caguirofie

哲学いろいろ

#49

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−7

出発点からの踏み出し そしてただしそれの一般論 こういった主題を考えるによい材料を提供してくれているから 山口昌男のいまの書物を 追って 読んでいく。
《噂がひとを襲うとき》(第二章の表題)というのは まさに実践の問題であります。どう対処して 踏み出すかにかかわる。だが ここでは 逆に はじめの基本出発点に踏みとどまることが正解だという結論に 総論としては みちびかれるでしょう。このような踏み出し一般論の一例を この章は 考えさせてくれる。
中傷するうわさにおそわれたなら 一見すると もう出発点も踏み出し地点も通りすぎて すでに行動そのものに入っているように感じられる。しかも ただちに結論を考えるなら 噂も 根も葉もなければ 無効なのであるから なにもしないことが 正解であるでしょう。出発点そして踏み出しの地点にとどまること。出発点というのは 基本的な考え方として わたしがわたしであること・従って早くいえば自覚のようなものです。
踏み出しの地点にとどまるとは それまでの情況・そこにおける自己の具体的な立ち場でそのまま 進むことです。つまり――民主的で自由な話し合いが 基本一般論でもあったのだから―― 面と向かってや・実際に耳に聞こえるように 噂されたら これをたださなければならないし 公けの中傷記事等に対しては 法律に訴えるという踏み出しまで じつは 元の地点に踏みどまるゆえに 考えられるのだけれども 基本的に言って 無効の言動に対して 何もしないということが やはり一般論として言える。(はっきり言っておきますが 一生かかっても 噂をつづけられ通しであったといった場合もあるのです。それは 噂を流す人が それだけの間 無効の人生を送ったということです。かれは 相手に対して噂を流す(あるいは その噂をいだく)ことで 自分の心理的な起動力をつちかっていたことになる。こういう人生もあるらしい。

サルトルがいった言葉に《神が存在するかどうか というのは大きな問題ではない。たとえ神が存在したとしても 別にどうということはない》というのがあるそうである。そのひそみに倣えば次のようになる。

それ(噂の内容)が起こったか 起こらなかったかというのは大きな問題ではない。仮りに起こったとしても別にどうということはない。

この生に対する乾いた姿勢こそ 今日様々な事件の交錯する中で 報道が示すべきコミュニケーションのパターンの一つになるべきでなかろうか。少なくとも魔女狩り防止薬があるとしたら こうした状況的モラルとしてのピカロ(悪漢・トリックスター)的行動基準の採用なるのではないか。
(第二章)

と山口は 今の問題に回答を出している。これは 完全にまちがいであろう。
山口の基本的な解答も この第二章の全体の論旨から言って 出発点にとどまること・つまり特別何もしないことだと考えられる。じつは 考えられるのである。少なくともそういった奥行きを持っている。(もたせた表現の運びがある)。だが 上の具体的な回答をつけ足すのは ひとこと余分であるだろう。ただし この付け足しのほうにも 基本的な主張内容と重なる幅があるかも知れないので きちんと読んでおかなくてはならない。
《ピカロ的行動基準》が そのままトリックスターの行き方のことだとすると 基本的な解答としての踏み出し地点の確認と 同じことだとわれわれは 受け取らねばならないかもしれないからである。いづれにしても 上の引用文に限って その中で《魔女狩り防止薬》という言い方から考えられることは 出発点(わたしがわたしする)の実現を 阻むものに対する予防としての具体的な踏み出しのことにも 触れようとしているということである。そして 《生に対する乾いた姿勢》がそれであると。
だが これは 勇み足というか 逆に 小心さにしりぞくことではないだろうか。もしくは 《報道機関の行動基準》としては 勇み足でもなく 民主的で自由な話し合いといったわれわれの基本原則(踏み出し地点)の実践であり この場合は だから 必ずしも個人的な行動基準のことではないということで 決して 小心な態度にしりぞくものではないのだということなのかも知れない。
それにしても 少し大胆な提言である。(この場合は 十分条件を満たす具体知言なのである)。そしてこの大胆というのは 防衛意識の過剰から来ているのではないかというのが ここでの取り上げた主旨であります。われわれが言うのには 

それが起こったか起こらなかったかというのは――おそらく――大きな問題である。ただし 噂が無効ならば 仮りにそれが有効となったとしても 別にどうということはない。すなわち 有力ならば 何らかの社会的な影響が身に及ぶこともありうると思われるが それに対しては 消極的にでも取りあえず確かに犠牲を引き受け そして 出発点の保持こそが 重要である。(あるいは それ以外にない)。

となる。
すなわち わたしたちは 魔女狩りを 何もしないで 受けて立つ。(受けるとか受けないとかは その無効の行為を憎み むろんこの行為を受けるとかどうのこうのではなく 行為の主体 これは 同じ人間なのであるから 人間でありなさいと指摘する苦労をとりつつも おそらくかれは がんこであろうから しかも この主体たる人間存在じたいに われわれが かかわり(愛)を持つかどうかを 意味する。この愛としてのかかわり(関係)を持つということは まだとくべつ何もしない)。それは ピカロになるのではなく ひかりの子となって 魔女狩り・中傷・噂の中味が――というか それを流した異感人たちの異感性が―― 照らし出されるのを見守っている。これは たとえば逮捕とかの物理的な力が加えられてきたときにも成立するところの・どちらかと言えば内面の問題である。ただし 物理的な力というとき もちろん 緊急避難・正当防衛はありうる。そうして 必ずしも 予防線を張るものではないだろう。
予防線を張るのが必要な場合というのは それは すでに 踏み出しとしての言動そのものの 表現内容かつ表現形式のなかにある。まちがいは人のつねであって それを はじめに弁解とはしないけれども たとえまちがうことになったとしても 言動を 確信をもって おこなうこと すなわち 確信を持てるということが 予防線になるはづである。これは 予ではなく その現場での防衛と言わなければならないけれど 《とくべつ何もしない言動 その確信》が 予防線といえば予防線である。とくべつ何もしないということは その時と場合また人に応じて いろんな表現の内容かつ形式で 自分が人間であること 相手もおそらく人間であること このことを 相手にわかるように 説き明かしているのである。
すなわち 《生に対する乾いた姿勢も 湿った姿勢も》 そのどちらも 出発点の基本線とそれに立つ踏み出し地点の一般論としては 出て来ない。言いかえると 確信をもって 生に踏み出すということである。報道者も 基本的に 同じことだろうと考える。
小細工は必要でない。それは 防衛意識過剰の勇み足だと思う。つまり やや抽象的に内面そのものとして基本出発点 それに外面をからませて今いる立ち場としての踏み出し地点 これらをつねに どこまでも 自乗していくことが われわれの一般論としての解答なのである。
しかし 罪人でない人はいないと言うではないか。確かに われわれは誰でも 人類の祖先からその異感人状態(つまり 同感人の傾き・偏り)を受け継いでいる。そうだろう だからもっと具体的にいえば 火のないところに煙は立たないというじゃないか。もし こういう場合というのは その噂が 根か葉かがあるという場合である。すなわち 噂であってもその言動は 無効でないという場合である。だがこのときは 噂の根か葉かが事実であればよいのである。もちろん 相手の納得するように あやまらなければならないこともあるのだろうが
 部分的な事実である以上に 迷惑をかけたのなら その相手はもう 噂を流すというようなかたちでは 訴えていないであろう。いまは 噂に限ろう。ただs 限らなくても 民主的で自由な話し合いという基本原則は 基本原則である。

神が存在するかどうかというのは 大きな問題だが なかなか容易には 議論になじまない。われわれは 存在すると信じ考えているが その真理で議論するのではなく――また できなく―― 同感人といった人間の真実で 話し合いをすすめる。これによっても 歴史の進展とともに 異感人の無効〔が 既成事実と見なされ その実効性をもって社会有力となったもの〕に対して どうということを 言っていけるし 勝利をかちとるであろう。

これが われわれの踏み出し〔地点〕の一般論である。そこには 魔女狩りに対する防止薬は ないであろう。なぜなら 異感人は みづからすすんで自由意志で異感人となるのであるから(この自由意志に 予防のためとて 内政干渉することはできない。交通整理のための法律は持ち得ている) そして 魔女狩りが起こったなら それに対する処方箋は すでに じつは 含み持っているであろう。つまり 無効に対しては何もしない――何もしない闘い――というのが 基本の踏み出しである。わざわざ これを言うのは 良心(同感人性)のためである。この良心というのは われわれのではなく かれら異感人たちのそれである。(同感人出発点を わざわざそれとして 理論の中にである以外に 踏み出しとして 言い及ぶことは その概念化である。同感人であること=同感人性といった一つの概念になる。その意味で 良心という言葉がふさわしい)。
わたしたちは――議論がかなり進んできて―― 具体的に このように 踏み出していく。人間に近づく。一般論とことわったから もちろんまだまだ 滞留する議論ではあるが。そして もっとも この滞留とて 出発点存在の自乗過程を基本線に持って どこまでも 有効だし 具体的な行動の一つひとつにも ついてまわるものだと考える。
山口は 異感人たちの供犠文化の構造が有力となっている社会にあって その文化有力をささえようとする異感人たちの人間に すでに初めに 近づいて行っている。われわれの基本出発点を そこで どうにかして かれらに見させようと がんばっている。宇宙祝祭の感覚をとおして この人間出発点を見てみたまえという論陣を張ろうとしている。わたしたちは 順序が逆である。同感人の祝祭(旧い表現だが)を見たくないという人に対して わたしたちは 好きなようにさせる。それでは具合がわるいという問題が起こったなら そのとき 対話・交通をおこなう。噂は それじたい異感人のなせるわざであるが 平俗的に言って 法に触れないなら まだ いちおう 好きなようにさせておくし じっさい 直接にそれを言われてみなければ その噂は まったく無効である。(無効の行為をおこなっている人に対して 勿論つねに 話し合いの機会を 必要の限りで 望んでいることに変わりはない)。だが わたしたちが 対話をしようにも 無効の噂にかんしては できないのである。
もっと細かいことをいえば 間接的にその噂が聞こえてきたなら それはそれとして 受け取り その受け取ったぶん 人間に近づくということを その場で おこなっている。その仲介者に対してにしろ 噂の張本人に対してにしろ 《民主的で自由に話し合う》という基本原則に合致した場合には すすんで対話する。人間を愛し(つまり 関係を持つと同時に まじわり=交通を持つ) その噂を流すという異感人のしわざということに対しては――人間どうしが関係存在であるゆえに―― 憎む。その虚偽を――いづれ多少とも心理的に内面へも入ってくるであろうから しかもこれを―― われわれは内的に棄てる。これが受け取ったということであり 憎むということである。徹底的に憎むのである。虚偽の背感や異感をにくむから 同感人に還帰するというのではなく その逆だからである。だからその逆だというとき わたしたちは 道徳や法律のゆえに そうするのではないであろう。しかも 道徳や法律を活用してもよい。
異感人たちが もし意志していることなら それを――法律条文でも慣習でも―― 逆手に採って 対話の中で 近づいていけばよい。そういう機会をわれわれは 見逃さないであろう。祭壇に供え物をしようとしているとき(つまり 同感人出発点の自乗を たとえば分かりやすく祈りをとおして ねがっているというとき) 自由意志による言動だという機会ないしきっかけ(契機)があるなら 祈りをほっぽり出して 話し合いにただちにおもむく。そしてその場合には 社会的な立ち場じょうからだけ 交渉を持ったというときでも その社会的な(事務的な)交渉と同時に 人間の同感人出発点としての踏み出しによる対話を 気長におこなっていけばよい。
話しは そうとうなまなましい所まで踏み込むようになったから これは わたしの個人的に自由な見解であると ことわったほうがよい。つまり わたしの主観としては やはり あの良心のためである。人びとが 同感人であることを――わたしのような一個人の言動で――まったく見失うようになるほど つまづかないためである。
(つづく→2008-02-05 - caguirofie080205)