう。兄弟として隣人といて愛するという負債は 依然として 持続的に負うのであるが もしわたしも 嗜みをなくして口走るとするなら ゆうれいなる欲望する機械の 器官なき充実身体は おそらく 笑ったあとで――つまり高みに上がったあとで 地に落とされ―― じたんだを踏んで くやしがるであろう。これが われわれにとって 《〈哄笑〉の宇宙》なのである。われわれは しかし その以前に よろこびなさいという言葉を聞いている。一婦多夫は 過去の遺物なのである。
《反神話のヒーロー》たる《のらくろの〈精神〉はわれらの同時代人》なりと言うかも知れない。だが 一婦多夫の神話に対して その供犠文化の有力のはざまで 自律的に浮遊するどじな英雄――つまり《のらくろ》――をもって どうして現代のわれわれが 生きなければならないのか。いや そうではない その見方はまだ皮相なのであって

武勇譚の主人公のらくろと反主人公としてののらくろは こうして神話と反神話の間を往還するもう一つの神話的主人公なのである。のらくろの魅力をこの点を抜きにして語ることは出来ない。
(第四章)

と山口は言う。しかるに なぜ もう一つの神話的主人公たる偶像が必要なのか。あるいは なぜ 道化にならなければいけないのか。私は愚かになっているだけである。愚かになって語っているだけである。なぜこの同感人の出発点が わざわざ 道化にならなければいけないのか。仮想敵をこしらえるからでないなら なぜか。仮想敵を 偶像のように愛するからでないなら なぜか。仮想敵を自己と同じように愛するのではあろうが その自己がもう一つの偶像を 仮面のようにかぶっていて その自己と同じように でしかないのではないか。出発点からの踏み出しで わざわざ まづ自分から過去の遺物をゆうれいの構造に からめとられて行っているということではないのか。――なんじ みづからを知りなさい。
われわれは 頭の蔽いを取り除かなければいけない。自己の出発点の核に 外から何かを持って来るのではなく すでに外から入ったものを取り除かなければいけない。この出発点に還ったなら おのづから わたしたちは 人を愛さずにはいないであろう。愛すべきものを見つけたからである。そのものが 人においても 同じであろうからである。シャッポを脱がなければいけない。シャッポは要らない。象徴天皇は シャッポではない。日本国民が同じ一つの帽子をかぶってこそ 統合されるというのではあるまい。被るべきシャッポとして象徴であるのではない。それは 統合ではない。
《平和を維持し 専制と隷従 圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において 名誉ある地位を占めたいと思ふ》(憲法前文)ところの《統合》ではない。そして たしかに 他方で法律は 一つの約束・また手続きでしかないのだから やたら《名誉》を追わなければならないこともないし 《統合》というのにも その中味にかんして さらに具体的ないくつかの議論があらそわれるとは思うのである。ところが それらは やはり偶像文化から脱し 観念のシャッポを脱ぐことによって そのいくつかの見解がたとえ分かれていても 分かれていてもよいように いちおうの普遍的な踏み出し地点をわれわれは 共有しているとことと思うのである。
山口が次のように語るとき わたしはほとんど諸手を挙げて どう答えてよいかと惑うのである。

グ〔ッドマン〕氏が次のように語るとき 私はほとんど両手を挙げて賛成したくなる

私が言いたいのは 不義を打つことは結構だが それで正義がわかたことにはならない ということである。私はやはり 正義とは不義の不在をいうのである などとはどうしても思えない。

つまり 積極的な《価値》を肯定する途を選ばずして いかにある対象を否定することができるのかという 今日流行のスケープ・ゴート造りに対する批判にそれはなっているのである。
(第三章)

わたしは グッドマンの所説に 賛成したくないというのではない。

  • ただし 《正義》という言い方は ここの引用文の中だけでは はっきりしない。グッドマンによれば 《〈マルクス主義ベンヤミンの神学への傾倒》(第三章)が その正義の中味の例示であるということらしい。この点では われわれは ジラールの問題で語ったと思われるから 素通りしてもいいであろう。

つまり端的にいえば 山口の天皇制論が《今日流行のスケープ・ゴート造り》になっていないならば わたしたちは 山口とともに さいわいである。一婦多夫の《不義を打つことは結構なことだが それで正義がわかったことにはならない》と もし山口も考えているのなら かれ山口は《不義の不在をい》っているだけではないのだから 何をもって 《積極的な〈価値〉》とするのか。われわれは 一夫一婦がそれだなどと さかさになっても 言って来ていない。(その倫理がどうでもよいと言い放ってしまったのではないが)。
上の一引用文は 《ユーモアおよびアイロニー》をもった《優雅な美学》としての文脈の中に位置するものだから われわれの批判は 不案内である。だが より詳しく紹介しようとするとき わたしはもろ手を挙げてかんべんしてくださいと言いたくなる。それは ところが 必ずしもこの種の山口の議論をわたしが嫌うからではなく そこでは 一夫一婦の形態をふつうに採り よろこびをもって生きているふつうの人の出発点および踏み出しという生活態度のことを 山口は 描き出そうとしているからなのである。
人はこの 知の遠近法に感銘を受けないのではないと思われる。過去の遠景たる一婦多夫制と 現代の近景たる一夫一婦のあり方と。しかし わたしは やるせない。山口のえらんだ積極的な価値を肯定する途は ここで一幅の絵画のように 描き出されている。偶像として出もないし 天皇制あるいは一婦多夫なる仮想敵またはスケープ・ゴートを造る構造を こんどは ここでは 超えている。わたしは どう言ってよいか わからない。
そして こうなると わたしのほうこそ 山口を敵とし――仮想敵とさえ言わずに 敵とし―― むだなスケープゴート造りに腐心しているようである。もうわたしは ユーモアも何も持ち合わせずに そのような暗い作業にとじこもり 山口のようには この構造を超え得ないでいるようである。ほんのりとした像や感覚を伝え得る絵画を作り出そうとしているのではないし だから出来あがっていないだろうし おもしろい動画を構成しているのでもない。
だが それでも――というときの踏み出しには ユーモアの問題があるとわたしは 考えるが―― わたしはわたしを擁護するなら こう語っているときにも そしてほかのところでも わたしはわたしである。わたしは ここにいる。もし 山口が《いっそのこと 〈想像の中の〉悪人にでも徹するか》(第三章)というごとく わたしもそうするなら――いや 山口は 徹してもいないし悪人ではないと思うし わたしのほうは 意地悪くなるならということだが―― もしそうするなら 《山口昌男は その議論・過程的に展開する所説・その意味での著書とともに その自己がいる》と見る。そのユーモアも この議論が絵画のようだとするならその絵画の中に 描き出されていると見る。この絵画の中に もしくは少なくとも絵画・動画とともに 山口自身は いるという恰好になっていると思うのである。
そしてそれは このように 書物(表現行為事実――もちろん 内容ある成果――)を持ってただ不義を打つだけではなく 積極的な価値を打ち出しているのだと 考えられる。わたしはむしろ 不義を――というか 虚偽となるうそ また がんこな異感 これを―― ただ 打っている。つまり 考えを述べている。わたしは いつも わたしとして ここに いるからである。書物をとくべつ必要としない。えらそうに言えば そうなのである。山口は 極端に言えば 書物の中にいる。そして 事ここに至れば その書物が 内容として悪いというのではない。でも その書物の成果を離れていないのではないか。自身が 絵画の中へ入って行ってしまっているのではないか。もしそうだとしたら たしなみがない。
(つづく→2008-02-03 - caguirofie080203)