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哲学いろいろ

#65

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》 f

§13−4(つづき)

自分たちのほうも 犠牲をこうむっているという言い分をつくりあげる。犠牲者を思うことこそが 人間の自由でありその持続であると思いこむ。犠牲者という表現には 広く 福祉の充実ということも入っており この仕事をしているなら われわれは自由な人間であるという安心が得られるという寸法のようである。実際には その重荷と思っているもの(自由=同感人出発点)を 投げ出したのである。
この内実は つきつめていくと 自分たち自身が 生と死との自由を持つ存在として 犠牲者になっているしその犠牲を引き受けているという自負を意味する。これを もっぱらの心理起動力とするのである。そうして生きる。つまり無効にだから 死んでいる。
こういうタカマノハラ神話症候群なかんづくスキゾ・シャーマニスムの思想が 見られるというものである。この限りで 自死の思想は いや自死の事実行為は 当事者個人の問題に限られず 集団的・社会全体的な場の問題を じゅうぶん孕むと見なければならない。結果的に この死者個人が あるいは 生活保護を受けている人が 社会の問題を告発していると言っていえなくはない。そして おどろくなかれ このような――もしそうだとしたら――告発は 心理起動力によって成るスキゾ・シャーマン(アマテラス予備軍)たちの迎えるところとなっている。《聖なる犠牲(死)‐世俗なる生》といったその限りでの人間という存在の条件を 明らかにすることになるからだし しかも 事態は もっと複雑なのであって こうした供犠文化の構造はさらに 犠牲のほうは 《聖なる死者たる犠牲(1)‐世俗なる生者たる犠牲(2)の連関を持ち 生のほうは 《聖なる観念の生(3)‐世俗なる観念の生(4)》の連関を持っていく。
《世俗なる生者たる犠牲(2)》と《聖なる観念たる生(3)》とが スキゾ・シャーマンの心理的な起動力において 連結する。《聖なる死者たる犠牲(1)》に対しては 表向きにこれを悼み尊び崇めつつ もう どうでもよいと考えており さらには あのばか者がというように思っており(これは 必ずしも悪い意味ではない) 《世俗なる観念たる生(4)》に対しては 同じくそれは とんまであると内心おもいつつも これを持ちあげる。つまり これらを 自分たちは指導しなければならないし支配し得たと思い この支配の持続のうちに――そのためには 日夜努力し知恵をしぼるのである―― 人びとを搾り取るのである。スキゾ・シャーマンは このハイテクノロジを 近代社会の中で 編み得た。

こうして人間の歴史はいつまでも たとえキリスト教社会がそうであったように自殺を禁ずることがどれほど厳しいものであろうとも 《意志的な死》によってしるしづけられることをやめない。
(日本版への序)

という見方は スキゾ・シャーマニスムのハイテクを 告発しようとしているけれども まだそれは 告発の次元の問題であり いうならば 先の供犠文化の構造のなかで さらに新たな第(5)項として《聖なる観念の死》という一項目をつけ加えようというほどの議論である。死んではいないが 観念の死であり その観念が理念にかなったものであるから 聖であるとしていく見方である。もちろん パンゲの内面の方向は その反対なのであろう。山口昌男流にいうなら それが からめ取られていくかも知れないわけである。そしてわたしは 第三者理論としてその構造(しかも 過去の遺物であると言ってきた)を 必ずしも問題とするのではなく 当事者個人を考える。《聖なる 意志的な しかし観念心理の上でも死》 これをよそおうという――みなさん そうしようと言う――生活態度のことである。(むろん 言外に言っているのである。みなさん 察しなさいと)。
この世に対する嫌悪もなければ 決して死にたいと言っているのでもないとすれば ただし この世のたとえば権力機構に対して あくまで闘おうと言っていく場合である。ダイ・インというやつがある。われわれは いうとすればすでに 同感人出発点の存在であること自体が たたかいである。観念心理(その力)を それが感覚作用をつうじて それなりに起こることは知っているけれども 早くいえば どうでもよいと考えている。その限りで 告発しない。つまり 告発する・しないとは 無縁である。ダイ・インの運動ももちろん自由である。そうして 出発点の保持が たたかいである。具体的な対話交通の思想。
つづけて

現代という地平では それが今までになく大きく現われていると言うべきではないだろうか。
(承前)

というのは 人びとの心理起動力にうったえようとする部分が大きい。つまり触発の文化の行き方で 述べている。つづけて

キリスト教は今までのように自殺禁止 自殺断罪の一点張りではない。
(承前)

ということは ひとりキリスト教に限らない。逆にいうとすれば 現代では触発の文化が 人びとの心理起動力にうったえることを通じて 生活の推進をはかってきた側面を もう優勢なものとはせずに 後方へしりぞけるようになって来ている。触発の文化をさそう指導者のハイテク文化が みづから――キリスト教社会ひとりに限らず―― 触発文化の後退を招いて来ている。

アウグスティヌスの時代は終わろうとしている。
(承前)

いや アウグスティヌス(その表現形式)の時代はすでに終わって来ているし しかもアウグスティヌスの生活態度は 現代でも時代の基本線である。と考える。かれは 触発文化の行き方から無縁であった。《どうして あした また あした なのでしょう》という主張なのだから。つづいて

神自身 神の《意志的な死》によって 死んだように思われる。
(承前)

だとしたら 《神》にかんする文字・観念心理・その理念的なものの念観 これらすべてを 《神自身が 自己の意志的な死によって》死なしめたのだと思われる。このことを 神は死んだと表現しても 神は生きていると表現しても かまわない。《神自身が自己を意志的な死にみちびいた》としたなら――ただし 人間キリスト・イエスは 泣きながらこれを受容したし また 受容したと言っても ローマ総督やユダヤ人たちに対して 自分は死にたいと言ったためしはなく 最後の最後まで 自分の無罪(人間経験的にも)を主張しつづけたのであって いやことばはあまり多くを語らなかったかも知れないとしても 犠牲になることを どこから見ても 望んだりそれへ自分かおもむいたりしたわけではない。人間の貌として こう言えると思う。こうであるなら――それは かれより後の世界にあっては 自死がまったく無用だと言ったことである。それから四百年ほどのち アウグスティヌスは 殉教の時代は終わったと言ったらしいし 殉教は自死とは異なるが いわゆる宣教の初期に 殉教の犠牲は 同感人出発点のあくまで保持として 起こり得たという歴史があったことは 事実である。

たとえば今かりに ある全能の存在者を想像してみよう。この全能者は自己を完全に抹殺することができるだろうか。できるというのが答えだ。そして多分 愛に導かれて自分が消えて行くその瞬間に 彼は現実世界の悲劇的な美しさ(*――こういう見方と表現は われわれの取らないところである。悪い・悪くないの問題ではなく 人の感慨の問題にとどまるから――)と人間の自由とに席を譲ることであろう。神の死を語る神学だけが現代という時代にふさわしい神学である。西欧は今 そのキリスト教的過去の痕跡を残していようといなかろうと 日本が西欧よりも先に身をもって示した《意志的な死》に対するあの晴朗なる寛容に近付いているように思われる。西欧も今は 日本の歴史が持つもっとも悲愴にして もっとも高貴なるものを理解し 省察することができるようになろうとしている。
(承前)

日本人を持ち上げることが 変に意図的なものでないなら ないのだから 結局 《意志的な死》じたいも――それが現代にも例外的に起こるかも知れないとはしても―― 無用だと言うのが 現代の思想である。これは 明確に提示して自覚する生活態度の表現としては 一般に キリスト・イエスのあと ヨーロッパ人が 追究してきたところのものである。神の死は キリスト・イエスの十字架上の一回の死で十分なのだから 《愛に導かれて自分が消えていくその瞬間うんぬん》という仮りの想像については 《愛に導かれた自分》がその愛そのものであったということを 補足しておけばよいであろう。そして一般に神学というんは――上の補足も神学であるが―― 一般の同感動態における対話表現として もう古いと思われる。古いものを用いて表現する場合というのも 一向にかまわないわけであるが。
(つづく→2008-02-21 - caguirofie080221)