caguirofie

哲学いろいろ

#66

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》 g

§13−5

(1)

キリスト教は キリスト磔刑によって そもそもの起源から犠牲への道に踏みこんでいた。それゆえキリスト教はそれだけ一層厳密に犠牲と自殺とを区別し 《意志的な死》の領域に許され賞讃されるべきものと 禁じられ忌避されるべきものとを区別する必要にせまれられうる。
(第八章)

というが そもそもの初めから 

キリストは わたしたちのためにのろわれた者となって わたしたちを律法(法律・道徳規範)ののろいから あがない出してくださいました。――

木に懸けられた者は皆のろわれている。
申命記21:23)

と聖書に書いてあるのです。
パウロ:ガラテア書3:13)

パウロが言うのだから 自殺はもちろん犠牲に対してさえ 基本的に否と考えていると言わなければならない。観念心理上の愛・正義・法 これらに殉じるという自死 これは呪いであり 木(十字架)にかけられる犠牲も 呪いである。供犠による文化である。同感人潜在の時代思想・その名残りである。
(2)ひょんなことから このようにこの節では 先行の諸節をまとめてみようとして 護教論を展開するはめになった。やむをえない。
(3)それでは なぜ パウロやあるいはそのほかの使徒たち あるいは各地域での宣教の初期における信徒たちは 犠牲になったのか。もいこういう議論が必要だとするなら キリスト・イエス以後には 自殺はもちろん呪われるような殉教の犠牲さえ もはや無用とするためにかれが十字架にかかったのであるのに 依然として 無用とされなかったかのように なぜ おこなわれたのか。これに対して答えなければならない。《宣教という愚かな手段》をよしとするために よしとしたからには 神の子イエス・キリストだけではなく ふつうの人間が 同じように十字架にかからなければならなかったのである。
エスの弟子のうちヨハネは別であったが 人間の歴史のうえで そういう事実経過をとった。
(4)《〈意志的な死〉の領域に許され賞讃されるべきもの》など ない。わざわざ《禁じられ忌避されるべきものと区別する必要》などない。《禁じ》たのは むしろ外面的な社会文化がである。《許す寛容》も 同じくであるように。ただし 《殉教》は 好きこのんで 《自殺》したのではないだろう。《意志的な〈犠牲〉》 こういう場合は あったかも知れない。犠牲が好きだったからではなく 同感人出発点の同一にとどまることが好きだったからである。また 言うとすれば 迫害するほうの人びとも 出発点は自分たち(迫害する者たち)とおなじ同感人であるのだということを どうしようもなく好んだからである。能力によって かれらは 背感することができなかった。迫害という背感・異感の無効の行為に対して 背感をもって のぞむことは出来ない。迫害者とたたかうのではなく 無効行為と戦うのであるから。迫害の拷問と闘うのではなく 自己の背感と闘うからである。おれは背感しないというふうな確信が持てないことと闘う。犠牲を引き受ける以外に 闘えないなら やむを得ないであろう。どうしてこれが 自殺なのか。あるいは 第三者から見て 人間的な表現では《自殺》でもあるだろうか。
(5)すべての人が 背感の罪を背負った存在であるなら もう背感と闘う必要はないではないか。無効行為も人間のものとして みとめなさい。そうは行かないのである。同感人出発点を立てたからである。ところが 近代人は みな 立てているのである。そうでなければ 法治社会をとることはないであろう。
(6)いや 法律や道徳は 建て前であって 本音は 異感人だという人がいたなら どうするか。人間文化の問題だが それは 法律や慣習の違反である。いやいや ときどきは違反を犯すが 法律や慣習をも立てて 世の中まあるくおさまるのであるという人がいたら どうか。それは 法律や供犠(犠牲)の文化じたいの問題である。一定の違反には しかるべき処置が取られるであろう。なぜそうされるのか。同感人出発点だからではないか。異感人どうしの間で どうして 取り決めが必要か。どうして ことばが必要となるのか。
(7)いやいや 権力をにぎる人びとは そういう方面で ホンネとタテマエを言ったのだというなら どうか。自由である。そういう見方をする異感 そういう意志的な死 この自己背感を その人たちは選んだのであろうから。わたしたちは 行為の方面の自殺には 関与しない。つまり 存在じたいとの関係を出発点におくことだが そのとき しかも 行為や思考の方面でこそ われわれの自分の考えを述べる。つまり批判もする。したがって その行為や思考が もはやその人の出発点のことなのだと同じその人が表明するのなら それに対してわれわれは無効だと思うと指摘するが 内政干渉は出来ない。
おそらく異感状態にある人びとは この行為の方面にこそ 大いに関与するかも知れない。つまり 互いに まったく世の中はどうしようもないものだよなと言い合って 慰め合い 心理起動力の同情のうちに 生を終えていくであろう。われわれは 内政干渉しない。ただそれは 無効だと言ってあげるのみである。存在出発点としては だれとも ひとしく関係存在のあいだがらである。
(8)われわれは 同感人出発しか 為し得ない。能力によって そのほかの行為を為し得ない。
(9)自死に対してわれわれは 否と言う。いや 否でも諾でもあるという議論も成り立ちうるから こう言おう。否とも言わないし 否でないとも言わない。諾とも諾でないとも言わない。だが おそらく 有効でない。つまり能力によって それは為し得ないことだから 無効であるだろうと。
(10)この考えが――つまり同感人出発の理論が―― 社会文化的に 権力機構の思想内容として 《自殺の禁止》とかあるいは《自死に対する寛容》とかに 成り得た。それぞれとしての法治社会の中の一形態である。もちろん この思想動向・文化の形態は 変わりうる。
(11》触発の文化は この同感人出発点のあとの踏み出し行為に対して そして特にその中で接触の心理起動力によっておこなう事実行為に対して まわりまわった間接的には はじめの同感人出発点を人びとに想起させようとして 支配的な権力のもとにある文化・思想を 批判する。つまり総じて 権力と闘う。
(12)こういう触発の文化たる行き方は 言って見れば良心的なのであるが なぜ権力と闘わなければならないのかを 明らかにしない。あるいは ただ反対運動をくりひろげ 言いっ放し・告発のしっ放しに陥らないとも限らない。ささやかな同感動態を得られるというなぐさめを 触発の文化人は 盾とするかも知れない。同情の文化に変わる。
(13)この意味でも 触発の文化は 権力の迎えるところとなる。そして大いに 告発もしてもらいたいと やはり思われているところのものである。権力とは その意味で 生と死とに対する至上権をゆだねられているところがある。法律は 供犠文化であり 呪いとなるが それじたいは 聖である。(聖とは 生活態度の確立にかかわる。確立したなら 聖アウグスティヌスというふうに 人から 認められる)。つまりこれも 同感人出発点(いまは 自然法と言ってもよい)から出発している。権力側の法律を中心とする供犠文化も 権力側の法律を中心とする供犠文化も それの心理起動力性の部分(つまり 対話で対話が省略された部分)を告発する触発の文化も 同感人出発を 出発点としたのであるし これを到達点としても目指している。だが いつまでどうして あす また あす なのか。
(14)わたしは きょうただちに 素晴らしい同感動態が実現すると言ったおぼえはない。ただし この同感動態の過程は ただちに きょう・このいま・ここでの 生活日常のできごとである。告発や触発や同情や あるいは供犠文化の秩序そのものやを 目的としないということである。
(15)対話交通における表現行為のあり方が――思想の方法と言ってもよいそれが―― いま謙虚ゆえに確信をもって踏み出しているか それとも あすのあかつきを目指して いまとしては 確信の持てなさに対して同情し合っているか このいづれかで ちがってくる。それは 権力者あるいは一般に 無効行為をおこなうその人に対して 闘うのか。それとも 行為の無効じたいに対して闘うのか これで ちがってくる。
(16)人に対して闘うのは 文化論の体裁をとりながら 強い者・加害者に向かって告発し 弱い者・被害者に向かっては同情するところの まぼろしの現在主義である。現在とは 同感人出発点のことだから これが 聖なる永遠の現在として 結局は 心理起動力において 後生大事に抱かれている。
(17)接触・参加の心理起動力は 大きく出発点推進力に包摂されているから まぼろしの現在も 同感人現在に包摂される。異感状態は 同感人のできごとである。
(18)異感状態は無効である。あるいはさらに この《異感状態は無効である》ということが 有効な現在出発点であると 考えられる場合もあるのだろう。これらに対して――つまり 異感状態と認識した状態に対しても またこの状態を無効だと言うそのことの現在(現存・実存)を 出発点とする状態に対しても―― わたしたちは 知らないと言う。嫌うということである。一つに 無効状態は 有効は出発点からのものでなければ また一つに 無効行為を嫌うことは 出発点に立つ有効な道を知っているからでなければ いづれも 知り得ない。
(19)異感状態にある人(つまり 人としては 異感という一つの状態に陥ったかれの同感人出発点のほう)を愛しなさい。かれらを愛させなさい。人は自分になりなさい。心理起動力によって立てた永遠の現在という彼岸を 捨てなさい。あるいは そういうものとして《彼岸》は持たれると知って 放っておきなさい。いま ここで 生きなさい。永遠の現在は 《わたし》の内にある。心理起動力による想像の世界においても このことを人は見たのであり そして同意したから これを抱いているのである。だが その見たとか同意したとかいうことは(その能力行為もしくは行為能力じたいをも大きく含めて) わたしのものである。すなわち 同感人出発点の現在である。その現在のものである。しかし わたしは その行為や能力や 見たことや同意そのものではない。
(20)ふだん使われているような意味で言っての 《はじめにロゴスありき》。つまり 人間の論法で言って 《出発点に 行為能力の主体たる同感人あり》。
(21)異感状態とは この主体存在をではなく 行為能力ないし能力行為(《われ考える》)を 心理観念の世界で 出発点と見なすことである。
(22)たしかにそうだと分かっている人は しかしながら時に なお この心理観念(また想像)の世界の中に はじめの出発点=同感人存在を えがいてみせる。もっぱらの心理起動力は 無効でも この世でけっこう有力であるということに 未練があるからである。かくて 基本出発点は 彼岸のかなたへしりぞく。そのほうが 上品で高級だと思っているのか なにか《目指すべき星》となる。星とする。星として掲げる。彼岸や星であっても 人がその心に抱いているのだから 自分は いまここで実践する現実存在だと うそぶき 思い込むようになる。縮小構造である。縮み志向?
(23)これをさらに 心理観念的な世界(それとしての人間関係)のことだけなのでなく それは精神=自己が 同意したものなのだと考えるようになると その意味で 精神の共和国が出現する。これは 縮小構造を超え 歴史動態的な見方へも たしかに 展開されていく。ただし そのような或る種の掟・あるいは柔軟な倫理規範が なおそこには 見られると思う。これが これでも 類型的には同感関係にある人間どうしの交通動態であると 主張するようになるし たしかに大きくは あいまいなかたちで そのとおりである。
(24)あいまいでなくするには もう彼岸という必要はない。夜空のかなたの星というふうに――犠牲者あるいは単純に 偉大であった聖なる死者というふうに―― 《現在》時点から わざわざ聖別する必要はない。それは 自己の内にあるし 自己なる存在主体が 能力行為によって えがいたところのものである。
(25)われわれは ここに立とうと どこまでも えらそうに 言い続ける。知ろうの彼岸や偉大な星の想定 そして これによって自己をもまた他者をも 起動せしめる(活性化する・元気づける)というのは ちょっとえらい(=謙虚ではない)。自分が想定したということをはっきり言うべきである。もしくは対話交通において自分はそう考えると ふつうに言えばよい。そうすれば 互いに謙虚にあるいは普通に 話し合いを進めていける。
(つづく→2008-02-22 - caguirofie080222)