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哲学いろいろ

#69

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》 j

§13−7 今村仁司現代思想の系譜学

現代思想の系譜学

現代思想の系譜学

パンゲの章に さらに今村仁司のこの著書を取り上げます。

連帯の自殺 つまり心中についても事情は同じだ。心中も日本では長い歴史をもつ。そのなかでももっとも痛ましく またもっとも普通に見られるのは家族そろっての心中 つまり一家心中 親子心中と呼ばれるものである。親が子を死の道連れにするのだ。わけを話して聞かせる場合もあるし 子供には何も教えない場合もある。
(パンゲ 第四章)

わたしはこれを 《仲介者(文化人類学者)が被仲介者(読者)を死の道連れにするのだ》と読めないとすれば さいわいである。仲介者理論は 心理起動力による連帯の発現することをねらっているところがある。わけを話して聞かせる場合である。
キリスト・イエスも 仲保者つまり仲介者ではなかったか。そうである。しかしわれわれは イエス・キリストではない。そうである確信が持てないというのではなく もともと そうではない。ゆえにかれは 真理と人間との仲保者 なのだが これを人間の論法で言うと 人間の基本出発点に――つまり 人間・自己・わたしに――還帰し どこまでも ここに とどまりなさい。親子心中に みちびいたであろうか。しかも 仲保者だから また親として 子を道連れにする。生を 自由を 得させる。はたものを出し これをあとから聖別する供犠文化から 立ち上がりなさいと。これを告知するためには―― 一つの手段として――かれは みづからが はたものとならなければならなかった。または その方策をえらんだ。ただし 同感人にどこまでも 最後まで とどまることをとおしてである。
《殉教の時代》に殉教者として 子を(つまり 弟子たちや信徒たちを) はたものや死の道連れにしたとしても それは そのほかの人間たちの問題である。犠牲者たちは 同感人出発点にとどまっただけであるから。
自死の人類史》は もう止めにしようと告げただけである。そして 犠牲にまで道連れになるにしても ならないにしても その人たちは 《わたしがわたしであった》。いわば自生の歴史が 出発点同感人として 生起し 続くわけである。一つの仲保行為ではある。けれども 犠牲者たちにしても 犠牲にならなかった道連れたちにしても だれが この仲介行為を 自己の目的としたか。人間キリスト・イエス自身としても――人間の貌としても―― いつ 仲保者たろうとしたか。犠牲やはたものは それをつくりあげる側の人間たちの問題である。
すなわち 犠牲をつくりあげる または意志的な死をえらばせるところの供犠文化(そういう知の構造)は つまりこれを固守する人びとは 犠牲者たちあるいは自死者たちと 心中したいと願っているのである。ねがった結果なのである。心中とは 連帯の――出発点同感の―― それとしての(奇妙な)実践なのである。自分のほうは 助かる または もともと 心中のまねをするのみであったということだから 異感状態における連体(同感)の実践である。無効である。また かれらは みづから この無効であることを知っているから いつわりの心中の提案をおこなう。同感人であろうとするという要素は いつわりとしてでも 保っている。はなはだしいときには 一億玉砕にまで行く。
《親子心中・一家心中》の提案とは 異感状態にある人びとが 自分は死にたくても死ねないという悲痛な叫びである。それでよいのに 犠牲者を 実際に出さなければ おさまらないというのである。裏返すなら 死にたくなくても この世で死ぬのだと(異感状態のままにとどまりたいのだと) どこまでも だだをこねているのである。土下座をすれば だだを聞いてくれると思っている。つまり ここでは 接触・参加の場で 人格の交換がおこなわようとする。おこなわれている。相手を 何も知らない・だだをこねるだけの赤ん坊にしようというのでもある。放射能催眠で これを 貫徹する。とにかく どこまでも 死んでいたいという意志(?)は動かない。異感状態が 死なのであり いくらか良心的な人は いっしょに死んでくれと おがみたおす。真理は――つまりわれわれ人間の真実ではなく 真理は―― これにも答え 死んであげた。われわれは 生きるとは真理を生きることであるが 真理その人ではない。
こういう真理の人のまねをする人びとが出て来たのである。いわく 仲介者たれ / それによって世界を活性化する / その元気付けをするわたしは 犠牲になってもかまわない / また人びとよ 犠牲になることをちゅうちょするなかれ。心中教唆の重大犯罪をわれわれは 糾弾しなければならない。つまり やめなさいと。


これにぴったりとは あてはまらない例のほうがよいと思った。
今村仁司は しかしながら 《個体の救出》を言う。その著《現代思想の系譜学》の中での一つの節題である。引用するものは 引用する順序での一連の文章である。

個々人が社会関係の網の目に捉えられていることは 否定しようがない。構造が個体を決定している。この構造主義の真理内容を別の形で言い直してみる。個体は 構造の諸相ないし諸審級を経めぐるということ 構造ないし関係の重層性を身にひきうけるということである。
今村仁司:〈現代フランス思想の構図〉の中の〈個体の救出〉という一節)

《構造(社会関係つまり 人間の交通関係たる経験現実)が 個体を決定している》ことを一つの前提として その個体が《構造の諸相ないし諸審級を経めぐるということ》 すなわち おそらく特には心理起動力が経験現実として一個人に対して有力に作用しており その社会交通関係のあらゆる段階・あらゆる分野で起こっている事実行為は 少なくとも文化観念として どの個人にも もはや逃れようもなく のしかかっている。したがって われわれはその影響を受けざるを得ないということ。このことは 《構造ないし〔経験交通の〕関係の重層性を身にひきうけるということ》とは 別である。
つまり そのように今村が言い直したことは 明らかに 一歩踏み出して言っている。《構造から影響を受けるということ 受けたと認識するということ》 それは その同じものを《身に引き受ける》こととは 別である。だから 一歩すすめて言い直している。そうすべきかどうかを別として 明らかに こう言い直すことは 個体の意志行為であり 基本出発点に立った判断である。わたしたちは おそらく そうすべきであろうと考える。つまりそれは 一つの同感人実践であろうと考えている。つまりこのことは ポスト構造主義と言われている思想の 具体的な一内容であろうと考えられる。ところが つづけて

つまり 個体は いわゆる《主体の同一性》をもつのではなく 非同一性または多様性のネットワークそのものである。
(承前。以下同様)

とさらに言い直すことには 抵抗がある。《主体の同一性》とは おそらく普遍的な《同感人出発点》のことであるとしか考えられず それによって《構造の経験現実〔の特に心理起動力の側面〕》を 身に引き受けたということであったと思われるのに この個体の《身》は 《非同一性または多様性のネットワークそのものである》と言い換えられている。つづけて

個体は その意味で 多方向に身を開いている。

というのは わかる。けれども これが分かるのは 出発点の同感人=関係存在という同一性と 踏み出し地点の交通行為としての多様性とが 同時一体であるという意味においてである。出発点同感人が 《非同一性そのものである》とは――説明の問題としてだけではなく―― 見ないほうがよい。でないと 先の《身に引き受ける》行為は 単なる好き嫌いの問題となる。趣味の問題となる。《非同一性》たる個人個人が 構造社会を身に引き受けるということは 無意味である。または

個体は 社会の中に在るかぎり 分裂し(* =非同一性としてあり) 他面化している。

ということが そもそもすでに出発点となっていると言ったことにほかならないのだから 《身に引き受ける》という判断や実践を 何ら行なわないでも 人は社会構造をもともと身に引き受けていると 言ったことにしかならない。
今村は 次のように 《近代の主体主義》に異をとなえて こういう議論をしているのだが それは 同感人主体たる近代人が 社会構造を身に引き受けるときの引き受け方 あるいは 引き受けたあとの判断や実践としての対処の仕方 これに 異議をとなえているのであって 出発点は 《近代の主体主義》と同じものだし――《何とか主義》といえども 基本の出発点は これと同じものだし―― これを継承するということでなくてはならないであろう。つまり最初に引用した一文では そうであったと考えられるところのことである。

近代の主体主義は いっさいの現象を同一化し 全体化し 統一性の上に組織しようとするが それは 分裂した個体性の亀裂をふさぎ 原理的にも事実的にも存立不可能な幻想的同一性というイデオロギーでふたをしようとする。われわれは 反対に 事実として存在する個体の分裂性をありのままに承認し 分裂を分裂のままに生きうる可能性を探求した方がよい。

分裂した異感状態にある個人ではなく 《同感人を出発点とする個人》が 《原理的にも存立不可能な幻想的同一性》であるとするなら 何のために 社会構造たる《多様性のネットワーク》を身に引き受けるのか。あるいは 主語を取り替え 条件文を取り払っての同じ問いとなる。そうでなければ われわれは――まったく構造社会を身に引き受ける必要はなく あるいは そもそも初めに出発点で 《異感人としてほとんど生まれ落ちたときから身に引き受けてしまっている》ということであるのだから―― わざわざ 異感人状態という《分裂を分裂のままに生きうる可能性を探求した》必要は 生じない。むしろ 《事実として存在する〔心理起動力の方面での社会構造的に有力となっている〕個体の分裂性を ありのままに承認し》ということは この個体たちに 《異感人》という架空の同一性出発点をおしえ これによって《ふたをしようとする》ことではないのか。それは そうだとしたら そもそも初めに《承認》されていることなのだから 二重となるであろう。
すなわち すでに異感状態を承認したから 分裂しているのであろう。また 分裂状態が そもそもの初めであるのなら これは 必ずしも《分裂》という言葉をもって言うほどのものではない。分裂こそが正常であるなら。つまり 正常という言葉が悪ければ ふつうの状態なのであるなら。
(つづく→2008-02-25 - caguirofie080225)