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哲学いろいろ

#68

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》i

§13−6 山口昌男歴史・祝祭・神話 (中公文庫 M 60-2)》 (つづき)

もし山口に対してわれわれが この文章にかんして言うことを持つとすれば 《そこに成立した〈鎮魂〉の説法 つまり ここに成立したトロツキーら詩人たちへの鎮魂のうた これにおいて トロツキーらと同じように山口という仲介者自身が 血の〈犠牲〉に供されなければならない》というふうな読みを われわれ読者に あたえているのではないか。この問いである。
われわれは もっぱらの心理起動力を無効と言ったが その起動力の主体存在とは おつきあいするのであるから その交通の過程で 犠牲となることを(つまり 踊らされることを) まったく否定するということではなかった。このとき しかしながら 犠牲を 事前に・目的として 想定するものではなかった。おつきあいする〔関係存在〕ということは 決して もっぱらの同感動態人となってではなく(つまり 接触と対話とのもっぱらの交通人のようになってではなく) 地霊の放射は 無効ですよと指摘してあげ それでも止まなかったなら 好きなようにさせ放っておく。それでも 地霊の報復を招くなら――なお無効ですよと言いつづけ 時に法律に触れる行為に及ぶなら それとしての対処も必要かも知れない そうして―― 犠牲にならなければならない事態に遭うのなら なお緊急避難・正当防衛を否定せずに しかし これを引き受けるであろう。つまり 放射線の被害にあうという犠牲 これは すでに引き受けていたものなのであり 実践の方針に 変更はない。
山口は あいまいな同感つまり宇宙感覚による広大な同感のもとに 地霊つまり必ずしもその主体存在のほうではなく行為のほうとしての心理起動力じたいとも とことん おつきあいする使命者のような仲介者となることを うたっているようである。だからそれによって みづからも トロツキーらと同じように《血の犠牲》に供されなければならないであろうと いうとすれば予言しているか それとも むしろ先取りして仲介者たる身分を明かすならば 地霊の報復は 血の犠牲にまでは 至らないであろうと 読んだ上の一つの実践形態だと言おうとしているのか。
われわれは 《〈存在〉の秘密をあばいた》というよりも 《出発点存在からの背感そして異感状態の秘密を そうだとしたら あばいた》ことになるかも知れない。直接そうは言わないけれど つまりあばくつもりはさらさらないのであって たとえ原罪というふうに背感のことを 直接言ったとしても これが癒やされたというところの同感人出発点のことをやはり 明確に言っている。そういう議論ではあるけれども 事態としては 《あばいたという事実》は 相手の心の中に 明らかに残るかも知れない。ちなみに 仲介者となる山口は 必ずしもこのように 相手の本人個人に対して あばくということは なさらないのかも知れない。われわれは もっぱらの仲介者となることはないから つねに当事者個人として 相手の当事者個人に対して その地霊の放射は無効ですよと指摘する。あなたは わたしの心の足を踏んでいますよということである。だから あばく のかも知れない。
山口は こういった場に 第三者たる仲介者として 一般社会的に 介入してくる。むしろかれは こう言うかも知れない。つまり わたしたちの行ないが それは 道化やトリックスターの振る舞いなのだから 異感状態の無効をあばいたとしても ゆるしてあげなさいと わたしたちの相手に さとすのかも知れない。あるいは わたしたちとその相手とが 逆であるかも知れない。
さとし切れない場合があるのであって あるだろうから そこに成立した鎮魂の説法において 仲介者自身が わたしたちとその相手とになり代わって 血の犠牲に供されなければならなくなる。これが 歴史・祝祭・神話なのだと 結論するのか。この場合の《仲介者》とは だれのことか。われわれは 無効行為を無効ですよと指摘したとき そこ鎮魂の説法を成立させているのか。もしくは 第三者なる仲介者からの鎮魂を 願っていたか。トロツキーは 鎮魂の詩人として 踊ったのか。われわれは もし おせっかい気を出さなければならないとしたら トロツキーに代わって 墓を白く塗るのは止めてくれと言う。《わたしはわたしだ》。
少なくともわたしは これで 山口の思想とわたしたちのとの違いを 明らかにし得たと考える。あとは 主観の問題である。見解の相違という問題で ひとまづ済ますことなのだから しかもなお対話を絶やさないために 言うとすれば このように山口の思想において なお《自死の日本史》は――新しい形態になってだが―― つづいているのを見る。新しい形態というのは はたものを讃えるはたもの志願者ということである。聖なる観念心理の死。
自死と――あるいは自死を――いうならば われわれは古い人間として 意志的に死んだのである。心理起動力の地霊をまったく免れたというのではない。無効だと知っている。詩人たちのように やられることはない。もしくは 詩人たちは仲介者となって やられたと わざわざ〔一般的な思想として〕 もう見ることはない。うたつことは ない。トロツキーは 出発点の同感人であることを保持しようとした。ただ これのみが強くて 対話交通はおこなうが 接触交通の面でなおざりであったかも知れない。言いかえると 心理起動力の地霊の無効であることを知っていて しかもこの知が強すぎたのかも。あるいは山口の言うように 《多くの伝統文化は このなにものかに形を与えることを文化の叡智として知っていた》ということが トロツキーにもあたはまるのだとするならば(――つまり トロツキーは 演劇の重要性を言い 文化の叡智を知っていたというふうならば――) トロツキーは 《〈存在〉の秘密をあばいた》のでもなければ 《〈鎮魂〉の説法を成立させた》のでもなく ふつうに生きたのである。英霊としてまつりあげる必要はないだろう。すでに自己を知っている存在であっただろう。
ただし 演劇の重要性とは 心理起動力が《交通の神話的基礎》だからではなく すなわち――《神話症的》の基礎だからということにもなるが―― 演劇がこの《なにものかに形をあたえる役割を果たす》と見るからでは ほんとうには なく 表現行為の一手段・一形態であるという普通の見方に立ってである。ついでに言えば いわゆるカタルシス理論も おかしいと思う。もしくは カタルシスというならば それは 無効の地霊のはたらきが 癒やされ浄化されると見るのではなく 有効の同感人出発点に同感すること・すなわち 無効は無効だとわかることである。心や魂の浄化がないというのではない。しかし その聖とそして俗との循環では つまらない。
わたしはまつりの復活を言ったことがあるが 心理起動力を交通の神話的基礎としないためである。もしくは 神話症的の基礎だとわかって そのあととしてである。心理起動力を出発点としないし ならないということを 確認し表現するところの祭である。すなわち 何かの行事を含んでも含まなくとも 日常の接触および対話としての交通のまつり。確認というよりは 自己が還ったその自己の自乗と言ったほうがよい。まつりと言って 一種のタカマノハラ理論の用語でいうのは 出発点同感人が 接触や対話のときの人間現存や思考表現のようには 目に見えるものではないものだからである。そこにいる人間や表明された思考 これらは 精神活動の対象として 具体的であって 目に見える=つまり容易に認識できる。同感人出発点は 必ずしもそうではない。ということは 逆に言って この出発点は その精神活動のすでに主体である。つまり同感人出発点のことであることを 自明のものにしている。謎を深めるようであってはいけないけれど まつりは日常のないし経験の用語だから 一例として これを用いる。同感〔人であること〕は 精神の共食(つまり まつり)であると表現できる要素がある。
(つづく→2008-02-24 - caguirofie080224)