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哲学いろいろ

#50

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−8

《それが起こったかどうか 仮りに起こったとしても 別にどうということはない》と見る《生に対する乾いた姿勢》は しかしながら 《人間は多かれ少なかれ だれもが 異感人なのであるから 誰か他の人に自分を理解してもらおうというような甘い考えでいるのではなく 大人になりなさい》という議論に発展する。もしくは もともと それを含んでいる。またまた こういう奥行きを山口昌男の所説は 持っている。
《同感人としてのいわゆる実感》を 相手にだけ・あるいはまづ相手から 求めようとする甘い姿勢は 確かにまだ大人ではないのですが かと言って 《世の中は 異感人たちのだまし合いから成り立っているとする》のも 決して大人なのではない。乾いた砂漠 のっぺらぼうの世界で その異感人関係に耐え 耐えるだけではなく 欲望する機械をみづから動力機関として 異感人関係の世界の中でも ある秩序をつくりだし 生きてゆかなければならないという思想は 出発点をまちがえている。
われわれは 同感人関係に立ったから――すなわち ある日 異感人関係の世の中で あざむかれ 自分ひとりの力で この異感人関係を克服することは出来ないと知って そのような絶対的な貧困の中から ある日 同感人の関係に立たしめられたから―― 背感の悪には子どものようでいても 異感人たちの疑いや噂に対しては 考え方で大人になって これに自由に耐えてゆくのである。また 耐えるだけではなく 一歩一歩 克服してゆく その思想生活に 突入している。
山口が 《〈乾いた〉大人になりなさい》とまで言っているのかどうか 分からないが(そこまでは 言っていないであろう) 前節の議論は こういう局面の問題に進み入る。ある意味でこれを山口は 《第八章 病いの宇宙誌》であつかっている。
すなわち 疑いを持ちつづけ(あるいは 好奇心〔だけ〕を持ちつづけと言ってもよいかも知れない)噂を流しつづけるその意味での異感人たちのしわざは 無効であるが――なぜなら 同感人の自由意志をその人たちは 積極的に否定していないとしても そういう出発点の自己の自由意志を おそらく それらの行為(しわざ)に対して 裏書することもおこなっていない(つまり いわゆる無責任ないし常なる集団主義的責任)ゆえ 有効かどうか はっきりしない―― このことは 第一に とりもなおさず ドゥルーズガタリらの分析を経ずとも 当の異感人たちが 病いを病んでいるということなのである。
第二に われわれは かれらを排斥することなく(その人を愛し その異感人状態を憎み) かれらに近づき 対話をおこなおうとしているのであるから 事実上われわれは かれらのその病いとも まじわりを持ちつづける。(もしくは 噂や中傷でもなくまた疑いでもなく 単純に《考える》ということ すなわち 考えるゆえに我ありとして 考え続けるということ)。としての異感人状態 だから 実際には準備していないところの 同感人還帰への準備作業の状態 すなわち 自己疎外の病気 これに対して
この病気に対してわれわれは それがたとえ文化有力となっていても もともと 出発点が無効だと考えるから 子どものようになって 放っておく。と同時に 考え方の上では 大人であるから 対話へと 一歩一歩近づく。まだ 対話は成立していないときでも かれらが病んでいるということ自体は われわれはこれを受け止めている。そのとき たしかに《病いの宇宙誌》が 一つに 思想として要請される。われわれは 停滞しないも 滞留するからであり 病気の状態であると知っていても 患者(商品としての)あつかいしないからである。人を愛し 罪(病気からのしわざ)を憎むから 同感人復帰をねがって 対話に際して 相手の状態を認識してあげようとする。またそれは 多かれ少なかれ 心理作用としてわれわれの内へも入ってきた無効状態の虚偽を われわれが内的に――内的にである――棄てる行為である。
われわれは もはや異感人ではないが 異感人状態にある人たちに対しては かれらと同じようになって――その病いを引き受けてのように―― 対話の進展を見守るし 同感人への復帰をねがっている。われわれには 愛があふれているからである。押し付けることは出来ないが こういう思想をとることは自由なのであり(もしくは はじめに 同感人思想をとるゆえ ほとんどおのづから そういう場合にみちびかれ これに 主観動態として対処していることは 自由なのであり) そしてさらに 人間は社会的動物なのだから 交通・対話は おのづから必然的なできごとである。(また ここで 民主的で自由な対話という基本原則)。
この対話の場で もちろん異感人たちと同様にわたしたちも それぞれみづからの思想を 棚に上げ 忘れてしまっている必要はないのである。(異感状態の人たちは 自分たちには思想はなく そのほうが自然なのだと言って がんばるかも知れないとしてもである)。労働の場でも商売の場でも そこに人間がいるなら 経済活動をおこなうと同時に 人間の思想活動が 進められているのである。あくまで思想への準備だという思想が 人間にとってふさわしいと がんばる人は いるかも知れないが。ただしわたしたちが思想活動というのは 思想の上では 経済活動を含めた社会生活一般ということにほかならない。つまり この生活社会のことを ほっぽり出して生きるというわけには行かない。
で 《噂が人をおそうとき》というのは 実質的に言って 《人が病むとき》という主題にうつる。病みながらでも人は仕事をしているように すこやかな思想をたずさえて それをないがしろにせずに 同時に仕事一般をおこなっているというのも ふつうの生活態度なのである。
わたしは 故意に 同感人と異感人とを差別しているようであるが そうではない。ふつうの対話が成立する以前に まづは人びとは――同感人も異感人も―― 病いをとおして 交通しあうのである。対話は 意見をのべあうのであるが 交通一般は 病いをとおしてでも――つまり 自己の意見を模索する状態のときにも―― 必然的に成り立つ。出発点を《っ同感人》すなわち《感性》の概念で表現するゆえんである。われわれは 自分のためであれ人のためであれ 病いのいやされることを ねがっている。だから その思想を押しつける内政干渉をするのではなく 人が感性的にしろ近づいてきて 何らかのまじわりが出来たなら 思想をほっぽり出してでも 《汝自身を知りなさい・よろこびなさい・墓場から立ち上がりなさい》と ひとこと ことばをかけてあげる。感性の問題がそういったことを要請するときにであり もちろん そういった意味あいの言葉で まじわるということである。いまは 病いの状態とまじわる場合に限っているが じつは しばしば 《異感人》たちがわれわれに近づいてくるのは この病いをわれわれにうつす意図を持っている。狼が羊を見つけてそうしようとするか あるいは 迷える羊にしても もっとか弱い羊を見つけたと言って そうするのが たいていの場合である。その場合には 異感人状態が強烈であるときには これを憎むことが先にあらわれるかのように 《ほろびなさい》と言ってあげてもよいのである。じっさい 異感人たちは その病いの感性で わたしたちの心に 不法侵入してくるのでもあるから。それだけの状態になってしまっているときには 《さがりなさい》と言ってあげる。かれらの病いを引き受けてあげたからでないなら そうは言わないであろう。民主的で自由な対話を待っているのである。また そう言われたくなければ 不法侵入して来なければよいのである。
われわれは 去る者を追わない。――いまは 意見をのべあう対話の以前に 感性的な交通の始まるとき しかも 病い〔の電波〕を押し付けてくる場合について述べた。異感人と異感人とのあいだでは 異感の電波を交し合って――もちろんこれは じっさい物理的でもあるが 内面にかかわっているから―― そうして心の中では にやにやと そういう《大人》の笑いを笑い合っている。

治癒といっても 誰が治癒されるべきか 治癒するとはどういうことなのか 誰がなぜ治癒するのか ということは その社会に住む人間の信仰体系や社会構造に関わる問題である。〔と山口とともに われわれも考える。ところが〕こうした広い文脈で把えると 医者と患者の問題は 各々切り離してではなく 両者を一つのカッコに入った関係として捉えなければならない。
(第八章)

として 考えていくのは それは 一般論として成り立つようであるが また その一般論が 社会全体を統合するような顔蔽い(繭。早くいえば 思想統制)にも なりかねない。
(つづく→2008-02-06 - caguirofie080206)